第十話「夜行」(抜粋)
部屋の中で紅茶を飲む。
熱い紅茶が喉から胸に広がって身体中に拡散して浸透する。そんな感覚。もちろんイメージだ。
食道を通って胃に行って、腎臓をくぐって膀胱から出る。
それが自然の、現実にあるサイクルだ。
紅茶にハマって一週間。
コーヒーも日本茶も好きだけど、ぼくの中でこの二つには、食べ物が付く。
コーヒーならお菓子が食べたくなるし、お茶なら食後だ。
紅茶だけが、それだけで完結する。なかなか目新しい。
何度も口を付けて、少しずつ飲んでいく。
うん、おいしい。こだわりがないから、ティーバッグでもおいしく飲めるのは得だ。
その様子を、犬がじっと見つめていた。
「落ち着いたか」
「うん」
ぼくはうなずく。
「俺が淹れられたらいいんだが、無理だからな」
「仕方ない」
「ああ、仕方ない」
犬は今思いついた、というふうに、
「これから、どうする」
「何を?」
「明日の夜から、出かけるのか、寝るのか」
「歩くよ」
当たり前のことだった。
「当たり前のことだ」
思ったことを口に出す。
「おまえにはもう理由がないだろう。俺が課した義務もない」
「ぼくの趣味は夜の散歩だ」
宣言。
「おまえと歩いてると楽しい。だから毎日やってる。これからも」
趣味は、義務とは、無関係だ。
「木ヶ島の夜は幽霊が出る」
唐突に犬がおなじみのうわさを謳った。
「本当なら」
ぼくを黙らせる。
「おまえみたいな若い人が、幽霊に関わるのは間違いなんだ」
「副作用めいたものは、何もないと思うけど」
「それはただの勘違い」
ばっさりと切り捨てる。
「おまえの生活はおかしいよ」
知ってる。
そんなことは、とっくにわかってる。
日常的に関わる友人が死者ばかりで、彼らは悠久を過ごす。
明日とか昨日とかの概念が喪失している。
そんなものに関わると、生きてるぼくの生活には、不和が生じる。
昼夜が逆転してるとは言わないまでも、夜遅くまで出歩くぼくは、昼夜の感覚がズレている。軽い時差ボケが常にある。
そして人付き合いの仕方も、やっぱり、ちょっとおかしくなってる。
人の生き死にに興味がないなんて、人間の生活スタイルとしては異常だろう。
「生き物は死を怖れて避けるべきなんだよ。もしそれと向き合うなら、それ相応の姿勢がある。おまえはそれがない。なのに関わり続ける。中途半端だ。一番危うい」
「死にたいとか死んでもいいなんて思ってないよ」
「この世から出ていくことはないだろう。だが社会から排除される」
社会。
この犬はそんな言葉を、自分のものとして使うようになった。それくらいの……そのていどには、月日が経ったのだ。
犬の語った言葉について考えるのではなく、単語に反応してしまう。けれどその単語がぼくに強烈な危機感を抱かせた。
生き物から外れ、人とも異なる存在が、これほどまでになじんでいる。
なら、ぼくは?
それは疑問じゃない。すぐに次の言葉は出た。
ぼくだって、同じくらい、幽霊たちの世界に染まっている。
「潮時だ、夜行。俺を見えなくすることくらい、今の俺ならできる。俺が見えなくなれば、他のやつも見えなくなるだろう。俺を見ることで、おまえの中の霊的な回線が開き続ける。それを閉じるべきだ。もう」
「おまえはどうするんだよ。寂しくないのか?」
おまえ、話すことが大好きじゃないか。
生前に得られなかった言語を得て、おもしろいって言ってただろ。
「寂しくない」
犬は断言した。
「あるていど満足いった。それに俺はおまえと違って、他の霊と関わり続けられる。おまえに憑きまとう中で、いろんなやつらと語り合えるだろう。何も不足はない」
ドライなやつだ。
犬に人情を期待するのがダメなんだろうけど、犬の意見が悲しかった。
ただし、と犬は続ける。
「供え物は続けろよ。俺がおまえから離れることになるし、何より今さらファミチキのない日々など想像できん」
「そこは潔く諦めろよ」
しんみりとした話をしていたはずなのに、がっくりと来た。
「全てを忘れろとは言わん。記憶というのは何かを忘れ切ることも、憶え切ることもできないのだからな。俺が言ってるのは、そろそろ人らしい生活にもどれということだ」
だいたいな、
「あの女が、どうしておまえと今も付き合ってると思ってる」
「相思相愛だから」
「心配だからだ」
さっきからこの犬はぼくの言葉に全くうなずかない。会話がヘタだ で困る。言葉のキャッチボールにならないじゃないか。
「あの女が今もおまえと共にいる理由は、心配だからだ。好意とは違う原動力だ。平たく言えば哀れみだよ」
「嫌な言い方するなよ」
「安心させろ」
諭された。犬に。ぼくは人間としてけっこう地に落ちた感がある。
「あの女がおまえをどう思ってるのかは知らん。だがおまえがあの女を好いているなら、安心させろ。それが雄の役目だ」
「男の役目って言おうぜ」
「生物的に当たり前の話だから、雄で合ってる」
インテリぶりやがって。
「従え、夜行。おまえがその名前を体現することは、もうない」
静かに響く犬の声。
ぼくは考える時間稼ぎに、紅茶を飲む。話していたせいで、ぬるくなっていた。紅茶は熱いほうがいい。
水温や気温。そして、体温。
何事にも適切な温度がある。
すごく遠回しに犬の言葉を要約すると、そういうことだ。
カップを回して残った紅茶を揺らす。ぼくは考える。
さあて、どうしようか。




