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蒼天のイストワール  作者: 寒星
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再会の友

 かつて、世界には神と呼ばれるものがいた。

 神はあらゆる豊穣をもたらし、あらゆる災難より世界を守り、あらゆる生命を慈しんだ。

 空は青く澄み渡り、海は白波をたてて輝き、命を与えられたものは各々に体を得て世界に個として根差し、繁栄した。

 世界を創造した神はそれぞれにいとし子――それは草花であり、風であり、清水であり、大地であり、生命の根本――を生み、その誕生を見届けると、自らを楔として世界へ杭を穿った。それは生命がより住みやすく、なんの憂鬱もなく、未来と言う概念さえ忘れて生きてゆけるほどの安寧をもたらすための最後の要石である。あらゆる万物に宿りし神は数あれど、そのなかでも四大神と呼ばれる存在が、もっとも強大で、その歴史長い。

 世界を見晴るかす曇りなき空にはアスティア。

 全てを抱擁せん遥かな海にはウルティーネ。

 命が根差し、その全てを育む大地にはフンヌ。

 世界を彩る花を咲かせ、命を癒す森にはキルレドゥ。

 四大神がその身を楔に変えて世界に打ち込み、世界は平穏とともに緩やかに歴史を刻み始めた。

 世界には多くの様々な命が溢れたが、なかでも特に目覚ましい発展を為したのは、フンヌの耕す土をウルティーネの水で潤し、アスティアの生んだ風で形を削り、キルレドゥの育てた花に囲まれて作られた『人』という生命であった。

 原初の人は二人から始まり、人は人を愛して人を生み、多くの文明を築き、多くの繁栄を築いたが、一方で、多くの戦禍さえも生んだ。神にそれぞれの属性があったように、神が多くのものを与えたがために、それを自在に扱わんと欲したために、人はそれぞれに異なる意思を持ち、繁栄と引き換えに競争と闘争が生まれた。

 神は、世界に様々な豊かさを与えて眠りについた。地上で起こる戦禍でさえも、世界の存在を揺るがすほどの危機には足らず、その眠りを覚ますには当然、至らない。世界は平和と戦争が入り乱れ、原初のころよりもずっと混沌として、そしていくつかの大国と、それよりずっと多くの小国に別たれ、均衡に至った。

 眠る四大神はそれさえも見越していたのかもしれない。

 あるいは。否、きっと。

 ――世界は永久に、楽園として在り続けるだろう。

 そう言った『友』の言葉を信じたのだろう。

 空を巡りながらその身は遥か遠く、海にその姿を煌々と映しながら掴めず、大地に方角を指しながら共に在らず、開く花と茂る木々の葉を眠らせながら自らは眠らず。

 その『友』には名前があった。夜の闇にあって万物を導く星のような『友』――世界を完成させた四大神へ、その他多くの神より、祝福とともに奉られた神造の永久人形――ベツレムヘル。

 ベツレムヘルは、世界を完成させ、眠りにつく四人の『友』を見送り、自らは世界の果てに個としてとどまり、空に浮かぶ孤島の一つに身を置いた。人を慈しみながらも人とは交わらず、孤島で孤独に、穏やかに暮らしていた。

 そんなある日、地上で起きた一つの戦争によって打ち上げられた『雷』が、ベツレムヘムの体を傷つけた。

 この時初めて、ベツレムヘルは自分が『友』に送った言葉がどれだけの無知によって支えられていたかを思い知った。見れば、人は地上を埋め尽くし、神への信仰は薄れ、神の与えた恩恵の源たる人知を超えた力を『魔法』と呼んで我が物にせんと学び、神の代わりに、『王』と名乗る英雄が闊歩して、地上に戦場と言う地獄を具現させているではないか。

 ベツレムヘルは世界の変わりようを嘆き、悲しみ、しかしそれでも、絶望はしなかった。『友』のために。

 ベツレムヘルは三日三晩泣き続け、流した涙で戦火を消した。そうして、雷によって傷つけられた体の一部を自分から切り離し、人形をつくった。

 出来上がった人形に、ベツレムヘルは名前を付けた。

 名前を付けて、その人形を地上に落とした。



***



 自然と白亜の神殿遺跡が調和する国、ハルヴァラ。

 国の中央に堂々と鎮座する白壁の城の中を、今一人の騎士が足早に進んでいる。若い青年だ。王の血筋の証明である金髪と透き通った碧眼、若々しい樹のような体を深く落ち着いた紅蓮の色の礼装のうえに銀色の鎧を若々しいその全身に纏い、腰には一本の剣を差して、まっすぐに前を見据え、突き進む。

