宵闇の旅路に母の顔は見えず
あくる朝の、まだ朝日も昇り切らない時刻に、モルドレッドはエルドラスの森の地下神殿にいた。
モルドレッドは睡眠が人よりもずっと短くて済むような性質だった。昨夜夕食を終え、ランドルフより遊学を勧められてから、総じて五時間も経っていない。その間に体を清めたり、いつものように自室で剣の手入れをしたりもした。誰にもなにも悟られないよう、いつも通りに自室の寝台に体を横たえ、二時間とせずに体を起こしたのだ。
エルドラスの森に守られた最奥部の地下神殿はあらゆるものが白い鉱石で形どられていて、一切の光が差し込まない本来暗闇であっても、いつも魔力を帯びてかすかに発光している。その為に、神殿の中は薄暗い程度で済んでいる。
モルドレッドは長年の風化の果てに朽ち果てた神殿の一部であっただろう鉱石の欠片を手に取り、魔力を流し込む。すると白い鉱石はその内に紅蓮の炎を燃やし、くるりくるりと回転しながら数センチ浮上し、カンテラとなってモルドレッドの周囲を煌々と照らした。その赤い炎は、人工物を排したこの神殿の中に在ってはなんだか不釣り合いな気さえした。
炎を宿した鉱石に照らされるモルドレッドの恰好はいつもの騎士然とした高貴なものではなかった。
無論、彼の立ち振る舞い、顔立ち、雰囲気にあっては恰好などさしたる問題ではないのだが、紅蓮の礼装と白銀の鎧で構成された騎士としての服装ではなく、今のモルドレッドは、体の線にあった、黒く丈の長い衣服に全身を包んでいる。裾は足首にまで及び、腰まで入ったスリットの奥から、歩くたびに見える両足に辛うじて銀の足甲があてられていることで、彼の体の線を区別することができる。端端に細やかな細工が施されているとはいえ、その姿は昨日までの恰好に比べれば、随分と落ち着いて、言い様によれば目立ちにくいものだった。
神殿に住まう動物や妖精の息遣いを遠く感じながらモルドレッドが足を止める。歩きついた先には、大きく開いた空間があった。縦に長く太いのは通路で、数段の階段を上った先には四つの巨大な像が建てられている。
大槍を掲げ、荒々しい風に長髪を靡かせる美しい顔の男はアスティア。
水面のように体に纏った布を広げ、崩した膝と両手で空間を抱く女はウルティーネ。
斧を地に突き立て、柄に両手を添えて頑として立つ勇ましい顔の男はフンヌ。
中空に片手を差し出し、歌うように薄く開いた口元が微笑んでいるのはキルレドゥ。
いずれも、天地創造の張本人とされる四大神、その像である。誰が作ったのか、いつ作られたのかは、神殿がそうであるように一切分からない。
モルドレッドは、これまで通ってきた通路と、四大神につづく空間への境界線で立ち止まっている。つま先は、装飾の施された床石にぎりぎり踏み込まない位置で留まっている。
カンテラの鉱石を携えたほうとは逆の手を、前へ。
――ぐおん、と空間が歪み、手がそれ以上進むことを止められた。モルドレッドから見える四大神の像がゆらぐ。
光を捻じ曲げるほどの何かの力が、モルドレッドの差し出す手を拒んでいた。
「ここは、神の末席だ」
振り向けば、そこには忽然とエデが立っていた。昨日見たままの恰好と寸分違わず、白い布を巻き付けたような上半身から、黒いズボン、やはり足はむきだしの裸足だった。
「俺が寝ていたのはこの奥だ。行ってみる?」
「無用だ。長居の必要はない」
「そうか」
踵を返したモルドレッドに従い、エデもその後ろをついて歩いた。
