表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/25

第7話(ユウキ) 夜道を行く(2)

 ベッドに入っても思うように寝つけなかった。窓から差し込んでくるオレンジ色の光が徐々に色合いを暗くしていき、もうほとんど黒に染まっていた。寝られないのは当然だった。少し前に寝たばかりだったし、ヒカルと話をして頭がすっかり冴えてしまった。頭から湯気でもたっていそうだ。そしてふと、自分がまだ服を着替えていないことに気づき、若干面倒になりながらも簡単な服装に着替えた。ずっと感じていた背中のむずむずしさはなくなり、いくらか頭もクリアになる。いらだちの原因は精神的なものだけではなかったみたいだ。


 結局眠ることはできず、時刻が七時半を越えたところでベッドから起き上がり、完全に陽が沈んで暗くなった部屋に明かりをつけた。空腹は感じない。お菓子を食べたおかげだ。しかし今食べておかないと夜に苦労することになりそうなので、僕は夕食にしようと思った。一階に下りてキッチンへと行き、冷蔵庫から余った冷凍食品を取り出してレンジで温めていく。今はとてもまともな料理を作る気にはなれなかった。




 十時を過ぎたあたりで母親が帰ってきた。彼女は予備の鍵も持っているので、こちらが鍵を開けなくても勝手に開けて入る。しばらく下の階で移動の慌ただしい音が聞こえていたが、少しすると再び静かになった。風呂にでも入ったのだろう。


 僕はベッドの上から動けなかった。立ちあがる気力がどうしても出なかった。手を動かすことすら億劫に感じられるほどだった。体が鉛のように重いのだ。


 不吉な黒い猫が現れ、そのあとでヒカルが家を訪ねてきて。いろんなことが一挙に起こった愉快な一日だった。これならいくらでも日記が書けそうな気がする。しかし、肝心のやる気がなかったため、これらの出来事が記録されることはないのだろうなと思った。


 夕食も食べ、風呂にも入り、歯磨きをして、寝る体勢はすっかり整ったのに、僕は一向に眠ることができなかった。何度も姿勢を変えるが、うまくいかない。頭の中で、軍勢同士が激しく争っているようだった。その音であまりリラックスできず、どうにも寝付けない。僕の力ではその乱闘を止めることはできず、ただそれが終わるのを待つことしかできなかった。


 あっという間に時間が過ぎてしまった。部屋の明かりを消しているので正確な時刻はわからないが、おそらくとっくに真夜中に足を踏み入れていた。下の階でもう物音はしない。母親はもうぐっすりと眠っているのだろう。彼女は寝つきがものすごくいいのだ。


 目がだんだんと暗闇に慣れてきているのがわかる。今ではもう、部屋の中をかなりくっきりと認識できるようになっていた。カーテンはぴたりと閉じられ、外からの明かりも入ってきていない。しかし僕にはカレンダーに書かれた数字すら見えていた。


 ふと、外に出てみようかという気になった。何もないところからボッと火がつくようにその考えは現れた。何も特別な意図はない。ただ、外を歩いて頭をすっきりさせた方がいいのではないかと思ったのだ。それは悪い考えではないように感じた。体を動かせば眠ることもできるだろう。体は疲れて睡眠を求めるに違いない。


 僕は学校の上下長袖のジャージに着替えて、母親を起こさないようにそっと家を出た。


 外は思っていたより寒かった。風が少し強い。この格好で正解だったみたいだ。頭上では満天の星が煌めいていた。丸い月が僕とこの世界をふてぶてしく見つめている。とくにどこに行こうと決めていなかったので、僕はとりあえず適当にぶらつくことにした。


 誰ともすれ違うことはない。外は静まり返っていた。ところどころ点在する明かりをたよりに漫然と進んでいく。二手に分かれたところは、そのときの気分によって思うままに、左に曲がったり右に曲がったりした。立ち止まらないよう注意しながら、どんどん家から離れていった。


 歩いているうちに、だんだんと思考が透明になっていくのが感じられた。これまでごちゃごちゃに散らかっていた様々な記憶が、きちんと要領よく整理されていくような感覚があった。パズルのピースがあるべきところに収まっていくようなものだ。ポケットに手を入れながら、僕は大きなパズルを時間をかけて完成させていく工程を思い描く。この散歩はその作業をより円滑にしているみたいだった。