 たどり着いた重厚な扉の前で、扉の両脇に控えていた兵士が彼の姿を見てすぐ、流れるような手つきで扉を開ける。

 部屋の中へ一歩踏み込んだ彼に、部屋の中にいた全員の視線が集まった。

「あぁ、モルドレッド」

 穏やかな微笑に違わず、穏やかな低温で彼の名前を呼んだのは、腹違いの兄であり、他でもないハルヴァラの王位継承者第一位・カリオステラ。顎のあたりで切り揃えられた金髪は一見短髪にも見えるが、その実、うなじから胸元へかけて三つ編みにすっきりとまとめられた分を考えると随分長い。優し気な碧眼は細められて、実の弟を見つめている。しかしその優男風の顔立ちとは裏腹に――というよりも、王位継承者であり、騎士であるから当然なのだが――鍛え上げられた体躯は白銀の礼装と、それよりも鈍い銀色の鎧で覆い隠されているだけで、王位継承者第一位に相応しい剣技と魔境を極めた男である。

 モルドレッド、と呼ばれた彼は静かに目礼し、兄としてではなく、国の守護を統括する直属の上司としてのカリオステラのそばまで歩みよる。カリオステラと、近衛の兵士二人、水差しやタオルを乗せたトレイを手にした壮年のメイド長が一人。四人が囲うようにして立っている部屋の中心には、天蓋から簾をまんべんなく垂らされた大きな寝台が鎮座している。部屋の中は華美な装飾は無いながら荘厳な雰囲気をもたせた白鉱石でつくられていて、広々としたこの部屋の中になにがあるかといえば、壁に掛けられた国旗と、あとはこの寝台だけなのだ。

 寝台のなかから、かすかな衣擦れの音。

「……モルドレッド、国の外壁の守備はどうだ」

 低い、染みわたるような声だった。まるで頭蓋の中から発されて、反響するような、かすかにしゃがれて、いよいよ威厳に満ちた男の声。

 「は、」モルドレッドは寝台のほうへ爪先を揃え、かすかに頭を垂れた姿勢で言う。「すでに我が騎士団が東の外壁に重点的に待機しています。侵攻軍の数およそ千、掲げる旗は黒。東のダレイモス王の勅命による使者だと、先遣隊の兵士長はそう言っています」

「使者などと!それだけの軍勢を率いておきながら!」メイド長が吐き捨てるように叫んだ。若いメイドたちの前では凛として立つ長が、こうして感情をあらわにするのは、ここが閉じられて、付き合いの深い者たちだけで構成されている空間だからだろう。

 勅命の内容を、と簾の向こうの声はゆるぎなく、モルドレッドに問う。モルドレッドはあくまで兵士長が述べたままのことを機械のように繰り返した。

「『ハルヴァラ現国王、ランドルフ・ブライド。これまでの度重なる貴殿の『無礼千万』な返答に、こちらは既に貴国との和解はないものと解釈した。よって、今回、我が国が保有する軍のおよそ一割をそちらに送る。これが我が国の意思である。我が国は領土、経済、物資、技術ともに優れて繁栄した先進国であり、統合受諾の暁には、貴国の国民すべての安全と豊かな生活を保障する』とのことです」

 メイド長がいよいよヘッドドレスを頭から抜き去ってしまうのではないかと内心で危惧しつつ、モルドレッドが告げた言葉に、古くから城の警備を務めあげてきた兵士二人が露骨に顔を顰めた。メイド長はすでに表情を失い、虚空を睨んでいる。

 東の統合国家ギークムントは現国王ダレイモス二世の治世になってから、もう随分と周辺の中小国を飲み込んでその規模を拡大していた。ギークムントでは技術革命が起こった年に前国王が倒れ、今の二世はその革命の主導者でもあった。合理的に、経済的に、と国を広めてきたその手腕は大したものであると認めざるを得ない部分はある。今の今まで、それほど規模が大きいわけでもないハルヴァラが合併統合に頑なに応じずにいられたのは、ひとえに、ハルヴァラが有する神殿遺跡と、信仰により神から付与された『加護』による。

