猫もよろこび庭駆けまわる
久々のお風呂は、本当に気持ちよかった。いつもはそんなに長湯じゃないんだけど、今日は一時間近く入ってたかも?
半分くらいはジヌラのせいなんだけどね。そのジヌラは十分ほど前にのぼせて上がっていったんで、やっとあたしも湯舟から出ることができたわけ。
用意してもらったタオルで身体を拭き、服を着る。生成りの白の着替えは紐で前を結ぶタイプの上に緩めのパンツ――っていうかこれって作務衣? 生地は光沢があって麻っぽいけど、実は元の世界では綿麻混とかレーヨンが入ってるのしか着たことないのよね……。
借りたタオルは洗ってくれるそうだけど、自分の服は自分で洗うのが基本。洗濯はあとでするとして、場所と使い方のルールだけを近くにいたメイド姿の《咎人》に教えてもらった。丁寧だし要領もよくてわかりやすかったわ。
ここの《咎人》たちは、これまで見かけた他所の《咎人》たちと比べて、礼儀正しいし可愛らしく見える。頭陀袋じゃなくてちゃんとした綺麗な服を着てるってのが大きいのかな。普通の女の子に比べると表情はやっぱり乏しいけど、でも少なくとも無気力で死んだような目とか怯えて縮こまった様子とかは全然見られない。
あ、ギルラン商会の獣人たちは、ちょっと別ね。あの娘たちは愛想がいいというか人懐っこかったから。プロ意識が高いのか、獣人の性質なのか知らないけど。
「お部屋はこちらになります――」
そういって案内されたのは二階の一室。これまで泊まった宿と同レベル、ベッドと簡易シャワー魔道器がついている。共同風呂があるのに各部屋にシャワーがついてるってやっぱり贅沢。
贅沢なのか標準なのか、どっちにしろひとり部屋なのは間違いなし。ルルリリは小さいから大丈夫だけど、ソネミと一緒のベッドは無理よね……。ってか、そういやあたしは男の身体だったんだわ。いくら中身が女でも、向こうが嫌がるわよね。
そもそも風呂も別々だって叱られたんだし、と思ったら、用意周到、ちゃんと別の部屋があてがわれているらしいわ。
涼もうと階下に降りると、ソネミが食堂の端っこで氷入りのお茶を飲んでいた。贅沢な! 南東の町の宿には氷を作る魔道器なんてなかったんだから……ギルラン商会にはあったけどね。
「なにもそんな隅っこに座んなくたっていいじゃん?」
「いえ、あたしなんか……」
横にいるスタッフっぽい《討伐者》は黙って微笑んでいるし、端に寄れって命令されたわけじゃないんだろう。ただソネミが奥床しい性格というか、《咎人》だから遠慮しなくちゃって意識が強いみたい。
風呂上がりで頬が上気しているのソネミの顔は、若い娘らしく生き生きとしている。着替えもちゃんと合わせて用意してくれたのかな、臙脂色っぽいエプロンドレスに黄色い髪が映える。
「可愛いね、すごく似合ってる」
ソネミの頬が、さらに真っ赤に染まった。ってか、恥ずかしいのはこっちだよぉ……。イケメン補正がなければ許されないような台詞を、思わず素で口にしてしまったわ。
「チーロ様のお部屋は二階のどちらでしょうか?」
「うん? ぁ、わたしの部屋は右手の三番目だったかな?」
ではお隣ですね、とソネミはにっこりと笑う。
「チーロ様と一緒の部屋にとお願いしたのですが……」
流しの脇で熱心に鍋を磨いていた《咎人》が「とんでもない!」といった視線をこっちへ向けてくる。
そりゃ無理ってものよ、ソネミさん。だって仮にも赤の他人の男女なんだから。あ……もしかして奴隷の首輪の登録をしたから、そういう目的だと思われちゃった?
「そういえばソネミ、怪我は……治ったの?」
首を斬られた痕は……? 興味というよりは、半分以上は恐怖。怖いもの見たさでソネミの首元へと手を伸ばす。
白い襟の中に上手に隠しているけれど、黒い不格好な首輪は相変わらず健在だ。《咎人》に寛容なこの里でも《咎人》の証は外させないのか、それとも外せないのだろうか? そんなことを考えながら首輪に指をかけて上下にずらしていると、いつの間にかスタッフっぽい《討伐者》があたしの真後ろに立っていた。
「……お止めください」
一気に湯冷めしちゃいそうな、押し殺した冷たい声。こういうのを殺気っていうのかしら?