「モルドレッド、その服も君によく似合っている」
「衣服にこだわりはないが。他人に不快感を与えないよう気は払っている」
「しかし、そんなに黒い服では君を見失ってしまう。まだ外は夜も明けきらない時刻なんだ」
モルドレッドは一度足を止め、神殿の入り口ももうすぐ見えようかというところで半身振り向いた。エデは無感情に微笑んでいて、その目は硝子のように透き通り、奥に頭蓋の裏が見えそうにも思われた。
エデはおそらく気づいているのだ。モルドレッドが最早出国の準備を整え、このままハルヴァラを離れる算段でいることに。いつもどおりに就寝するといって自室に戻り、誰にも気取られずに最低限の用意をし、衣服を着替え、自室を片付け、見張りの目を搔い潜り、皆が寝静まった深夜に城を出た。誰一人にも、父や兄は難しいとしても、直接姿を見られずに城を出たというのに、エデはおそらくその全てを看破している。衣服についてさりげなく話に上げたのがなによりの証拠だった。
モルドレッドが、エデさえ出し抜いて一人で国を出ようとしていたことにも、きっと気づいている。
「笑うか」
「笑う?なにか楽しいことでもあったのか?」
「俺のことだ。父が唯一の友と認めたその慧眼、――どこまで勘付いている?」
モルドレッドの手の内で燃える鉱石が宿す火をちらちらと明滅させる。蛇の舌のような動きに、エデは一瞥もくれず、笑った。
「それを決めるのは君だ。君は僕の友であって、俺は友の為に生きている。君が望むように、俺は応えよう」
ただ、君を独りで行かせることだけは出来ないけれど。そう言ってモルドレッドのわきをすり抜けてエデは神殿を出て行った。モルドレッドも遅れてそれに続いていく。
神殿の外はエデの言葉の通り、まだ朝は遠く、空は濃い藍色に染まっていた。星が輝いている。神殿の入り口で鉱石を戻し、朽ちた遺跡の岩の間に隠していた少しばかりの荷物を腰に回す。エデはぼんやりと夜空を見上げていたが、モルドレッドがそのまま歩き出すと、その後ろをつきながら尋ねた。
「馬はいいのか?」
父に言われたか、と切り返せば、すこし返事に窮した後、肯定がかえってくる。
「馬一匹でも我が国の資産だ。我々のぶんは道中で買えばいい」
モルドレッドは、丁度見張り番が今まさに交代しようとして動き出した東門の真下に静かに回り込み、それまで見張りをしていた兵士が門の内側の階段に消えたタイミングで、門の壁を垂直に駆け上がり、それも限界がくれば一気に飛び越えた。当然のようにあとに続いているエデには今更驚くこともない。
国の外へ足をつけると、涼しい夜風が一陣吹いた。
「馬よりも、俺達の場合は走ったほうが速いかもしれないな?」
エデがそう言うと同時に、モルドレッドがつま先で地を蹴って走る。
ハルヴァラの東、広大な丘陵地帯に続く道は見通しがよく、のろのろ歩いていたら後退してきた見張りに見つかりかねない。モルドレッドの諸国遊学を知らない兵士が騒ぎ立てれば、王位第二継承者の出国に国が騒がしくなる。それはモルドレッドの望むところではなかった。自分のことなど些末事だ、自分の旅路を祝うだの、見送るだの、そんなことに煩わせる手はない。
丘陵地帯は左右に山が、そしてふもとに森が広がっている。ひとまずそこの山道を進むことに決め、傍らで滑るように地を進むエデに目配せすれば、ひとつ頷きが返ってくる。