 かなり歩いてきた。携帯も時計も忘れてきたため、家を出てどれほど経ったのかがわからない。一時間ほどは歩いた気がする。空を見上げると、月の位置が微妙に変わっている。しかし確証はない。見ようによっては月はそこからまったく動いていないようにも見える。もしかすると、一時間も歩いていないのかもしれない。そんなことを考えながら、僕は人の通らない闇の世界をただ通っていった。


 ときどき後ろを振り返り、自分のあとをつけているものがいないことを確かめる。誰かにつけられる理由などまったくないのだが、万が一ということもある。後方からいきなり頭の狂った殺人鬼が襲い掛かってくることもないわけではないのだ。そんな奴に殺されても困るので、僕は数分おきに後方を確認する。幸い、後ろには誰もいなかった。


 ここがどこなのか、どこを歩いているのか、それはとっくの昔にわからなくなっていた。そろそろ戻るべきなんじゃないかと思う。しかし歩みは止まらなかった。こうなったらいけるところまで行ってみようという気になったのだ。誰もいない夜道を歩くことは楽しくもあった。こんな夜中に出歩くこと自体が初めてだったので、その興奮もあったのかもしれない。その頃には僕はすでに、外を歩く目的を忘れてしまっていた。頭の中には、見知らぬ道を歩く純粋な楽しみだけがあった。


 車が一台しか通ることのできない細い道を延々と突き進む。景色はほとんどが一軒家だったが、たまに公園を見かけたり、畑があったり、共同墓地があったりした。何もかもが静まり返っている。しかしなぜだか恐怖は感じなかった。


 意図せぬままに、僕は学校のある都会方面とは反対の方角に歩いてきているようだった。見慣れない景色ばかりが目に入る。いつもの大きな川にも出会わない。象徴的な立派な橋も通ることはない。


 川を挟んだこちら側と向こう側では、その世界はまったく違う。


 僕の住むこちらの地域は、夜も朝もあまり変わらない。いずれにしても静けさに満ちている。もともとあまりにぎわいがないのだ。自然がそのままに残され、野生の動物はほとんど身の危険を感じないで生きている。もちろんビルなんて一つも建っていない。建っているのはだいたいがこじんまりとした民家だった。


 対して向こう側の地域は、その趣がまったく逆だ。騒がしくすることを生業としている。そして、昼と夜とでその顔色をがらりと変える。少なくとも僕はそう感じる。実際に夜の町を歩いたことはなかったけれど、こういうことは雰囲気でだいたい察することができる。その理由の多くは、町を歩く人が夜になると違ってくるというものだろう。昼もにぎやかだけど、夜は違った意味でにぎわうに違いない。もっと怪しくて、含みのあるにぎわいだ。僕はどうしても、そちらの都会方面の町は好きになれなかった。しかし学校がそこにあるため、どうしても毎日通っていかなくてはならない。今はもうだいぶ慣れたが、気分の悪いときはついその町を焼き払ってしまいたくなった。そうすればあちこちで流れるくだらない音楽も、人も、全部すっきりするだろうと。しかしこんなことは口が裂けても誰かに言えない。


 おそらく都会方面ではたくさんの明かりがつき、人も多く歩いているのだろう。こちらは不自然なほどひっそりとしている。昼も大概だが、夜になるとこんなにも人が通らなくなるということに驚いた。わりと長く歩いているが、未だに一人もすれ違うことがなかったのだ。さすがにこれは変だと思いはじめた。だが、むしろこれが普通なのではないかと楽に構える僕も確かに存在するわけで、何とも微妙な気持ちを抱えながら僕は前に進んでいった。




 休むことなく歩きつづけていたせいか、僕はだんだんと疲れを感じてきた。あれから何時間歩いてきたのだろうか? 感覚的には二、三時間は歩いたんじゃないかと思う。それほど急いでいたというわけでもないのだが、長時間歩くのはずいぶん久しぶりのことなので、比較的短い時間で十分な疲労が蓄積したらしい。そのときにちょうど公園を見つけたので、僕はそこに入り、遊具の上に座って休むことにした。それはデフォルメされたゾウの遊具だった。バネがついていて、体を揺らすとゾウは前後左右に動いた。事実かどうかはわからないが、ピンク色の体をしていたので、このゾウはメスだろうなと想像した。くだらない妄想だった。