 そしてギークムントが、ある意味で、頑なな、そして規模がそう大きくもないハルヴァラ相手にこうまでも粘って、後に回すこともなく、統合を推し進めようと力を注いでいるのは、その神からの『加護』を求めているからである。

「ダレイモス王は、」寝台の中から、声が――ランドルフ・ブライドが静かに呟く。

「我がハルヴァラが守り続けてきた神殿遺跡、そして、この世界さえ創りたもうた神々と、その創造物たる大いなる自然の恵みを、技術転用の材料としか見ていない」

 この部屋にはひとつきりの窓がある。モルドレッドは顔を上げれば、その窓が丁度正面にあるので、そこから城の白亜の壁と、その向こうに広がる外壁、そして城下の町、国民の営みが眩しく見える。

「そのような輩に、国を明け渡すわけにもいくまい」

「では、抗戦を?」

 私が出向きましょうか、カリオステラが穏やかに問いかける。やろうと思えば、一人でも千の軍勢程度は相手取れるような男だ。穏やかに微笑みながら、言葉による解決をすっとばして真っ先に抗戦を語る。

 それに異を唱えたのはモルドレッドだ。

「仮にも王位継承者第一位の兄上が前線に出られるのはあまりに時期尚早です。ここは私が」

「そうかい?では任せよう、……と言いたいところだが、あまりに軍勢が近づきすぎだ。君が戦うには手狭だろう」

 カリオステラの言葉に、モルドレッドがしずかに奥歯を噛みしめる。

「……我々、はともかく、国民を危険に晒すわけにはいきません。国民の避難はまだ始まってもいないし、本格的な戦闘など、始めさせるわけには」

 そこまで言って、モルドレッドの視線が寝台の簾の奥に注がれる。カリオステラは継承権第一位、実質的に次代の王として言葉を引き継ぎ、簾の奥の父の影へと呼びかける。

「父上、我が王よ、我々はこれまで、無用な戦いは避けてきました。先の大戦以来、ハルヴァラは自国の防衛にのみ重きをおいて今日まで存続してきた。しかし今、これ以上は、防衛の一手では防ぎきれない矛が我が国に迫っているのでは」

 しかし、答えは無い。

 メイド長も、兵士も、カリオステラも、モルドレッドも、その沈黙の意味を推し量っているために、黙って返答を待つ。

「出る」

 簡潔に一言。

 カリオステラとモルドレッドは思わずみじろいだが、寝台の簾の奥に持ち上がる体の影を見て、諦めたように互いに顔を見合わせ、ひとつ頷いた。カリオステラは城の警備と国民の避難指示を兵士に飛ばし、モルドレッドは先んじて部屋を出る。

 部屋を出て、自分を見る兄と父の目がなくなった途端に矢のように走り出す。床を蹴って、その音は聞き逃してしまいそうに小さく、軽く、けれども一歩ごとにモルドレッドの身体はぐんぐん廊下を突き進み、やがて廊下の行き当たりの窓からその勢いのまま飛び出た。カリオステラがこれを見ていたら腹を抱えて笑いそうなものだが、その兄は今いない。顔をしかめる王もいない。兵士は、カリオステラに次いで王位継承権をもつ第二位のモルドレッドに制止の声を上げることは無い。

 なにより、外壁への最短距離を直線的に、紅蓮の礼装をはためかせてまさに火の矢のように飛んでいくモルドレッドの姿に、一体誰が、彼を止められようと思うだろう。青く晴れ渡った空に火が踊る。

 いくつかに分かれた城の棟の屋根を蹴り、やがてモルドレッドは東の外壁に据えられた岩の門の前に降り立った。門が閉ざされていても、その向こうにいるのであろうギークムントの兵たちが発する圧力は肌で感じられる。既に整然と並び、武装を整えている城の近衛兵と騎士団員がモルドレッドの姿を見るや否や、いよいよ得物を構えなおす。