モルドレッドはすさまじい勢いで遠ざかっていくハルヴァラの外壁を一度だけ振り返った。
「心配かい?」
声には答えず、モルドレッドはひときわ強く地面を蹴った。
***
夜が明けると、世界は一変した。
特に和気あいあいという雰囲気ではないにせよ、黙々として足を動かすモルドレッドとエデの間に流れる空気は辛辣なものではなかった。無言が苦痛でない人と結婚しなさいね、と常々青い顔でカリオステラが懸念するほど、モルドレッドは私語に関しては寡黙であった。口を開けば騎士がどうの国がどうの使命がどうの、そんなことしか口にしない。ハルヴァラでも騎士団副団長という実質的な指揮権を持つ立場にあっても、友人というものはいなかった。守るべき民と共に戦う同士。愛すべき人々と倒すべき敵。モルドレッドの世界はこの二つで説明が尽きた。
それが今、傍らを友と称する存在が歩いている。剣を携えることもなく、理想を掲げるでもなく、ただ、隣を歩いている。
そして今、騎士としての誇りはあれど、遊学という曖昧模糊な目的で歩き続けるモルドレッドは、はじめて使命という色眼鏡を捨てて世界に立っていた。遠征や防衛、協定という名目で国の外へ出ることはあっても、こうして、急務もなく、歩いている。
風が吹き。
日差しが降り注ぎ。
木々の葉が揺れる。
――こんな風だっただろうか。
モルドレッドの呟きに、なにが?と、太陽の日差しに目を細めていたエデが聞き返した。
「……ここの山には、鍛錬を兼ねた狩りで何度か入ったことがある。しかし、あの頃とはまるで別の場所のようだ」
なにかが視覚的に変化したのではない。春の山は青々と緑が茂り、生命の息吹が息づいている。
「懐かしさもある。迷わずに歩くことができているのだから、山に大きな変化があったわけではないというのに……」
遠い目であたりを見回すモルドレッドの仕草はすこし幼く、未成年らしい。
それにエデがなにかを言おうとしたところで、モルドレッドの横顔が途端に顰められた。少年らしい目の輝きは消え失せ、冷徹なまでに研ぎ澄まされた目に火が宿る。
足早に向かうモルドレッドの耳には、朝の静かな空気のなかにあっては騒がしく、しかし常人であればまだまだ知覚するには至らないほどの慌ただしい足音、草を掻き分ける音、荒い息遣い、それらをはっきりと聞き取っていた。
音のするほうへ、ある時モルドレッドがハヤブサのように駆け出す。あまりの速度変化に一瞬で遅れたエデが焦ったように呼び掛けると、それでも振り返らず、モルドレッドが苦虫を噛み潰したような顔で呻いた。
「足音が拙い、子供だ」
言い終わるか終わらないかのうちに、一瞬、甲高い悲鳴が木々の合間に響いた。はっきりと聞こえたその声は子供のもので、モルドレッドとエデが同時に林の壁を抜けると、そこは土砂崩れか何かで削げ落ちた急斜面があり、縁から見下ろせば、そこに緑の頭巾をかぶった幼い子供が倒れていた。無我夢中で走っている最中、この急斜面に気付けずに落ちてしまったのだろう。幸い、高さがあまりなかったことと、落下地点に木々から落ちた葉が大量に溜まっていたことが幸いしてか、かすかに身じろぐ子供には辛うじて意識があるようだった。
「……ッ!」
子供の様子を伺っていたモルドレッドが背後に気配を感じ、素早く腰の剣を振り返る動作と共に降り抜く。
一瞬、金属音が響く。
しかしそれは打ち合うような音ではなく、降り抜かれたモルドレッドの剣の表面を滑るように擦った摩擦音。
――抜かれた!
