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第24話(ユウキ) 現実を取り戻すために(3)

「こんなところで何をしているんだ」と僕は言った。


 ヒカルは現実世界の彼女と何ら変わるところがなかった。活発そうな印象、ショートカットの茶色い髪、いたずらに笑っている口もと、子供みたいに好奇心に満ちた瞳。こちらの世界でも、彼女の人を惹きつけるオーラは健在だった。


「それはこっちのセリフだよー。ユウキこそ、何してるのさ」と言いながら、彼女はこちらに近づいてくる。その迷いのない動作で僕は確信する。彼女は、僕のやろうとしていることを知っているのだ。


 彼女は僕と一メートルほどの距離をとって立ち止まった。そして、僕の足元にいる小さな女の子に目がとまる。


「この子は? まさか近所に住む子供じゃないよね」


「彼女とは、この森で会ったんだ」と僕は言う。「以前からの知り合いでもなんでもない。彼女には、ある男を追うために一緒についてきてもらっている」


「ふうん」とだけ彼女は言った。そのことにさほど興味はないようだった。彼女は僕を、下から上まで仔細に眺めている。なんだよ、と聞くと、彼女は僕の服を指差した。


「ユウキ。こんなところでも、ジャージなんだね」


「ああ」と僕は言う。「散歩に行ったんだよ。そのとき、たまたま着ていったんだ。周りの目なんて気にしなかった。なにせ夜中だからね」


「そんな格好だと、補導されてたかもしれないよ? それが高校のジャージだってことは見たらすぐにわかるから」


「そこまでは考えてなかったな」と僕は思わず笑ってしまった。たしかに、危ないところだった。


 そこでむずがゆい空白があった。そのあとの言葉を続けることができない。おそらく僕は、たくさんの言いたいことがあったんだと思う。聞きたいことだって山ほどあった。だから、どれから言葉にすればいいのかに迷ってしまい、結局何も言えなかったのだ。何かを言わなければとは思うのだが、肝心の言葉は出てこなかった。


 ヒカルはそんな僕を、薄笑いを浮かべて見つめている。彼女がどんなことを思っているのか、それを想像することはできない。


 やがて彼女は、周囲を見渡しながら言った。


「ここの景色、すごいよねぇ。現実じゃほとんど体験できないよ、こんな景色を見るのは」


 僕もそれにつられて、周りの景色を眺める。


「それには同意するよ。できれば、もっと長くここを見ていたい」


「じゃあ、そうすればいいんじゃないかな?」と彼女は、少し冷たい声で言った。空気が一瞬凍結したように感じた。


 見たところ、彼女は一人だった。このあとに誰かが来る気配はない。たった一人でここまで上ってきたのか。そのことを思うと、何だか空しさを覚えた。どうしてかはわからない。とにかくそういう気持ちがしたのだ。


 僕は何とか言葉をつむいだ。「それはできないだろう。ここにずっといるのは危険だ。もしかしたら、次の瞬間には空中に投げ出されてしまうかもしれないからね。『森』では何が起こるかわかったものじゃない。少々名残惜しいけど、僕はすぐにでも行かなくちゃならないんだ。やらないといけないこともあるしね」


「やらないといけないことって?」

「それはもう、知っているんじゃないのか」と僕は言った。


 彼女は押し黙ってしまった。口をとがらせて、面白くなさそうに体を揺らす。風すら吹いていない塔の頂上で、僕たちは沈黙の時間を長く深く味わった。


 ようやく彼女は口を開いた。「ねえユウキ、私のこと、信じている?」


 僕はすぐには答えられなかった。答えが自分の中にあるのはわかる。でも、それを声に出して言うことができなかったのだ。「わからない」と僕は言った。


「わからない?」


「そう。僕はこれまで、ずいぶんと君の世話になってきた。それには感謝している。たぶん、君の親切心は本物のものだと思っている。そのことに疑いはない。でも、それを差し引いても、今回の騒動に関して、君のことを信用するというわけにはいかないんだ。

 昨日の夕方、僕は不思議な体験をした。何か僕の知らない事態が起こっているんじゃないかと予感した。そして、いろんなことを経験して、本当にその通りだったんだと悟ったんだ。知らないあいだに、世界はとんでもないことになっているらしかった。そして、その原因の中心に僕がいたということも知った。それはとても信じられない話だったよ、もちろん。でも、その説明を聞いたとき、そのことを信用しない自分とある程度信じている自分が同時に存在していた。それまでに僕は大変な目に会っていたからね。その話を頭からはねのけるわけにはいかなかった。そして、ある目的を持って、僕はここにやってきた。世界が破滅する原因を断ち切る為に。

 けれども、どうしてか君は僕の前に立っている。僕が塔から下りるのを妨害する。これはどうしてだろう? そのことについて考えたとき、僕の頭には昨日の君が思いだされるんだ。

