第6話(ユウキ) 夜道を行く(1)
その声は玄関から始まり、階段を駆けのぼり、廊下をつたって、僕の部屋にこだましてきた。
僕は返事をしようとする。しかし口は動かなかった。声を出すこともできなかった。
猫はやっと動いた。僕の腹から離れ、ベッドを下りる。そのあいだ、猫はずっと僕を見ていた。下りたあとも視線を外そうとはしない。猫は入ってきたときと同じように、静かに扉を抜けていった。そして、扉はごく自然にバタンと閉じられた。
その瞬間、僕を支配していた拘束は解け、自由に体を動かせるようになった。自分の両手を見つめ、手のひらを開けたり閉じたりする。思い切り頭を振り、勝手な行動をとっていた扉を見つめた。
「あ、いま音したよね? やっぱりユウキ、いるんでしょ?」
一階からは依然として女性の声が聞こえてくる。その声は間違いなくヒカルのものだった。
彼女には感謝をしなければならない。家に来てくれたおかげで、僕は自由になり、あのわけのわからない猫もいなくなった。結局最後まで何の目的でここに来たのかは不明だったけど、今となってはどうでもいい話だ。とにかく危険は去った。このあともう一度来る可能性もあったけれど、それは心配してもどうしようもないことだ。今はこの自由を喜ぶことにする。
階段を下りてヒカルを迎える。彼女は制服のままだった。手荷物もそのままで、学校から直接こちらに来たようだった。どうして、と訊ねる前に、彼女をなかに入れ、リビングへと案内する。台所の棚から適当にお菓子を出し、冷蔵庫からジュースを取り出す。僕たちはそれぞれ適当な位置に座った。
「どうしたんだ? 部活帰りにしては早いけど」と僕は、コップにジュースを注ぎながら言った。
彼女はぎこちない笑みを浮かべていた。「いや、なんかね。練習、途中で抜けてきちゃったんだ」
「どうして?」
訊ねてみるが、彼女は笑うだけだ。言いにくい事情でもあるのだろうか。だとしても、それがどうして僕の家に来ることになるのだろう。僕がビスケットの箱を開けて、中から一枚をつまんで口に入れたあとでようやく、「まあまあ、いいじゃない。そういう日だってあるんだよ」と言った。
「そういうものなのかな」と僕は首をひねる。
「そういうものなんだよ」と彼女はむりやり結論づける。いまいち納得がいかなかったけれど、いくらこちらが詮索しても答えてくれそうになかったので、僕はとりあえず何度かうなずいて、「わかったよ」と言っておいた。
二枚目のビスケットをかじる。彼女はとくにお腹が空いていないのか、それとも単に遠慮をしているのかわからないが、お菓子やジュースには手をつけなかった。
「テレビでもつけようか?」
「いや、別にいいっす」と彼女は神妙な顔つきで言った。「私、あんまりテレビは見ないからさ。ユウキが見たいならつけてもかまわないけど?」
「いや、僕はどちらでもよかった。じゃあ、別にいいか」僕はテレビのリモコンをテーブルに戻した。
彼女の顔は、見るからに何かを言いたそうだった。そのことで頭がいっぱいで、お菓子に手が回らない、といった様子だった。こちらをじっと見つめ、唇をすぼめている。言いたいことが言えず、じれったい思いを抱えているように体を微妙に揺らしていた。
「君は何かを言いたそうにしているけど」と僕は平たい声で言った。すると、彼女は揺らしていた体をぴたりと止めた。
「ずっと気になっていたんだけど、ユウキ、何だか疲れてない? 部活が終わったあとみたいに服が汗だらけだよ」
「これは。ついさっき外を走ってきたんだ」
「制服で?」
そう言われて、何も言えなくなる。彼女は本気で心配しているようだった。
「ちょっと後ろ向いてみてよ」
「いやだよ」と僕は言った。
「いいから」彼女はまるでひかなかった。仕方なく僕は、座りながら彼女に背中を向ける。振り返って見てみると、彼女は、ほらぁ、と僕の背中を指差していた。
「やっぱり。背中、汗でびちょびちょだよ。本当に何もなかったの?」
「何もないよ。ただ、さっきまでベッドで寝ていたから知らないあいだに汗をかいていたんだろう」
「でも、なんか疲れてる」
「悪夢を見たあとだったから。手足を鎖で拘束されて火あぶりにされる夢だった」
「嘘」
どう取り繕っても彼女は揺るがなかった。仕方なく、僕は先ほど自分の身に起こったことを話す。絶対に信じてもらえないだろうと思っていたので言いたくはなかったのだ。案の定、彼女はその話を信じなかった。
「それ、どういうことなの」
「僕にもわからない。ただ、ありのままの事実を言っただけだ」
「また、嘘ついているんじゃなくて?」