モルドレッドがそう看破すると同時に、剣の表面を滑って脇を通り過ぎた影がそのまま斜面の下へ向かう。その先には、子供がいる。
「エデ!子供を頼む!」
言うと同時にモルドレッドの身体が宙に踊る。背面跳びのように斜面のほうへ身を投げ出し、後転の勢いで回した腕が先を落下する影に剣を振り下ろす。しかし射程には入らない。
だが、敵が射程に入らないことなど、その剣を幼少より振るってきたモルドレッドが分からないはずがない。
振り下ろされた剣先がぶれる。否、燃え上がる炎のように優美な流線を描くその刀身がまさに燃え上がり、火花が散る。剣が纏う高熱の炎が射程範囲を押し広げ、触れることはおろか、近づくことでさえ苦しいほどの熱で周囲の空気を炙る。
逃げ場のない空中にあって突然発生した熱に煽られ、子供へと一直線に落下していった影が無理やりに体をねじってあらぬ方向へと逃げた。モルドレッドはそのまま子供の前に立つように着地し、子供のそばに降り立ったエデがぐったりとしている小さな体に手を当てる。
「息はある。ただ、切り傷と、全身を強く打っているね、今はおそらく、落ちた時に頭を打って、意識が朦朧としているようだ」
「命に別状はないのか」
「あぁ、それは大丈夫だ」
モルドレッドが視線だけで振り返ると、子供は頭巾をかぶっていても分かるほどに小柄で、まだ幼い。子供を抱き上げたエデの足元には果実がいくつか転がっていた。食材を取りに来たという理屈は分かるが、この山にたった一人でいることも疑いたくなるような細い体躯である。親の姿もない。……もしかすると孤児なのかもしれない。
どちらにせよ、やるべきことは変わらない。モルドレッドは思考を断ち切り、左手に自由を残しておきつつ、右手で剣を構える。
「すぐに片付ける」
さきほどの影の気配は消えていない。一瞬の交錯では全貌を観察するには至らず、大型四足の獣という推測が限界だった。人を襲う癖は一度ついたらなかなか忘れられない。特に子供を狙い、今回のように半ばまで成功してしまえば、これからもこの成功率のある狩りを続けてしまう恐れもある。故に切り払ってしまうことが最良だが、今は子どもの手当てが最優先だ。最低限、倒すまでにはいかずとも、山を抜けるまでの足止めができればいい。
モルドレッドは構えを変えた。両手で柄を握り直す。
握り直して間もなく、右前方の草影から影が飛び出た。モルドレッドが身をそらして影の爪をかわす。油断なく構えた剣で狙いすまし、手首の動きがだけで剣先を抉るように動かす。ギャッと短い悲鳴が響き、影はそのまま左後方の草陰へ飛び込んだ。前足の腱を抉った感覚があった。
――これなら。
背後で子どもを抱えていたエデがすばやく立ち上がり、モルドレッドの右側へと回り込む。その判断にモルドレッドはしずかに、笑みを浮かべた。なるほどランドルフという騎士と共に戦っただけあって、戦いを理解し、なおかつ、モルドレッドの意図を理解して動いている。何を言ったわけでもないというのに。
一瞬そんなことに思考を傾けたが、すぐにまた左後方から影が飛び出てくる。しかし、遅い。
空気の摩擦音。そして、血液が一瞬で蒸発する音。血の臭い。
わずかに発光したモルドレッドの剣がその色を鮮やかな真紅から深い紅蓮へと落とし込んでいく。熱されてゆらめく空気の歪みが止むと、モルドレッドは剣を鞘に収めた。
モルドレッドの隣に出てきたエデがちいさく歓声を上げた。
「猪じゃないか、しかも随分大きい!」
「なにをそうはしゃいでいる」
モルドレッドが呆れるが、エデはうきうきと猪に向けて手を伸ばす。いやぁいい手土産ができたとはしゃぐエデを制し、モルドレッドが猪の足を持った。手土産と言うからには、その腕の中の子どもの家に持っていくのだろう。それは勿論吝かではないが……、とエデの横顔をじっと見ていると、腕の中の子どもが身じろいだ。やがて目が開く。
「起きたかい?」