バンッとテーブルを叩いて立ち上がったソネミを目線だけで押し止める。ってかこの娘、可愛い顔して意外に喧嘩っ早い?
ビビって身動きできないあたしは、口先だけで懸命に言い訳だ。
「前に怪我してたから治ったかどうか確認しようと思って……」
「傷は一切無いことを入浴の際に確認しております」
あ、そうですか……。そりゃ、どうも。木で鼻を括ったようっていうの? お前には関係ないとばかりの、ずいぶんと素っ気無い返事よねえ?
あたしがちょっとむっとしたのに気がついたのか「チーロ様……」とソネミが呟く。あ、ごめん……止めたそばから喧嘩売っちゃ駄目よね?
「ってかさ、ソネミ。その様ってのはやめてよ。千尋でいいよ」
「チーロ……さん?」
ま、いっか……。千尋がチーロになるのは構わないとして、さん付けも、まあ、許容範囲よね? あたしの感覚では同年代なんだけど、こっちはおっさんな分、老けて見えるのかもしれないし……。
あたしの知る限り、ルルリリはカラスの行水とまではいわないけど、あんまり長湯は好きじゃないはず。今日はあたしは思い切り長湯したし、当然、ルルリリはとっくに上がっているはず。なのに、その姿がさっきから見当たらない。
「そういえばルルリリは?」
忙しく台所仕事に勤しむ《咎人》たちの中、ピンク色の髪の毛がひときわ目を引く。十中八九、ルルリリを風呂に入れた娘に間違いない。
「翼の生えたチビちゃんなら、お庭で遊んでいます」
食堂の奥、玄関と反対側はテラスで、そのまま庭に出られるようになっていた。テラスっていっても庭よりちょっと高くなってるし、かなり狭いんで洋風の縁側って感じ?
庭先でルルリリは跳ねるようにして遊んでいた。ひとりじゃないから、正確には遊んでもらっていた、かな?
お相手は大きな犬。クリーム色の垂れ耳の……ゴールデンレトリバー? 毛並みと同系色のシャツとズボンを人間みたいに着ている。
庭の真ん中に蹲るゴル。少し離れたところから、様子を窺うルルリリ。耳はぺったりと伏せられ、カギ尻尾がぴこぴこと横に揺れる。お尻をもこもこと振りゴルに向かって飛びかかった――と思ったら、斜め横方向にツツツッと走る。カギ尻尾が精一杯ぴんと伸び、ぱたぱた翼が動いて身体がひょいひょい浮き上がる。
やん、可愛い……。不器用な子猫が、一人前ぶって獲物を狙ってるみたい。
ゴルの右側から左側へと移動したルルリリは、伏せて狙いを定めるところから、またやり始める。ゴルは低い姿勢のまま、ルルリリの動きを顔で追う。細めた目が笑ってるみたい。飛びかかってきたルルリリを足先でひょいと受け止めたり、鼻先でちょいちょいと転がしたり。身体はめちゃめちゃ大きいけど、優しいワンちゃんだわ。
ってか、ルルリリ、お風呂入ったばっかりよね?
「ルルリリ、せっかく綺麗になったのに、また泥だらけになっちゃうよ」
顔の筋肉を全部前に寄せて狙いを定めていたルルリリだけど、あたしの声にはすぐに反応してこっちを振り向いた。猫っぽさ、獣っぽさがぱっと引っ込んで、代わりに幼女っぽい甘えた表情が浮かぶ。そのまま羽ばたいて、あたしの腕の中へと飛んできた。
「チーロー、チーロー! おーそー、おーそー!」
「ああんと、ごめんね。久しぶりだから長湯しちゃったんだ」
片言の「おーそー」ってのは、たぶん「遅い!」って意味。ちっとも風呂から出てこないから寂しかったんだよー、とルルリリは全身で訴えかけてくる。肩によじ登り、あたしの頭に自分の頭をぐりぐりと押しつける。
可愛いんだけどさ……呼びかけるまで、あたしのことなんて完全に忘れてたよね? ワンコにじゃれるのに夢中だったよね?