「こんな現実離れした話をすぐには思いつけないだろう」
結局、この話はうやむやのうちに終わってしまった。彼女は最後まで、難解な数学の問題に取り組む受験生のような顔つきを崩さなかった。
彼女はここに何をしに来たのか。僕はそれだけが気になっていた。僕の頭では、あのときの黒猫と、このヒカルという少女がゆるく結ばれていた。彼女の訪問のタイミングは、まさに狙ったかのようなベストタイミングだった。僕はこれが偶然起こったことだとはどうしても思えなかった。考えすぎだとは思うのだが、この結びつきは僕の思考を妨害し、巧みに誘導し、そしてある地点へと導いているような気がした。たどり着く先が何であるのかはまだわからない。しかし、少なくとも猫と彼女が何かしらの関係を持っていることは明らかだった。まだ、そう思っている、という段階にすぎないのだが。
僕はいつのまにか彼女を強く見つめていたようだった。彼女はその視線を受けてたどたどしくお菓子を頬張っていた。それはどことなく不自然な動きだった。
「無理して食べなくてもいいんだよ」
「無理は、してない」と彼女は言い張った。お菓子を食べるためだけにここに来た、といっても不思議には感じないほどの食べっぷりだった。彼女が残りのビスケットをすべて食べてしまったあとで、彼女は言った。
「悪いね。お菓子とかいろいろもらっちゃって」
「食べたあとでそれを言うなよ。まあ、遠慮はしなくていいから。まだお菓子はたくさんあるし」
「えへへ、ありがと」と彼女は神妙に頭を下げた。「これ、全部ユウキが買ったの?」
「いいや、母親が仕事の帰りにいろいろと買ってきてくれるんだ。僕もたまに買うけど、それはたいていその日のうちに食べてしまう」
「お母さん、センス良いね。私の好きなものばかりだ」と彼女は満足そうにテーブルの上のお菓子を眺めた。「お母さん、どんな人だっけ」
「君が家に来たのは、思えばずいぶん久しぶりだよね」
「そうだねぇ。高校に入学してから初めてじゃないかな?」
「うちの母親はそのときとまったく変わっていないよ。相変わらず仕事、仕事だ。僕だってどんな人だったかすぐには思いだせないくらい会っていない」
父親が死んでから、母は狂ったように忙しい毎日を送るようになったらしい。僕が中学に上がる前の話だ。彼女は目を丸くしていた。
「会ってないって。同じ家に暮らしているのに?」
「意識してそうしているわけじゃないんだ」と僕は言った。「ただ、僕が寝るころにやっと帰ってきて、起きるころにはもう家を出ているから、本当に顔を合わさないんだよ。仕事が休みの日も、会えるのは朝と夜くらいで、あとは仕事の付き合いで外に出ているし」
「ほとんど一人なの?」
「まあ、そうだね」
それから彼女はいきなり力が抜けてしまったように黙ってしまった。こちらをさみしそうな目で見つめている。
「ねえ」とあるときぼそりと言った。「ユウキさ、もっといろんな人と話した方が良いよ。おせっかいかもしれないけどさ。あんたを見ていると、心配でしょうがなくて」
「それは必要なことなのかな、やっぱり」
「私は、必要だと思うよ」と静かに言った。その言葉は水たまりに雫が落ちるように僕に届いた。「たぶんね、どっちも遠慮しすぎなんだと思うよ。変に意識して、ぎこちない感じになっているだけ。普通に話しかければ、時間はかかると思うけど、だんだん打ち解けてくると思うよ。クラスの人たちはみんな良い人ばかりだし、ユウキだって話していて楽しいし」
「言っていることは正しいんだと思うよ。けどね」と僕は言った。「どうしてもそうすることができないんだよ。この気持ちはおそらくわかってはくれないと思う。僕だって言葉では説明できそうにない。実際には存在しないんだけど、僕と、彼らのあいだに、乗り越えることのできない高い壁がそびえたっているような感じがするんだ。その壁には細かいトゲがついていて、登ろうとすると手を傷つけてしまう。僕はそれが恐くて壁を乗り越えることができない。過去に手を傷つけた経験があるから。その痛みを知っているから、どうしても乗り越えることができないんだ」
「そっか」と彼女は言った。「まあ、こうして元気でいてくれればいいよ。中学のときみたいに、自分を追い込まないでね。それだけが心配だったんだ」
「もうそんなことはないと思う」と僕は言う。しかし、本当にそうなのか確信を持つことができなかった。そのせいか、声も少し小さめになってしまった。
彼女はしばらくして帰った。あのあと少し会話をしたが、どの話題もあまり盛り上がらなかった。テーブルには空になったお菓子の袋が散乱していた。その半分以上は彼女が食べてしまった。