エデが努めて優しく問いかけると、子どもは蜂蜜色の目をゆっくりと瞬きさせ、自分の状況を知ろうときょろきょろとあたりを見渡した。そしてモルドレッドを見つけ、その腕に下がっている猪を見ると、ヒ、とかぼそい悲鳴をあげた。
「大丈夫、怖かっただろうね、でも怖い猪はあのお兄さんがやっつけてくれたよ」
エデがあまりにニコニコしてそう言うからか、子どもは混乱するでもなく、ただぽかんとその顔を見上げ、やがてモルドレッドの方へ小さく頷くように頭を下げた。モルドレッドも小さく頷いて返す。
君、家は何処だい。体も痛いだろうし、このまま送っていくよ。エデの言葉に子どもはハッとして、また忙しなくあたりを見回す。
「あの、その、私、食べ物を取りに来ていて。籠に、木の実と、果物を……」
しかし子どもの手の中には籠など無い。モルドレッドが淡々と答えた。
「それなら、落下の際に殆どが潰れていた。他のものも、おそらくは逃げた際に籠ごと落としたのだろう。取りに戻ってもいいが、今はまず山を出た方がいい。その傷のお前を抱えていくのは危険だ」
「大丈夫大丈夫、食べ物ならほら、こんなに大きな猪があるし」
自分を追いかけてくる猪を思い出して震える子どもに、エデがまた笑いかける。それでもどこか影の消えない子供に、エデとモルドレッドは同時に顔を見合わせた。
「そういえば名前を言っていなかったね、俺はエデ。猪を倒したこの強いおにいさんは、モルドレッド」
君の名前は?と問えば、子どもはもじもじじながら、アルトと小さな声で答えた。このときようやく分かったのだが、アルトは少女で、ぶかぶかの頭巾のフードの内側にはたっぷりと癖のついた茶色の髪が詰まっていた。
アルトは、山がコの字型に歪曲した部分のふもとにある集落に住んでいた。もともとはどの国にも属さない移民が住み着いて、小さな集落ではあるが、山の恵みによって細く長くその生活は続いている。いくつかは茅葺であったり、多くは木で組まれた家は、石組みの城で暮らしていたモルドレッドには物珍しく映った。そもそも、ここに、ドルーフと呼ばれる集落があることは知識として知っていたにすぎず、こうして自分の目で見るのは初めてのことである。家らしきものの形はほとんど同じものが多いが、いくつかはやけに床が高く作られていて、あれは何故かとモルドレッドが聞くと、アルトは最初驚いたが、あそこ貯めている食料が湿ったりしないよう、またネズミなどに食われないよう、床を高くしているのだと答えた。
「アルト!」
そこに一人の女性が駆けてきた。白い布を頭に巻き、アルトが身につけている頭巾と同じ素材で、赤色のゆったりしたスカートに、白いエプロンを腰から下に巻いている。顔立ちからしても、案の定、彼女はこちらに駆け寄ってくると真っ先にエデの腕の中にいるアルトの頬を両手で包んだ。
「アルト、あぁ良かった!帰りが遅いから、なにかあったのかと!」
「ごめんなさい、心配かけて。それに、採れた果物や木の実も落としてきてしまって」
「そんなものはいいの、あなたが無事なら、それでいいの!」
「私は大丈夫よ、山に猪が出て……でも、このお兄さんたちに助けて貰ったの」
アルトの母親はそこで頭の布をとり、エデとモルドレッドに深々と頭を下げた。アルトとまったく同じ色の髪が結わえられている。
「見知らぬこの子を助けていただいて、本当にありがとうございます。本当なら母親の私がこの子を守らねばならないところを……どうか家に来てください、大したお礼もできないでしょうが、せめておもてなしを」
それには及ばない、とモルドレッドが辞退しようとしたが、アルトがぱたぱたと足を振る。
「そうだ!猪で料理を作ってよ、お母さん!それでみんなで食事をすればいいと思うわ」
「まぁ、猪を狩ってきたの?」
「えぇ!モルドレッドさんがやっつけたのよ!すごかったんだから!」
「まぁ、まぁ……」
