表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/25

第4話(ユウキ) 影の差した日(3)

 時計を見ると、針は四時四十三分を指していた。いつの間にか結構な時間が経っていたらしい。プリンはとっくに食べ終えていた。キッチンの流し台にその皿を入れ、プラスチックのスプーンをごみ箱に入れたあと、階段を上って二階の自分の部屋に行った。


 今日も何事もない日だった。僕はベッドに寝転んでそう思った。いつも通りの一日だ。何が起こるということもない。気を引くような事件もない。こうして僕は日々を無為のうちに過ごしていくのだ。自分は今度どうなっていくのだろう。そのことについて考えるうちに、自分自身にいらだちを感じた。将来が不安なら、不安にならないように今から努力をすべきなのだ。そのことはわかっているのに、具体的に何をすればいいのかが浮かばない。どうして自分はいつもこうなのだ、と怒りを向ける。だが、その怒りはどこにも行き着かない。自分の殻の中でぐるぐる回っているだけだ。怒りの正体はよく見えない。いろいろなものが組み合わされてできたものだから、その実態も不明なのだ。自分が抱えている言葉にならない想念が、パンの生地のように混ぜ合わされ、変容していく。それは決してこんがりとおいしいパンにはならない。うまく膨らむことができず、正体のわからない物体になる。あるいは、膨らみすぎて破裂してしまう。


 悩みは重なり合い、また新たな悩みを作り出していった。頭がそれでいっぱいになる前に、僕は携帯音楽プレーヤーを取り出してイヤホンをつけた。そこから聞こえる音楽に意識を傾ける。


 男性ボーカルの感傷的な声が、僕の頭をすっかり整理していった。今まで命令に逆らうばかりだった学校の生徒たちが、権威ある者のひと声できちんと列を作るみたいに。何かで潰れそうになったときは、いつも音楽を聴いている。少なくともその時間は何も考えなくて済んだ。それが良いことなのか、悪いことなのかどうかは判断せず、ただ好きな曲に耳を澄ませた。流れる曲に合わせてハミングしているうちに、自分が落ち着きを取り戻していくのを感じた。


 制服を着たままベッドに横たわる。このまま眠ってしまおうかと思った。曲はバラードへと切り替わる。甘い音色が夢の世界へといざなっていった。




 どのくらいの時間が経過したのか、はっきりとは思いだせない。とてつもなく長い時間が経ってしまったようにも感じるし、ほんの少ししか経っていないようにも感じる。


 意識がひどくぼんやりとしていた。曲を聴いているうちに目を閉じて、そのまま眠ってしまった。頭を動かして目覚まし時計を見ると、六時を過ぎていた。一時間ほど寝てしまったらしい。中途半端に眠ってしまったせいで、体が重く感じる。病気明けの月曜日みたいだった。体を起こそうとするが、うまくいかなかった。音楽プレーヤーは再生をやめていた。イヤホンを外して枕元に適当に置く。


 窓からは赤い光が射しこんでいた。もう暗くなりかけている。外からは帰宅途中であろう女子高生の声が聞こえてくる。何人かの気の合う仲間同士で個人的な会話に熱中しているようだった。彼女たちはかん高い悲鳴のような笑いをたてている。その声は僕の居心地をさらに悪くさせた。


 もう一度体を起こそうとする。だが、体は動かなかった。本格的にこれはおかしいと思い始めた。ベッドに固定されたように身動きが取れない。金縛りにあっているのか? まずそう思ったのだが、それとは少し違うだろうとすぐに思い直した。これまで金縛りにあったことはないのだけれど、場の状況からその可能性はあまりないように思えたのだ。体の自由が奪われているわけではない。手や足を動かすことはできた。ただ、ベッドに張りつけられてしまったように起き上がることができないというだけだ。力を入れてみても、手ごたえがない。重石でも乗せられているようだった。


 部屋の扉が開く音がして、横を向く。廊下に続くドアは半開きになっていた。それはごく自然に開いた。まさか自動的に開いたわけでもあるまい。誰かがここに侵入してきたのだろうか。それは十分考えられることだった。家の鍵はかけておいたはずだ。しかし、プロの手にかかれば開錠など余裕なのだろう。黒い服をまとった誰かが静かに二階に上がってくるのを想像し、途端に寒気がした。今は動けない状態だ。逃げようにも逃げられない。それこそ死にもの狂いでベッドから起き上がろうとするが、力は空回りするだけだった。


 静寂が家を包んでいた。足音は聞こえない。慌てて聞きそびれていたのかもしれないが、それらしい音はしなかった。そして、僕の想像する恐ろしい誰かは一向に姿を見せなかった。


 その代わりなのかはわからないが、一匹の黒い猫が半開きのドアからこちらにやってきた。猫は風が入りこんでくるみたいに自然に部屋に入ってきた。その顔は何かに腹を立てているようにも見えるし、良いことがあって幸福な気分になっているようにも見えた。残念ながら僕は猫の表情は読み取れない。


 その猫はまっすぐ僕に近づいてくる。ベッドに横たわる僕のところへ、優雅にのんびりと歩いてくる。猫はベッドのすぐ下まで来ると、「にゃあ」と鳴いた。気品のある様子からは想像できないほどのかすれたひどい声だった。そして気持ち良く跳躍をしてベッドに飛び乗った。当然のように猫は、動けない僕の腹の上に座る。


 しばらく沈黙がつづいた。僕は猫をにらみ、猫も僕をにらんでいる。その猫は、毛並みがよく手入れされた頭の良さそうな猫だった。極端にやせ細っているわけではないのだが、体のラインはモミの木のようにスマートだった。そして人間慣れしている。親切な飼い主のもとで栄養の高い食事を与えられている幸運な猫のようだった。目は黄色い光を放っている。金色に近いかもしれない。口は堅く閉ざされ、何も語ろうとはしない。その猫にはどこか神秘的な雰囲気が感じられた。そのままじっとしていたら、よくできた芸術作品と間違えてしまいそうだ。しかし、一定の間隔でぴくぴく動く左右の長い髭が、彼を生き物だということを証明していた。


 暑い夏の季節だ。夕方とはいえ、まだその熱は残っている。先ほど暴れたせいで、背中には汗が滲んでいた。ワイシャツが汗でぬれて気持ちが悪い。すぐにでも服を脱いで体でも流したいところだが、この状態だ。体は動かす、猫は腹の上に乗っている。この猫が僕を拘束しているのだろうか? にわかには信じられないことだが、今はそう思うしかないだろう。僕はひとまずそれで納得することにした。


 猫は未だに動こうとしなかった。いいかげんに開放してほしいものだが、猫はこちらをじっと見たまま動かない。目を見ていると、その中に吸い込まれてしまいそうだ。そうなってもいいから、ひとまず自由になりたかった。シャツを交換したい。いったいどういう理由で僕の家に無断で侵入したのかはわからないが、その程度のことはやらせてほしかった。


「ユウキ―、いるー?」


 沈黙を針のように突き破る鋭い声が、下の階から響いてきた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