第5話(少年) 目を覚ます銀髪の少女
気がつくと、そこはもう地下室ではなかった。僕はうっそうと茂った森の中で寝そべっていた。
体を起こして、周囲の状況を確認する。人が通っていくうちに自然にできあがったような道の真ん中に僕はいた。真後ろから正面にかけての一直線の道だ。それは前後に、延々と続いていた。視線の先に広がる道なき道を目で追ううちに、道の途切れた箇所がある。そこから先は闇に呑み込まれたように暗くなっていた。その暗黒は、何もかもを飲みこんでしまいそうな死の香りに包まれている。その色は絶望感よりも虚無感を感じさせた。そこは何の混じり気もなく真っ暗なのだ。まるでそこから先は道など存在していないかのように。僕のいる場所だけが他から断絶されているような印象だった。あるいはここだけがピックアップされているようだった。
ここを森たらしめている樹木は、道の両側に縦横無尽に生えていた。どの木も立派で、たくさんの枝をつけていた。上を見ても枝と葉に遮られて、空が見えない。その隙間から淡い光が射しこんできて、僕や地面を斑点模様のような影で覆っていた。
森には何の音もなかった。鳥の声もせず、風の吹く音も聞こえない。聞こえるのは僕の鼻息だけだ。その状況は僕を混乱させた。何だか音だけが無理矢理抜き取られてしまったような違和感を覚えたのだ。本来存在するはずの音がすっかり欠けてしまっている。地面の感触や木のかたちは間違いなく本物のようだったが、それは本物のように精巧に作られた人工物であるように思えた。
本当なら、こうして自然に囲まれていることはとても安らかな気持ちになれるはずだ。しかし、ここはまるで落ち着くことができなかった。どうもそわそわしてしまう。この森にはそう感じさせる何かが潜んでいるのだろう。そうでなければこの緊張は何なのだ。
頭や服に土がこびりついていたので、それを払い落として立ちあがる。見るからに不気味な森だが、きっと進まなければならないのだろう。このままじっとしているわけにもいくまい。もしも自分が実験体であるという仮説が本当なら、このあとどう動くかを何者かが興味を持って観察しているのだろう。その誘いに乗ろうじゃないか。それでここから出られるのなら、僕は何だってやる。とりあえずは道なりに歩いてみることにした。両側に広がる森の中もどうなっているのか気になったのだが、ひとまずそこの探索は先送りにして、提示された道に沿って進んでいく。
道は長く続いていた。いくら歩いても終わりが見えてこなかった。分かれ道に出くわすこともない。迷う心配がないのでそれはそれで良かったのだが、見える景色が変わらないのにはさすがにうんざりした。
ようやく景色が変化する。道が途切れ、その先には小さくひらけた広場のような場所があった。そこには何だか懐かしさを覚えた。忘れ去られた僕の記憶が、この景色を見てかすかに反応しているらしい。木々に囲まれ、独特の雰囲気を持つここは、内緒の秘密基地のようにも思えた。
そこには二、三人が座れそうな木製のベンチがひとつ置かれていた。その横には明かりのついていない街灯のようなものもある。ここで休憩しろ、ということなのだろうか。どういう意図があるのかはしらないが、ちょうどいろいろと疲れていたので僕はベンチに座った。腰かけると、ぽっかりと空いた穴にちょうどかたちの同じものがはまったみたいな快さが全身に行き渡った。座っているあいだ、僕は何も考えずにいた。ただ顔を上げて、木々の隙間から見える光に心を奪われていた。
充分休んだところで僕はつと立ち上がる。頭の中は洗い流されたようにすっきりしていた。自分に起こっていることを、何とか受け入れることができた気がする。現実のものとしてではなく、夢のものとしてでもなく、ただありのままの景色をまるごと受け入れるのだ。そこで現実とか夢とかは考えなくていい。わけのわからないことが発生したとしても、そういうことが起こりうる世界なのだと、理解しようともせずに受容すること。それがこれからこの森を進んでいくなかで大切なことなのだと悟った。