 昨日の夕方、君は僕の家を訪ねてきた。それはちょうど、僕が不思議な体験をしている最中のことだった。まるで狙ったかのように、君は僕の名前を呼んだんだ。そのおかげであのときは救われたと思った。君にまた貸しを作ってしまったなと苦々しく思った。でも、あとになって、それはあまり良くないことだったということがわかった。

 そのときは偶然を装っていたけど、本当は違ったんだよね? 君は、僕に不思議な体験をさせないために、家を訪ねてきたんだよね? その体験をすることで、実際に何が起こるのかまではわからない。でも、それが世界破滅の抑止力になったことは間違いなかった。君はそれを止めたかったんだ。だから、無理やり理由を作って僕の家に来た。

 僕を大変な目に会わせた連中は、その破滅から逃れるために、『森』にやってきているとある人から説明された。彼の言ったことが本当かどうかはともかくとして、そのとき僕にある刺激が走った。その正体は、当時はわからなかった。でも、『森』に来て、君を見たとき、その刺激の正体がわかった。

 君は、僕を襲った連中の仲間なんだね? 君がここに来たのは、僕が過去の自分を見つけるのを妨害するためなんだよね?」


 そこまで言い終えて、僕は一息ついた。一旦言葉にすると、止まらなくなってしまうことが往々にしてあるのだ。彼女は、僕の説明を顔色一つ変えずに聞いていた。


 傍らのクルミを見てみる。彼女は、何が何やらわからないという風に眉を曲げていた。彼女には現実でいったい何が起きているのか、その核心の部分をまったく説明していなかったのだから、混乱するのは当然のことだ。あえて説明する必要も感じられなかったので、そのままうやむやにしていたのだ。彼女にはあとでゆっくりと説明しよう。今はとりあえず、目の前の友人に集中しなくてはならない。


 長い空白だった。しばらく経ってから、ようやくヒカルはため息をついた。


「見ないあいだに、ずいぶんとたくましくなったみたいだ。昨日会ったときとは別人みたい」

「本当にたくさんのことがあったからね。変わらない人間の方がおかしいよ」

「ユウキは今、現実を取り戻したいって思っている?」と彼女は言った。


 その質問に、僕は「当然だ」と答えた。


「そのために、わざわざここに来たんだ。強制されて来たわけじゃない。自分の意志で、『森』を訪れた」

「そっか……」


 ヒカルはさみしそうに顔をそむけた。


「ユウキはこの短いあいだに、私が与えられなかったものを自力で見つけたんだね」

「与えられなかったもの?」


 彼女は苦々しそうに笑った。


「やっぱ駄目だね、私は。とても敵わないよ」


 僕は彼女の言っている意味がよくわからず、ただ首をかしげた。


「あの現実で、ユウキは生きていきたいって思うんだね?」と彼女は訊いた。そのあとで、小さく「……あの女の子と」と言う声を聞いた気がした。僕は少しとまどいながらうなずいた。


 すると彼女は安心したように安らかな笑顔を浮かべた。


「それじゃあ、大丈夫だ。元気にやっていけるようなら、私は何もしない」

「えっ?」

「ここに一人で来て正解だったよ。私は、もう行くね」


 そう言うと、彼女は手を振って僕に背を向けた。わずかに見えた横顔は、なんとも言いようのない寂寥感でいっぱいだった。


 しばらくのあいだ何も考えられず、一歩も動けなかった。クルミに服を引っ張られるまで、ずっとそうしていただろう。気がつくと、僕は階段のところに走っていた。そんなことをしても無駄だと思いながらも、そうしないわけにはいかなかった。


 しかし、階段を下りる彼女の姿はどこにもなかった。




 僕たちは塔を下りることにした。ここで待っていても埒が明かないからだ。


 鍋の底にシチューがこびりつくように、僕の頭には彼女の後ろ姿が残っていた。あのさみしそうな顔を思いだすたびに、僕の胸は痛んだ。もしかすると、彼女にはもう会えないのかもしれない。そういう最後の別れみたいな感覚が、残像のようにかすかに存在していた。


 彼女はいったい、何をしようとしていたのだろう? 彼女が敵の一人なのかどうかということについては明確な答えをもらえなかった。でも、こんなところにいるからには、今起きている現象とまったくの無関係というわけでもないだろう。僕の言ったことが間違っているとは思えない。であれば、彼女は僕を行かせるわけにはいかなかったはずだ。僕が塔を下り、過去の僕に到達するのを阻止したかったはずなのだ。しかし彼女は、突然僕の前に現れ、突然僕の前から消えた。これは果たしてどういうことなのだろうか? 空を無心に眺めながら、そんなことを考えていた。