ヒカルを見送ったあと、僕はすぐに家の鍵を閉めた。またあの黒猫が入ってこられないようにするためだ。しかし鍵を閉めたところで、それが有効になるかどうかは微妙なところだった。あのときだって鍵はかかっていたはずなのだ。にもかかわらず、何食わぬ顔で猫は侵入してきた。僕には鍵をかけてとりあえず安心することと、再び猫がやってこないことを祈ることしかできなかった。
ごみを捨て、コップを流しに入れる。時計を見ると、時刻は六時五十分だった。彼女が来てからそれほど時間は経っていない。しかし、彼女と話したあの時間は、一週間分くらいをぎゅっと小さくまとめたみたいに濃密だった。僕としても、あれほど誰かと長々と話をしたのはずいぶん久しぶりのことのように思える。昔からの顔なじみとはいえ、あまりに久々だと気後れしてしまうものだ。僕はもともと女の子と話をするのが苦手なのだ。ヒカルでもない限り、話しかけようという気すら起こらなかった。
彼女の話を聞いて、僕は中学時代のつらい時期を思いださないわけにはいかなかった。一時期は命を絶つことすら考えていた。台所の包丁を見て、こいつで手首をさくりと切ったらどんな気持ちのするものなのだろうと思案することが何度もあった。僕は生から死へとゆっくり傾いている自分に興味があったのだ。一息に死ぬのは駄目だ。たとえば、地上二十階のビルから飛び降りたり、急行電車にひかれたりするのはいけない。そうではなくて、だんだんと死が迫ってくるような体験をそのときの僕は求めていた。どうしてかはわからない。おそらく当時の僕は少々頭がおかしかったのだろう。世界が見えず、己が見えず、どう生きていけばいいのかわからなくて、それで狂った思想が飛び出てしまったのだろう。今となっては懐かしい思い出だ。
ヒカルは心配していたようだったが、少なくとも今の僕にそういった気持ちはなかった。死など眼中にはなかった。かといって、生に眼中があるのかと問われたら言葉に詰まってしまう。今の僕は本当に生きているのかがわからない。死んではいないのだからきっと生きているのだと思う。だが、そこに本来あるべき生き生きとした感じが欠けていた。生きる喜びとでもいうものがないのだ。唯一生きていて良かったと感じるのは音楽を聴いているときくらいだが、それは果たしてどうなのだと自分でも思う。それは受動的なものだ。自分から何かをして、それに喜びなり楽しみなりを感じたという経験は、長らくなかった。僕には生きる目的も、死ぬ目的もなかったのだ。それはもしかすると、中学時代よりもひどい状況なのかもしれなかった。
ヒカルという少女が僕の救いになっているかといえば、すんなりとうなずけないところがあった。彼女はたしかに、中学校からずっとお世話になっていた。僕が死を踏みとどまることができたのも彼女のおかげだった。だが、彼女のためにこれからも生きていくという決意ができるほど僕は彼女を好きにはなれなかった。彼女を見るとき、僕はどうしても自分と比較してしまうのだ。彼女は勉強もスポーツも万能だ。友人も多く、いろんな人から信頼されている。いつも輝いていて、話もうまい。僕とは大違いだ。僕と彼女は明らかにつりあっていなかった。そういう邪険な思いが常にあって、それでうまく彼女を受け入れることができないでいた。消そうとしても、それは消えてもくれないし、意識すると逆に膨らんでいった。劣等感、うらやましさ、憧れ、そして多少の憎しみだ。友人に、しかもいつも親切な彼女にこんなことを思ってしまうのはさすがに終わっていた。
頭がこんがらがってきたので、僕は二階に上がり、そのままベッドに倒れ込んだ。そしてそのまま眠ってしまおうとした。一回落ち着こう。そのあとで、いろんなことをゆっくり考えたい。今はあまりにホットすぎて、正常に思考することができなかった。
彼女とはもっと話をするべきだったのではないかと思う。僕の方が意図的に溝を作ってしまっている。その溝を、早いところ埋めなくてはならないのだ。このままでは彼女にばかり負担を強いてしまう。彼女はその溝を埋めようとしてくれているのに、僕がどんどん溝を深くしてしまっているから、溝は一向になくならないのだ。それではいけない。僕が埋めなくてはならない。
そのことがわかっていながら、僕はどうしても何かをしようという気にならなかった。おそらく、明日になっても僕は変わらないだろう。明日も空を見続けることになるだろう。そうしてまた後悔を重ねていくのだ。僕は自分にいらだった。