母親はそこでモルドレッドが持っている猪に気づき、言葉を失った。モルドレッドとしては誇るつもりも、見せびらかすつもりもなかったのだが、気付けばそこらじゅうから集落の住人らが顔をだし、子どもに至ってはきゃあきゃあとはしゃいで周囲をぐるぐる駆け回っている。
「では、これで食事を作りますわ、多く作ったって昼食だけではきっと食べきれません。どうかゆっくりしていってくださいな。部屋も余っていますし、泊まっていってくださっても構いませんから」
「いや、ご婦人、そんな厄介は……」
「まぁ!」
アルトの母親が自分の頬をぱっと手でおさえた。周囲もにわかにざわついている。モルドレッドは失言かと一瞬危ぶんだが、隣にいるエデは笑いをかみ殺している。
なんだ、なにが悪かったんだ。
モルドレッドが視線で問いかけてもエデはどこ吹く風で腕のなかのアルトをぶらぶらと揺らす。結局、周囲のざわめきが鬱陶しいばかりで、モルドレッドは努めて冷静に、まずはアルトの手当てを、と進言した。
ドルーフの集落の一角にあるアルトの家は例にもれず木組みで、床は丁寧になめされているものの、壁は丸太を積み上げたままの凹凸がむき出しであった。それでも雨風は防げるし、雨季には湿気を吸い、力が加わってもしなやかに曲がり、耐えるという木の特性が生かされている。木製のソファに座ったアルトに包帯を巻いている母親、エデは窓の外を駆ける子どもたちを眺めている。モルドレッドは家の中を見回す。テーブルに合わせた椅子は四つ、加えて隅に寄っている梯子のついたものは背丈の小さいアルトのためだろう。
「はい、これでもう大丈夫。だけど数日は家で大人しくしているのよ?」
母親が言うと、アルトはわかりやすく頬を膨らませた。
「でも、わたしもう十よ?家のこと、もっと手伝いたいの」
「アルト……」
娘を見る母親の目がぐっと細まった。もう十、と言うが、モルドレッドからすればまだ十、という感覚であった。
モルドレッドとて、普通の人で言うところの成人年齢にも達してはいないが、ハルヴァラの習慣として、季節が巡り、暦が一つ回って戻ってくるのを十回繰り返したその時に、ようやくモルドレッドは剣をもっての稽古が許された。それにしたって今の紅蓮の剣ではなく、細身のレイピアであった。基礎的な魔術、座学による知識、自らの体を思うままに動かす体術、それらの基礎を築くための十年。少女が猪の出る山に一人で向かうには時期尚早だろう。せめて腕の立つ猟師や狩人といった同伴者がいなければ危険だ。
母親は自然な仕草で目元を拭い、なら動物たちの様子を見てきてくれない、とアルトに頼んだ。アルトは満面の笑みで出ていく。
あれだけ高い所から落ちたというのに、とモルドレッドがその小さな背を見送っていると、そそくさとエデも出ていこうとしている。
「……」じ、とモルドレッドがその白い背中を見る。
「ひ、一人は危ないよ、アルト、俺もついていこうかな、いや、なに、ここの村のことも見ておきたいし、俺は動物が大好きで、」
「エデ」
入口のドアに手をかけたエデがびくりと肩を震わせ、ぎくしゃくと振り返る。
「あとで話がある」
「……」
「話がある」
「……了解した」
「アルトから目を離すな。あれで怪我人だ」
その言葉に、最後、微笑み一つ残してエデはアルトを追いかけていった。ドアが閉まると、二人の軽やかな足音はすっかり聞こえなくなった。
モルドレッドがゆっくりと振り返る。アルトの母親は、手当を受けていたアルトが座っていたソファに腰を下ろし、ぼんやりと窓の外を見ていた。丁度いま、エデの手を引いたアルトがなにかを指さしながらゆっくりと歩いていくのが見える。遠くに組み立てられた長屋、おそらく牛舎へ向かっているのだろう。
言い出すべきか、否か。自分の立場をわきまえれば赤の他人だ、その他人が、これもまた他人の家族内に土足で踏み込むようなことは、自分であればしてほしくない。けれども、アルトの姿がうんと遠ざかって、窓からふと視線を戻したアルトの母親は、モルドレッドのほうを見て、気の抜けたように、悲し気に微笑んだ。
