あたしは〝これ〟で会社を辞めました
事情あって失業して六ヶ月、ようやく次の就職の目処が立ちました――。
ってことで、あたしは自分へのご褒美に缶ビールをひと息に飲み干した。
両親が生きていたら「女らしくしなさい」とか「職を探すよりさっさと嫁にいけ」といわれるんだろうけどね。口煩い義姉には「居候のくせに」と嫌味もいわれそう。
前の会社では社宅だったので、住む場所を失ったあたしは実家に転がり込んで居候中。あたしの部屋はすっかり物置と化していたけれど、頑張って片付けた。今ではここだけが、あたしの居場所、あたしの城だ――なんて感慨をぶち壊すように、ドアが勢い良く開かれた。
「千尋おばちゃん、いる?」
入ってきたのは甥っ子の茂樹、中学三年生だ。
「ちょっと、あんた部屋に入るときにはノックぐらいしなさいっていってるでしょ!」
「別にいいじゃんか、俺、オバサンに欲情なんてしないよ」
「欲情って……」
中学生のくせになんて言葉を……!? でもこのくらいの歳の男の子って、イヤラシイ妄想の塊だっていうしな……。共学校出身でも男子とはろくに口もきかなかったから、本当のところはどうだかわからない。彼氏いない歴=年齢は伊達じゃない。
まあ、それはいいとして、でもこれだけは許せない。
「ところであんた、乙女に向かってオバサンって何よ?!」
あたしはたしかに茂樹のパパの妹だから、叔母さんなのは事実。ぜんぜん間違っていない。でもさっきの茂樹の発音は叔母さんじゃなくて絶対にオバサンだった。これは断じて許すわけにはいかない。
「ママがいってたよ、三十路過ぎればみんなオバサンだって」
「あたしはアラサーだけど三十路じゃないから」
アラサーは四捨五入、三十路は三十代だから範囲が違う。
「んじゃあ、仲良く二人ともアラサーのオバサンってことでおk?」
「あんたのママはアラフォー! 一緒にしないで!!」
「へえ、そういうこというんだ。ママにいいつけてやろ」
「…………」
茂樹はジト目で、あたしのことを見上げている。こういうちょっと嫌味っぽい顔は、ママによく似ているわ。あたしの苦手な女子力の高い兄嫁、義理の姉。
「ってか、千尋ちゃん、俺の歳の倍でしょ? 俺にとってはアラサーだろうがアラフォーだろうが大差ないよ」
ついでにいえば兄=茂樹のパパは、茂樹の三倍の年齢。つまりあたしは茂樹と兄のちょうど中間。
そっか、兄さんとは歳が離れているから茂樹のほうが姉弟みたいなもんだと思っていたけど、年齢差はどっちとも同じだったんだ……。「おばちゃん」じゃなくて「千尋ちゃん」って強引に呼ばせてたけど、やっぱり無理があったかしら……?
「ああ! もういいわよ、それで……で、何の用?」
「千尋ちゃん、スマホの配送、今日だっていってたじゃん」
「あ、そうだっけ……そうだった、ごめんごめん」
そういえば格安スマホの設定をやってと茂樹に頼んでいたんだっけ。
失業中は兄一家の家族割に入れてもらってたんだけど、仕事が見つかったら通信費は当然自分持ちになる。どうせなら節約しようと格安スマホにしたんだけど……機械オンチのあたしには難しすぎた。
「千尋ちゃん、本当に使いこなせる?」
「大丈夫でしょ。設定さえやってもらえば、使うぐらいはどうにかなるって」
格安スマホが送られてきた箱は、角が丸まったりといかにも中古って感じ。でも安く上げることが重要だからこれでかまわない。
茂樹は裏蓋を開け、何だかちっちゃなカードを抜いたり挿したりしていく。
「千尋ちゃん、セクハラで会社辞めたって本当?」
手際いいなと秘かに感心していたら、いきなり直球の質問を放り込んできたわ、この子。
「まあね、ちょっとね……」
あたしはセクハラの当事者じゃないんだけど、辞めた理由にセクハラが関係しているってのは嘘じゃない。
「木村ってオヤジがいてね、水原さんって女の子がそのオヤジのせいで辞めちゃったのよ」
木村さんというのは口を開けば下ネタばかりのおっさん社員。下ネタといってもエッチ系じゃなく、ウ○チやオ○ッコとかの幼稚園児並みで、そもそもギャグとしてダメダメなんで愛想笑いも難しいわと、女子社員一同うんざりしていたのよね。
中でも集中砲火を浴びていたのが新卒初々しい水原さん。生真面目な性格みたいで、さらりとかわすことも、ましてや冷たい視線で撃退もできずにストレスを溜め込んでしまってた。
「それって単にメンタル弱過ぎなんじゃん?」
水原さんが辞めるとなったときの職場のみんなの反応も茂樹と似たようなものだった。あたしも、ね。
ただ、辞める直前にいちどだけ彼女と昼食に外へ行ったときのことだった。水原さんから打ち明け話をされた。
『子どもの頃に近所のおじさんに悪戯されたことがあって。年齢も体型も木村さんに近くて、木村さんが大声で笑うと思い出して身が竦んじゃって……』
それ以上詳しくはは聞かなかったけれど……もう少し精神的に強くなれなんて無責任なことはいえなくなった。
水原さんが本気で嫌がっていることにどうして気づかなかったんだろう。薄々察していたのに、なんで無視しちゃったんだろうって後悔した。
「で、その子を庇って千尋ちゃんが辞めさせられたとか? その木村さんって偉い人だったの?」
木村さんはお荷物社員だったし、あたしが水原さんの事情を知る前にすべては終わっていた。だからこの件はあたしの失職とは関係ない。
ただそれ以降、あたしはセクハラ関連にはちょっとばかり厳しくなった。
あるとき上司が特定の女子社員にだけ無茶苦茶に厳しいって気づいて、あたしはさり気なく止めに入った。けど状況は変わらず。人事に相談したら、あたしが退職勧告を受けた。
あとで聞いたら、その上司と女子社員は不倫関係にあったんだって。それを隠すために人前ではわざと厳しく接していた――ってのは周知の事実で、知らぬはあたしばかりなり、だったわけ。彼氏いない歴=年齢の面目躍如……ってこういうときに使う言葉だっけ?
ま、要するに、あたしのせいで関係が表沙汰になったと恨みを買った――そういうことらしかった。
「ま、慣れないことはするなってことね」
茂樹は顔中「??」だらけって感じで、首を傾げた。
しばらくすると茂樹は弄っていたスマホをあたしに向けて差し出した。
「はい、パスワード、決めて」
ユーザーサポートを受けるための登録画面らしい。
「ああ、面倒。茂樹、あんた適当に決めてよ」
「そんなこといわれても……じゃ、とりあえずパパの誕生日ね」
兄さんの誕生日――物心ついた頃には兄はもう大学生だったし、誕生日祝いなんてしたこともない。うろ覚えだけど、いつでも訊けるし、ま、いいか。
完了といって茂樹はあたしにスマホを押しつけると、ジャンプするように立ち上がった。
「じゃ、明日の面接頑張って」
「面接っていっても大家とだけどね」
「あ、それと例のもの、スマホに入れといたから。絶対に見てよね」
例のものというのはスマホの設定と交換条件のことだ。応援してくれていい子だと思った途端にこれなんだから……。
それでも、もちろん約束は守る。相手が子どもだからって誤魔化しはしない主義だから。
「わかった、わかった。明日までってのは無理だけど、ちゃんと読むから。ありがとね、茂樹」