「門を開けよ!」

 モルドレッドの声に、外壁の上にいた兵士が開門を叫び、門の両脇に片膝をついていた戦士の石造が動き出す。このハルヴァラの城を構成する材料は、国の北側に広がるエルドラスの森の奥にある鉱山から採れたもので、鉱山の地下に広がる神殿もこの鉱石で作られている。祈りを捧げ、魔力を吹き込むことで鉱石は魔法石と呼ばれるものに姿を変え、あらゆる魔術の触媒となる。それがここでは、門を預かる石の兵士を動かす原動力である。

 医師の門番により、重厚な音を立てて門が開いた。案の定、門の向こうで騎乗姿勢のままこちらをみやるギークムントの先遣隊はモルドレッドの顔を見ると、分かりやすく眉を顰めて見せた。それもそうだろう、先ほど初めてハルヴァラにやってきたときも、早々にモルドレッドに見つかって、モルドレッドが直接王に問い合わせる代わり、外壁の外で待つよう言われたのだから。

 五人いる先遣隊の兵士。全員が完全な武装状態。

 そのうちで、黒毛の馬に跨った隊長と思しき大柄な男が肩をすくめた。

「おやモルドレッド殿、我々の王の勅命はお伝えいただけましたかな。それとも、ハルヴァラ王は……


――相変わらずお身体の調子が優れないのですか?」


 モルドレッドの眼光が鋭さを増す。

「宣告も無し、後方に数多の兵を引きずって来ておきながら、王に会わせろなどという挨拶を用いるギークムントの作法には疎いもので。王も気が滅入っているのだろうよ、我がハルヴァラは公正、高潔、儀礼を重んじる国であるがゆえな」

 先遣隊の隊長の男は一瞬顔を顰めたが、鼻で笑うにとどめた。

「合併の暁には、是非ともその『儀礼』、両国のよりよい発展の為にご教授願いたいものですな」

「さてどうだか。儀礼とは精神を伴うものだ。武骨者の猿真似が神に通用するとはとても思えんが」

 まさに一触即発。

 いたるところに細い糸が今にも千切れそうなほどぴんと張り巡らされたような空気は、しかしやぶられた。

 モルドレッドのはるか後方から聞こえる悠然としたひとつの足音と、それに順じて、こちらへ歩いてくる誰かに道を開ける騎士たちの統率された足さばきによる鎧の音の合唱。粛々と開けた道を歩む足音が十分に大きく聞こえたことで、モルドレッドもギークムントの先遣隊の男の前から退いて、地に片膝をついて頭を垂れた。

「おお!ハルヴァラ王よ!」

 先遣隊の男の声に、モルドレッドは舌打ちをこらえた。忌々しい。下手な役者のように大袈裟に、盛大なようすで喜んでいる様子をしているギークムントの先遣隊の男の声がいやに耳についた。

「突然の訪問をお許しください。なにせ我らも急ぎ支度で参りましたので、このような貧相な体で……会い見えることができて光栄の至り」

 いちいち仰々しくアクセントをつけて喋るのが耳障りだった。気を抜いた途端に剣さえも抜きそうになるのを抑え、かわりに、ゆったりと歩みを止めた自国の王が立てるすべての音に耳を澄ます。

「……遠路遥々、御苦労であった」

 閉じられた部屋の天蓋を取り外したここでも、王の声は朗々と響いた。空に天井があると思わせるほど、その声はその場にいる全員の鼓膜をぶるぶると震わせた。

「貴国の王よりの書状は既にモルドレッドより拝見した。交渉の余地はない。速やかに引き返すがよいだろう」

 先遣隊がたじろいだのが空気の震えで分かる。モルドレッドは視線だけをかすかに浮かべ、カリオステラの鎧に包まれて凛と立つ両足と、その隣にある王のがっしりとした鉤爪をみて、口端を釣り上げる。


――石畳の地面が砕ける。


 例えば、なにかを視認したとか、なにかの音を聞いたなどというわけではなかった。モルドレッドがそうしたのは、超直感的な衝動に身を任せたが故の産物。

 だが、片膝をついた姿勢から中空で前転するように高く跳んだモルドレッドはそこではじめて、たしかに、見た。

 上下が逆転した視界には、投げ出した足の先に青い空があり、外壁の向こう、遠い地平線が水平線のような有様になっている。

 その水平線の丁度中央あたりで、銀色が爆ぜたのだ。爆ぜたと思って、その次の瞬間には巨大な槍の穂先がくっきりとその形を露わにして迫っている。とんでもない速度での投擲、もしくは発射。モードレッドは即座に腰に下げていた剣を引き抜く。直線上だった銀の刀身が、燃える炎のように色を変え、形を変える。