再びまっすぐな道を歩く。歩きにくいところはなく、木の根につまずきそうになることもなかった。地面を踏み鳴らす音と、さきほどよりはよほど安定した鼻息だけが耳に入ってくる。こうしていると、自分が観念の存在になっていく気がする。自分が森と同化していく感覚があった。自分は森の一部なのだ。しかし、こんな死んだように静かな森になるということは苦痛なのだろうなとも思った。森において、音は必要不可欠なものなのだ。地下室でも音はなかったが、あれは場所が場所なだけにとくに違和感は感じなかった。だが、ここはそれでは駄目なのだ。景色に見合った自然の声がやはり必要なのだ。
そういった文句も抱えつつ、果てのない道を行く。以前より早い時間で道は途切れた。だが見えたのは、前に見たものとまったく変わらない光景だった。小さな広場に、ベンチがひとつ置かれ、その隣には街灯がその機能を放棄して立っている。
しかし、よく見てみると違ったところがあった。人がいたのだ。
それは小さい女の子だった。彼女はベンチにはなぜか座らず、ベンチの横で体をまるめてうずくまっている。顔を伏せているのでその表情はわからない。紺色のワンピースを着ていて、サイズの小さなかわいい靴を履いている。髪は銀色だ。
彼女の傍らには、クマのぬいぐるみがあった。記憶はないのだが、それがクマだということはわかった。普遍的な記憶はどうやら残っているらしかった。言葉を覚えているのと同じように。
僕が近づいても、彼女はずっとその姿勢のままだった。そっと近寄ったので、気づいていないのかもしれない。だがあえてうるさく歩く必要もないので、そのまま彼女に忍び寄り、肩を叩いた。
「こんにちは」
思えばこれが、まともに言葉を話せた初めての瞬間だった。声に反応して少女は顔を上げる。
彼女はとても美しい女の子だった。あまりに美しいので、現実感が損なわれて足元のぐらつく感覚があったくらいだ。年相応の、一般的に「かわいい」と称されるような相貌ではない。体はまだ少女だが、彼女の持つ雰囲気、そして顔つきはすでに成熟していた。成熟といっても、完成されているのとは違う。どちらかといえば、彼女は自分の美しさをもてあましているようにも見えた。自覚が足りていないのだ。自分自身に不安を抱えているような危うさがまだそこにあった。気をつけて触れてあげないといくらでも傷ついてしまいそうだった。
彼女には不思議なオーラがある。放っておけなくなるような、かまってあげたくなってしまうような、そんなオーラだ。そうやって悲しそうに涙を流しているのを見ると、声をかけてあげることが自分の義務であるように思ってしまう。
少女は黙っていた。まるで家に入りこんできた邪悪な虫でも見るような目つきでこちらを睨んでいる。体をぎゅっと丸め、外敵から身を守ろうとしている。姿勢を若干崩して、いつでも逃げられる体勢を取っている。僕は少し彼女から離れた。手を上にあげて、自分に危険はないということを知らせる。意識的に微笑みを浮かべた。
「ごめん。驚かせちゃったかな? ここに来て初めて僕以外の人間に会えたから、ちょっと興奮していたのかもしれない」
少女はつりあがった目でまだ僕を見ていた。けれども、最初よりはとげとげしさが無くなった気がする。彼女はその場を動かない。そして、あるとき何か大切なことを思いだしたかのような表情になり、そのあとでベンチに置かれていたぬいぐるみを取って、それを抱えた。きつく抱きしめられているために、クマの体はぐにゃりと曲がり、顔は歪んでしまっていた。そのぬいぐるみが彼女にとって大事なものだということは明白だった。
「そのぬいぐるみ、かわいいね。ずっと大切にされていたようだ」
現にそれは、あちこちが薄汚れていた。糸の飛びだした部分もある。およそ新品とは呼べない代物だ。しかしそれは、彼女がもっと幼い頃から一緒に時を過ごしてきたというあたたかい証明になっていた。
ぬいぐるみのことを聞いて、彼女の顔が途端にゆるむ。だが完全には警戒を解いたわけでもなくて、その顔はうれしいのかうれしくないのかわからない複雑な表情を浮かべていた。
「君の名前は、なんていうの?」
「……クルミ」
少女はぼそりと答えた。ツンとした声だった。欲しいおもちゃを買ってもらえず、車の中でも気分を良くせず、母親がどれだけ話しかけてもまともに答えてくれないときのような声だった。思わず頭を撫でてやりたくなるような、女の子の声だ。