 星を見る。それらは相変わらず米粒のような小さな姿で頭上を覆っていた。今日は絶好の星の観察日和のようだ。雲は一つも浮かんでおらず、空は星の輝きでいっぱいだった。僕は星座はオリオン座しか知らなかったので、あまり星観察の楽しみをしらない。その星座を見つけてしまうと、僕は空を見上げるのをやめて周囲に立ち並ぶ民家を眺めていった。どの家も一様に押し黙っている。明かりのついている家など一つとしてない。


 公園にはゾウの乗り物のほかに、貫禄のある大きめの滑り台、二つのブランコ、休憩用のベンチ、半分ほど地中に埋まったタイヤの並びなどがあった。この光景は古い記憶を軽くノックする。その中の思い出を呼び起こそうとする。だが、中には誰もいなかった。古い記憶は何一つとしてよみがえることはなかった。


 そろそろ歩きはじめなければならない、と思った。もうかなり休めたはずだ。僕はまた、当てもなくこの町を歩く必要がある。そのように思えてならなかった。


 もしかすると僕は、この夜の田舎町で何かを探し求めているのかもしれなかった。その何かというのは、実際にこの眼で確かめてみないことにはわからない。だが一目見ればそれが捜していたものだとはっきりわかるはずだ。どこにあるともわからない、名前も知らないその探しものを求めて、僕は今すぐにでも出発しなくてはならない。それはきっと夜だからこそ見つけられるものだ。だから僕は、こうして意味もなく外に出てきてしまったのかもしれない。どうしても家に帰りたいと思わないのもこうした理由によるものなのかもしれなかった。


 ピンクのゾウの乗り物から降りて公園を出る。いざ歩を進めようと思ったそのとき、後ろから誰かの視線を感じた。


 とっさに後ろを振り向く。しかしそこには誰もいなかった。首をひねり、前を向いて歩きはじめたが、後方からは明らかに、誰かがこちらをじっと見ている雰囲気が感じ取れた。どうしてそう感じてしまうのかはわからない。いるはずのないものにおびえているだけなのかもしれない。夜というのはそういう想像を巧みにするからだ。しかし、これを単なる虚構として理解するには、その視線は強烈すぎた。これまで置き去りにされてきた恐怖感が僕の中に戻り、不安をあおった。僕はたまらなくなって、その場を急いであとにした。


 速めに歩きながら考えつづける。もしかするとあれは思い違いかもしれない。気がたかぶってしまって、そこにあるはずのないものを勝手にでっちあげていただけのかもしれない。だが、そのときに感じた純粋な恐怖はまだ残っている。印象としてではなく、手で持つことができるほどにはっきりとした実像として。


 いつまでも視線は消えてはくれなかった。僕に何らかの恨みを持つ者が、夜中に僕を襲おうとしているのだろうか? これほど憎まれる覚えはないというのに。しかもそれは巧妙に姿を隠し、僕に有効な恐怖を与えている。ストーカーにつけられるときの感じはこういうものなのかもしれないな、と無駄なことを考えていた。


 なんだか同じところをぐるぐる回っているようだった。いくら歩いても同じような景色しか見えない。目印になりそうな目立った特徴などなく、どこも変わり映えのない家ばかりだ。視線から逃れようとしても、身を隠すようなところなどなく、それに一定の場所にとどまるよりは動いていた方が得策だろうと思い、ずっと移動しつづけているのだが、いつまでも状況は好転しなかった。恐怖は分刻みで倍増していった。


 視線は一定の距離を保ったままこちらを追尾してきているようだった。僕がいくら速く歩こうが、あるいは遅く歩こうが、その視線は僕をぴったりとマークしていた。相手の姿が見えずとも、そのことは何となく感覚でわかった。近すぎず、遠すぎず、見つめる対象を最もおびえさせ、心をかき乱す最適な距離だ。おかげで僕は、その緊張感で頭がおかしくなりそうだった。もう自分には歩くことしかできなかった。とにかく前進する。この世界のどこかにある探しものを見つけるために、視線から逃れるために。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