「――せやぁッ!」

 落下の勢いを乗せて体を横に回し、剣を振り下ろす。豪速で飛んできた巨大な槍は剣とぶつかり、一瞬は痛烈な金属音を発しかけたが、その音も、槍そのものさえ、モルドレッドが振るった剣が纏う炎に呑まれて消えた。

 ぐおん、と空気が灼熱の炎の残骸に鳴く。一瞬の出来事を現実のことだと裏付けるように吹いた熱風がギークムントの先遣隊と、ハルヴァラの騎士団、両者をそれぞれに数歩押しやった。

 その開いた空間にモルドレッドが降り立つ。降り立つと、鎧に覆われた足の踵で火花が散った。

 立ち上がり、ハッと面を上げた先で、鋭い痛みがモルドレッドの左頬を通り抜ける。

 しまった、と理解を超えて反射で振り向く。

 それは、先ほどモルドレッドが焼き払ったそれよりもずっと細く、そしてガラス細工のように透明で、なにより凄まじく鋭利な、人の背丈もありそうな長い槍。

 それが、王の腰のあたりに突き刺さっている。透明な槍は表面に光を屈折させるための迷彩魔術が施されていたらしく、今や目的が果たされたとばかりに、モルドレッドをあざ笑うように魔術は剥がれ、仰々しい装飾で飾られた槍がその身を晒す。

「は、」

 突然の出来事に呆気にとられていた。誰も彼も。そのなかで一番に声を発したのは、熱風に喘いで暴れる馬から今にも転がり落ちそうなギークムントの先遣隊の男だった。

「はははははッ!!衰えたな!!ハルヴァラ王!!」

 その身を支えようと地を踏みしめる王の四本の脚、そのうちの左後ろ脚に傷口から零れた血が流れ落ちる。白銀の毛で覆われたその身は、それでも耐えているが、目を伏せて、微かに歪んだ口元から覗く食いしばった歯茎が痛みを訴えている。

「卑しき獣の身に落とされて!!最後に縋った神の加護は――貴様のような畜生の治める国などに手を貸すものか!!」

 大きく揺れた体が、平衡を取り戻す。

「聞け、ギークムントの兵士よ」

 鋭い歯が並ぶ口が静かに開かれる。音量としてはまったく普通の、普通よりも小さなものではあったが、その一言で狂笑はたちどころに止み、モルドレッドの腹の中で唸りを上げていた怒りの火さえも押し留める。

「私を貶めるのは、構わん。今やこの身は獣畜生。それも、然り」

 モルドレッドの隣をすり抜けていく、太くもしなやかな四足には黒い鉤爪が生え、全身は初雪のような荘厳な白の毛で覆われて。

 自信を陥れんとする敵に向ける双眸は、よもや獣畜生と呼ぶのが恐ろしくなるほどに凪いでいる。

 ハルヴァラ王、ランドルフ・ブライドは自らを獣畜生と認めながら、その身は白銀の獅子となってなお、一切の威厳にも信念にも偽りはなく。その背中は、多くの民の羨望を集めてやまない。

「もう一度、言おう。交渉の余地はない。疾く、引き返すがいい。我が国は決して貴国の下にはくだらない。私が王である限り、私は私以外のものに、この国を預けるつもりはない」

 ぽかんとして、無意識に聞き入っていた先遣隊の男らの顔が次第に意識を取り戻し、わなわなと震えだす。

「き、きさ、まぁっ」

 男が振りかざした手には銃が握られていた。軽い発砲音とともに赤い煙を棚引いて信号弾が空を上っていく。

 モルドレッドは剣を背後に倒して構えなおし、怒りのままに力を込める。東の地平線から、まるで雁の群れのように飛来する槍の数は数えるのが馬鹿らしくなる。後方に構える陣営が一体どんな技術で、あるいは魔術で、この攻撃を仕掛けているのか。この攻撃はどういった特性を持つのか。あと何度撃ってくるのか。王のそばで冷静さを欠かないカリオステラであれば、そういったことを配慮して最善の策をとるのだろう。しかし、モルドレッドにはそんなものは無かった。剣を捧げた国と、その王が脅かされているのに、ものの道理など、全てを灰燼に還すという至高の断りの他には、なにも考えられない。