誰がコーディネートしたのか、ルルリリはチョコレートピンクのチュニックの下にチャコールグレーの半袖シャツを着せられている。この組み合わせ、なかなかいいセンスだわ。似合ってる。でもせっかく着替えたのに庭で転げまわるから――。
「ほらほら、ゴミがついちゃってるよ」
翼を避けて襟首を猫つまみ。スカートについた草の葉を払い落としてやると、ルルリリは嬉しそうにきゃっきゃと手足をばたつかせる。
落っことさないように、苦労して何度も抱っこしなおす。と、陽向の庭にふっと影が差した。
「スイマセンでしただ。オラが庭で遊ぼうって誘ったもんだから……」
お、おおっと!! びっくりしたあ……! 突然、頭の上から声が降ってくるんだもん。だ、誰よ……?
振り向いた目の前には薄茶色のシャツがあった。開けた襟元から覗く胸毛は柔らかそうな薄茶色……? そのまま視線をつうっと上げると、優しく微笑みを湛えた瞳にぶつかる。胸元と同じ色の毛に覆われた顔、そして……垂れ耳?
「あ……その、ウチの娘が遊んでいただいたみたいで」
お礼をいわなくちゃって思うんだけど、心臓がバクバクして口がよく回らなかった。犬が口をきいたからびっくりしたっていうか、見上げるような大男だから驚いたっていうか……。
「ガウガウー! ガウガウー!」
楽しげな調子で意味不明な歌を歌いながら、ルルリリはあたしの手を逃れてでっかい人型ワンコのほうへとパタパタ寄っていく。人型ワンコは鼻面にしがみつこうとするルルリリを、ふわりと優しい手つきでキャッチして抱きかかえた。
「オ、オラ、ガルガウィいいますだ」
でっかいワンコあらためガルガウィは、ルルリリを肩に担いだまま、大きな身体を縮めるようにペコリと丁寧に頭を下げた。
あ、「ガウガウー」って、ルルリリはワンコさんを紹介してくれてたわけね。でもせめて名前くらいは幼児語じゃなくて普通に発音してくれないと、全然、聞き取れないんだけどな……。ま、いっか。当人が名乗ってくれたし。
ゴールデンレトリバーっぽい顔のせいか、ガルガウィはそこそこ賢そうに見える。言葉遣いがたどたどしいのは知能の問題じゃなくて単に訛っているっぽい。ま、言葉の聞き取りは脳内自動翻訳の影響があるし、それ以外は漠然とした印象だけでなんの根拠もないんだけどさ。
でも問題はそこじゃないわ――。
犬の顔。犬の耳。犬の毛の生えた手足。そして人間の体型。これって……獣人よね?
獣人って《咎人》。《咎人》は女しかいない。そういう話じゃなかったっけ? 違った?
この巨体、この声で女ってことはないわよねえ? でかい女性だっていなくはないし、声だって獣人だから低音なのかもしれないけど……でもやっぱり男にしか見えないんだけど? いや《咎人》の標である首輪は見当たらないけどさ……。
「あの……ガルガウィさんって……?」
「お察しの通り、獣人ですだ。里で飼われておりますだ」
「獣人って……? じゃなくて、え? 飼われてるって……?」
「はあ、長様はお優しいお方で、行くところがないオラを可哀想だと、そこの小屋で暮らすことを許してくださいましただ」
「ここの里ではあまり獣人は歓迎されないんだが、彼みたいな獣人は珍しいってことで特別扱いされててね」
いつの間にかテラスにジヌラが出てきていた。その視線の先には小屋っていうか犬小屋? それの巨大なやつが庭の隅に建てられている。
ってか、こういうのって殊勝な態度っていうの? なんか違和感……。穏やかで優しいガルガウィの表情が、大型犬特有のものじゃなくて、単なる諦めの心の表れに見えてくる。
彼の事情も、里の状況もなんにも知らないんだけどさ……。でもゴラゾラから守ってくれたことも、あたしらを受け入れてそれなりに歓迎してくれてることも、急に嘘臭く思えてきた。無条件に信用しちゃ駄目よね、と自分の心に釘を刺した。
「そうそう、チーロさんよ」
ジヌラがそう呼びかけるのと同時に、ガルガウィがはっと顔を上げ、鼻をすんすんと鳴らした。
「長様……」
低く呟いたガルガウィはルルリリを肩に乗せたまま、さっと膝を地面につき、頭を垂れた。
ジヌラの言葉の続きはこうだった。
「里の長殿が、あんたにお会いになりたいそうだ」
はっとして振り返ると、テラスの出入口の間近で、黒いローブ姿の立派な風采の人物がこちらに向かって微笑みかけていた。