「かわいい名前じゃないか。両親がつけてくれたんだ?」
彼女はうなずく。顔のゆがんだクマのぬいぐるみを抱きしめたまま、確信を持って。僕はベンチに座って、彼女の方から話をしてくれるのを待つことにした。おそらく僕に危険はないということはわかってくれたはずだ。迷子らしい子供に対する適切な接し方であったかどうかは自分では判断できないけれど、精一杯努力はしたつもりだ。もともと僕は子供が好きだったのかもしれない。記憶が吹き飛んでいるので正確なところはわからないのだが。
しばらくして、少女は立ち上がって僕の隣に座った。こちらは見ようとせず、じっと前を見つめている。
真上を通り過ぎた鳥が、やがて見えなくなってしまうくらいの時間が経って、ようやく彼女は口をひらいた。
「お前の名前は、なんというのだ」
ずいぶんとませたしゃべり方だった。声と話し方のつり合いが取れておらず、そこに多少のおかしみを感じてしまう。
「僕には、名前はないんだ」と僕は言った。
彼女はこちらを見た。「名前がない?」
僕はうなずく。「ない、というか。実は、ここにやってきたときに記憶を取られてしまってね。取られたのか、単に自分が思いだせないのかはわからないけど、今は自分の名前すら思いだすことができないんだ。もとの自分はいったいどういう人物で、どこに住んでいて、何をしていたのかもわからない。ただ、着ているものが学校の制服だということはなぜだかわかった。だから、自分は高校生なのだなということだけは理解できた。それ以外となると、さっぱりなんだ」
「私には、そういうことはない」
「記憶がない、ということが?」
「ああ。私はここに来る以前のことを覚えている。この子のことも……」と彼女は言って、胸に抱えたぬいぐるみを見た。
「君はここの住人じゃないんだ?」と僕は少し驚いて言った。彼女はてっきりこの森に、あるいは森を抜けた先にあるどこかの町に住んでいるのだとばかり思っていたのだ。彼女の美しさには、そう感じさせるものがある。この現実か夢かわからない幻想世界でしか生きられないような、そんな透明さだ。
少女は泣くのをこらえているような顔をして話す。
「早くここを出たい。ここはなんだか怖いのだ。森というところには初めて来たのだが、これほど恐ろしいところだとは思ってもいなかった」
「たしかにここには長くは居たくない。僕だっておんなじだ。でも、ひとつ言っておくと、普通の森はこんな感じじゃないと思うんだ。記憶のない僕が言うのもなんだか変な話だと思うけど。森はもっと僕たち人間を包み込んでくれるような温かさがある。ここにそういうものはない。どこか作り物めいているんだ」
「そうなのか?」
「たぶんね。もしかすると僕の方がおかしいのかもしれない。頭がからっぽだから、何にでも適当な言い訳をつけて自分を納得させようとしているだけなのかもしれない。ここに来る前に地下室にいたんだけど、そこで僕は誰かに実験されているんだ、って根拠もなく思っていたくらいだからね。そう信じることで、少しでも周りの状況を理解しようとした。今回もそういう意識があって、それでこの森は偽物だ、とただ言っているだけにすぎないのかもしれないよ。でも、僕は直感でそう思う。森というのは本来こういうものじゃない。もっと優しいものなんだ」
話し終えて、少女にここまで話しこむ必要があったのか、とふと思った。久しぶりに人と話すことができてうれしかったのかもしれない。でも、余計なことを言ってしまったことは反省すべきではあった。僕がどう思っているかなんて、今は重要ではないのだから。
「まあ、とにかく。もとの世界に戻れたら、本当の森に行ってみるといいよ。全然違うから」
「わかった」と少女はうなずいた。
少女はもう涙を流していなかった。きっと、この世界に取り残されてさみしかったのだと思う。そのさみしさを少しでもやわらげることができて、僕はうれしかった。涙は気づかないうちにきれいにふき取られていた。目ももう赤くなかった。
僕たちは黙ったままベンチに座っていた。どうしてか次の言葉が出てこなかった。言いたいことがあるのに、何かに邪魔されて言えないような、そんなもどかしさを感じていた。
そして、「ねえ、僕と一緒に行かない?」とついに言えたのは、だいぶ経ったあとだった。