「……あの子の父親は、私の夫は、随分前に、……私があるとを身ごもっているとき、出稼ぎに行った道中で、死んでしまったんです」
馬鹿ねえ、とアルトの母親が微笑む。モルドレッドはただそれを見ていた。
「いつもは、狩りをして、生計を立てていたんです。ドルーフではみんなが家族ですもの、お金なんてなくったって、助け合って生きていけます。でも、あの人、二人目の子供が生まれるんなら、って変に意気込んじゃって……出稼ぎ先には魔獣が家畜として飼われていて、そのうちの、暴走した魔獣が引く車に轢かれたんだそうです」
「出稼ぎ先というのは、もしやルべリオンではないか?」
「ええ、そんな名前だった……発展していて、お金の回りも良くって、人も良くて、働いているあの人も楽しそうだから、私、それに甘えて……ずっと、子供と家にいましたの」
「二人目の子供がアルトならば、兄弟がいたのでは」
「息子が。アルトにとっては、兄がいました」
でも、とアルトの母親がそこで言葉を切って、目を伏せた。再び開くときにはその顔には笑みがのっていて、その母親が向けてくる視線にモルドレッドは一瞬、たじろいだ。包帯や薬草がはいった箱を片付け、アルトの母親はぱたぱたと足音を立ててモルドレッドの横を通り、台所に立った。
「あなた、料理はお得意?」
唐突に問われ、モルドレッドは返答に詰まった。アルトの母親はニコニコと音が鳴りそうなほどに笑っていて、その笑顔に、やがてモルドレッドは黒い礼装の襟を緩めた。
「切って、焼いて、煮て、栄養を摂取する行為は必要に応じて経験がある、程度、ですが」
「十分よ、じゃあ、猪を捌いてもらおうかしら」
包丁を使ってね、とアルトの母親が片目を瞑る。独特の形をした鞘に納めた剣について何も聞かないでいるという気遣いが純粋に有難く、モルドレッドはテーブルの隅にそれをたてかけた。袖を捲り、アルトの母親の隣に立つ。
「息子と貴方、きっと同じくらいの年だわ」鍋を取り出し、汲んでいた水瓶から水を注ぎ、釜戸のなかに木の枝が入っていることを確かめる。
「御子息は、今どちらに?」火打石を探す脇から手を差し込み、指を弾いて火をつけた。ちいさく歓声。
「息子は、アルトが五歳の時、出て行ってしまったの。ルべリオンにね」すり鉢を取り出し、そこに木の実やなにかの葉を次々に放り込んでいく。
「出稼ぎへ?」にぶい音を立てながらそれらを磨り潰していく。香辛料のような香りが様々にたち、混じり合い、食欲がそそられる。すりこぎなど、知ってはいても実際に使うのは初めてだったが、すぐに容量を掴んだ。
かけた鍋の水が温度を上げていくと、モルドレッドの手からすり鉢が離れ、代わりに包丁を握らされた。刃こぼれは見受けられるが、全体的に手入れはなされている。どうしても刃のあるものをそういう目で見てしまう思考を振り払っていると、その横で材料を磨り潰しながら、母親が呟いた。
「父親の死の真相を、調べる、って言っていたわ」
何が起こっているかは、わからないの。でも、時々手紙と、お金が使い魔で送られてくるから、生きているのね。それなら、それでいいわ。
「――……」
モルドレッドは猪の足を捌きながら、アルトの母親の横顔をちらりと見た。殊勝な嘘かとも思えば、その横顔には一切の虚栄が無い。帰ってきてほしいと思っているだろうし、寂しさもあるだろう。それでもなお、生きているならそれでいいと信じ続けられるその感情、気概は一体何処から湧いているのか。五年という月日は決して短くない。
モルドレッドは猪を捌きながら考え続けたが、やはり分からない。
どうしてもわからない。
母親というものは、こういう生き物なのか、と。
母親、という存在を××ないモルドレッドには、確かめのようのないことだった。