 そして、いつのまにか空は、一面の朱を色濃くしていることにふと気づいた。


 時間は待ってはくれないようだ。だんだんと空が暗くなってきている。ナメクジの移動のようにゆったりとした速度だったが、着実に終わりは迫ってきていた。


 いよいよのんびりしていられなくなってきた。塔を下りるころには、もう夜になっているかもしれない。しかし、僕にはあきらめることはできなかった。現実で待っている人がいるのだ。彼女のために、そして、世界のために、僕はやるべきことをする。ヒカルのことはひとまず後回しにして、今起きていることに集中する。塔を下り、森に探しに入る自分をイメージする。すぐにでも階段を下りなくてはならない。だが、足はなぜか動かなかった。


 僕には確かな予感のようなものがあったのだ。彼は、きっとここに来るのだという予感だ。だからこそ、こんなにも落ち着いていられるのだろう。過去の自分とはいえ、もともとは僕だったのだ。彼の考えることなどわかっている。そして、当然向こうもわかっているはずだ。そういう意識の繋がりのようなものを、僕は感じることができた。


 やがて、それは姿を現した。


 だが、その姿は人間のものではなかった。階段を上ってきたのは、この世のものとは思えない化け物だった。それが生き物かどうかすら怪しい。全身をぶくぶくと太らせて、濁った表面からは醜悪な泥が溢れ出ている。どこに顔があるのかもわからない。顔のあるべき位置からは、絶えず泥が噴出していた。その泥に遮られて、その化け物がどういう表情をしているのかは不明だった。しかし、おぞましい顔であることは簡単に予想がついた。


 かろうじて、手足があるのがわかる。それらも脂肪だらけで、原型をほとんどとどめていなかったのだが。そいつは手足を使って、這いつくばるようにこちらににじり寄っていた。ときどき聞こえる安物の掃除機のようなうめき声は、彼が苦しんでいることをわからせた。移動することさえも困難であるようだった。


 臭いも相当きつかった。全身からみるみる出てくる泥の液体は彼を中心にして広がり、ちょっとした溜まりを形成している。臭いの発生源はおそらくそれだろう。煙が上がっていることから、容易に触ることができないことを示している。そうでなくとも、あれには絶対に触らないだろうが。


 クルミは僕の後ろに隠れてぶるぶる震えていた。僕のジャージを渾身の力で握り、必死に恐怖に耐えている。ぬいぐるみは彼女の腕に首を絞められていかにも苦しそうだった。僕だって、恐ろしい。こんな化け物が現実に存在することがまず信じられなかった。別の状況であれば、きっとすぐさま逃げ出していただろう。


 しかし、体の震えはなかった。恐怖は確かにあったのだが、ここから逃げ出そうなどとは思わなかった。仮にそう思ったとしても、階段はおそらく泥まみれで、逃げ場所などどこにもないのだが。


「ここで待っていて」と僕は言った。もちろんクルミにだ。


 彼女はぶんぶんと首を振って拒否した。学校指定のジャージを、死んでも離すまいとしている。それでも、僕は彼女に、ここで待つよう頼んだ。必ず戻ってくるから、ここにいてくれないかな。僕は彼と、決着をつけなくちゃいけないから。


 ほとんど無理やりになってしまったが、彼女は手を離してくれた。大人びた口調ではあるが、彼女はまだ子供なのだ。そのことに若干安心して、僕は前へと進んだ。


 近づくにつれ、臭いはさらに耐えがたいものになっていった。鼻をふさいでもまるで効果がない。顔のあらゆる穴から臭いが侵入してきて、僕を苦しめているようだった。


 しかし、足を止めるわけにはいかない。彼は、僕が来るのを待っているのだ。僕には、彼の正体がわかっていた。どうしてと聞かれても、それを理屈で説明することはできない。ただ、ふとそういう気がしただけなのだ。確信なんてものはなかった。あるときにいきなり悟りが開けるように、僕には化け物の正体をつかむことができた。


 少し迷うが、何とか決意を固めて僕は彼に飛びこんだ。正面から、まっすぐに。僕の体に瞬く間に泥が付着する。思っていたよりも泥の感触は悪いものではなかったが、臭いのもとが顔を覆ったために、僕は今すぐにでも吐きそうになった。気持ち悪さが一気に込みあげて、途端にすべてをぶちまけたくなった。でも、何とか吐き気に耐える。臭いから連想されるイメージを断ち切り、自分をコントロールする。そうしているうちに、体はどんどん化け物の内側に入りこんでいった。目を開けていることもできなかったので、自分が今どういう状態なのかがいまいちわからなかった。果たして僕は、立っているのだろうか。それとも、倒れているのだろうか。平衡感覚も次第に狂っていく。異常事態に脳がパンクしそうだった。


 そして、充電が切れて画面が消えたノートパソコンのように、僕は意識を失った。

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