 燃える炎に形を与えたようなモルドレッドの真紅の剣から流星のような赤い火花が迸る。

 薙ぎ払う、と頭の中で囁いた。


 その思考を、春風が攫う。


 否、それを春風と称するには随分と言葉が軟弱だった。

 白い花弁を纏った風が、一陣。するりと滑り込んで、突然、弾けるように質量を爆発させて突風が吹き荒れる。思わず顔の前に手をかざしたモルドレッドは、それでも後ろへ吹き飛ばされそうになる体を留めるために、剣を地に突き立てて踏みとどまる。新たな兵器か、敵襲か。疑念はすぐに晴れた。

 ハルヴァラの空を覆いつくさんとしていた槍の軍勢が、その風に雁字搦めに絡めとられて、飛んできた方向へと吹き戻されていく。

 風は数秒猛威を振るい、そして一瞬で手品のように消えた。

 竜巻のような突風の中心、丁度、モルドレッドの前に立っていたランドルフのその目の前に、一人の青年が立っている。逆三画をならべ、不規則な直線などが裾に模様としてあしらわれただけの白い布をマントのように上半身に巻き付けて、その下に履いているらしい黒のズボン、足はむきだしの裸足である。黒髪は短く、さも適当に切り揃えたという程度だが不信感は無く、頭上に広がる青空のとおりの色をした双眸が印象的な、若い青年。

 青年は、ただじっとランドルフを見下ろしている。その顔は姿と不釣り合いなほど老成していて、瞳はランドルフがそうであるように、とても静かな湖面のように凪いでいた。

「貴様!何者だ!」

 その青年の背後で、辛うじて、といったふうに石畳にしがみついていた先遣隊の隊長一人が叫んだ。尤もな疑問に、ハルヴァラの者でさえ黙っている。

 問われた青年はゆっくりと振り返り、まるで随分あっていなかった旧友に再会したような、穏やかな声で告げる。

「エデ。俺の名前は、エデ」

 そのとき場違いなほどのやさしい風が吹いて、青年の上半身を包む白い布をすくい上げた。背後にいたモルドレッドには、健康的に細く引き締まった裸体に、禍々しい黒血色で描かれた紋様が見えた。

 青年はそんなことに気付くはずも無く、ただ自分の前に立ち、ハルヴァラの王とそれまで対面していたギークムントの先遣隊の男に、気軽な風に言葉をかける。

「俺は名乗りは上げた。君の名前を聞く前に、君に、一つ尋ねたい、」

 遠くから何かが大量に走ってくるような、風が青年の背後から吹く。決して、先ほどまでの突風には遠く及ばないはずの穏やかな勢いだが、なにかの気配を感じ、モルドレッドは背後を振り返る。

「……!」

 ハルヴァラを北側から包むようにひろがるエルドラスの森が、増えている。

 青々とした葉を茂らせた木々が枝を腕のように絡めあいながら、今や国を覆う笠のように東門のほうへとぐんぐん伸びてきている。まるで森全体が生き物のような有様で、意思を持ったように木の腕をこちらに伸ばす。

 それはやがて日本の巨大な腕を作り、青年の背後、そのはるか上空にやわらかく手のひらを広げて、ようやく止まった。

 巨大な木の腕によってできた日影が差している青年の顔はハルヴァラ側の誰もが見ることは出来なかったが、対面しているギークムントの兵士の顔がひどいものだったので、まさか笑顔を向けられていたというわけはないだろう。

 いや、もしかすると、微笑みを浮かべた青年のその表情にこそ、男はすっかり恐ろしくなっていたのかもしれないが。

「俺の友に傷をつけたのは、君か?」

 教えてくれ、と。

 巨大な木の腕を頭上に従えて、問いかける。

 青年の声はどこまでも穏やかだった。


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