第22話(ユウキ) 現実を取り戻すために(1)
暗くて狭い空間に放りこまれてしまったようであった。目をつぶっていても、自分がどこか別の場所にいることがわかる。自分がその暗闇と同化していくような不思議な体験だった。自分という存在を離れて、暗闇の一部となるのだ。そういうものとして認識すると、この奇妙な感覚もいくぶん冷静に受け止めることができた。
移動はまだ終わりそうになかったので、僕という個人について考えてみた。中学時代の自分、高校に入ってからの自分。他人よりはずっと少ない過去の思い出が、断片的に浮かんでは消えた。こうしてみると、ずいぶんとろくでもない毎日を過ごしてきたのだなと思った。まともな思い出がひとつも浮かんでこないのだ。みんなと盛り上がって一致団結した体育祭の思い出、互いに涙を見せた中学校の卒業式、高校に入り、一段とパワーアップした文化祭ではしゃぎまくった思い出。それらは架空のもので、その情景に僕はいなかった。僕は常に日陰にいた。楽しそうに笑う同級生の写真を卒業アルバムで見たときは、あまりに自分とかけ離れていて、そこに自分が所属していたということが信じられなかった。クラス全員の顔写真といくつかの日常風景の写真に僕の姿はあったのだが、そのどれもが妙にうわついていた。
その原因のほとんどは、小学生以降の記憶がないことにあると思う。そのおかげで僕はいろんなことを学びなおさなければならなかったし、かつての友人ともどう接していいかがわからかった。苦しくてつらい日々が何年も続いた。その期間で僕という人間はすっかり変わってしまったのだ。何ごとにも精を出せず、毎日を惰性のままに過ごす。そうしているうちに、高校二年生になった。いくらかは成長したのだろうが、根本的には中学時代から変わっていなかった。今でも根暗なままだ。
こんな僕を支えてくれたのが、ヒカルという女の子だった。彼女は何も知らない僕に丁寧に勉強を教えてくれた。他人には聞けないような、とんでもなくばかばかしい初歩的な質問にも、親切に答えてくれた。今の僕がこうして生きていられるのは、彼女のおかげだと思っている。彼女がいなかったら、今ごろは生きていたかどうか怪しい。この世界から早く楽になりたいと思って、勢いそのままに命を絶っていたかもしれないのだ。その中で、別の友人からもCDを借りて運命的な曲との出会いも果たし、彼女のサポートもあって、何とか自分というものを保ち、守ることができた。
ヒカルは、今回の騒動に関わっているのだろうか? 僕の頭にはずっと、昨日の夕方にわざわざ家に訪ねてきた彼女のことが残っていた。実は味方だった黒猫に、動きを封じられていたとき、おそろしいくらい絶妙なタイミングで彼女は僕に呼びかけた。あのことが、偶然起こったことだとはどうしても思えなかったのだ。あるいは少し懐疑的になりすぎているのかもしれない。本当に偶然のことだったのかもしれない。だが、いくら割り切ろうとしても、僕の頭には不気味な笑みを浮かべる彼女のイメージがつきまとっていた。
そんなもやもやした思いを抱いていると、急に周囲の状況が変わったという印象を感じた。井戸からようやく明るい場所に出られたような、解放された感覚だ。ここが『森』だろうか? 失明の恐怖があったが、意を決して目を開けてみた。
そこはまさしく森だった。空気は薄い。僕は木々に囲まれた道の真ん中に、大の字になって寝そべっていた。上からは葉や枝の隙間から赤い光が顔をのぞかせている。この世界は夕暮れどきのようだ。老人の説明が瞬間的に浮かぶ。ここが完全に夜になった瞬間、森にある記憶は現実へと解き放たれ、人間は破滅するということだったはずだ。だとすれば、かなり差し迫った状況ということになる。老人は、歩きつづけろ、と言っていた。こうしてはいられない。僕はすぐさま立ち上がり、道に沿って歩きだした。
僕の手には、一本の鋭利なナイフが光っている。ずっと握っていたので、だいぶ手になじんでいた。今まで握っていたことすらわからなかったくらいだ。この刃を人の体に突き刺すということが恐ろしくて仕方がなかったが、唯一の武器を離すわけにもいかなかった。いざとなれば、こいつで攻撃しなくてはならない。そのためにも、僕はこいつを捨てることはできない。
周囲には何の音もしなかった。こうして歩くだけでも相当規模の大きい森だということがわかる。動物が住むには絶好の場所だろう。しかし、鳥の鳴き声も聞こえなかったし、野生の獣の声もしなかった。ここには何ひとつとして生き物のいる気配というものが感じられなかった。音が聞こえないから静かなのではなくて、もっと根本的に、圧倒的に静かなのだ。自分の息遣いと、地面を踏む音が、やけに強調されているようだった。
道の先はまったく見えなかった。そこだけが何もないような暗黒になっている。その色は、否応なしに僕に恐怖感を、そして孤絶感を感じさせた。じっと見ていると、心を持っていかれてしまいそうだった。その闇は、いくら歩いてもずっと存在していた。
何だか『凍てついた森の中で』の世界に入りこんでしまったみたいだった。ここが歌で歌われているものとそっくりだからだ。違う点といえば、僕が一人で歩いているということくらいだろうか。歌では、孤独を経験した男女二人が一緒に歩いている。僕の隣には、誰もいない。そのことが、僕を少しだけさみしくさせた。
やがて、小さくひらけた場所に出た。休憩できるようなベンチがひとつ置いてあり、その横にはなぜか街灯がある。明かりはついていなかった。夜になると灯るのだろうか? どちらにせよ、それはこの森にそぐわないものだった。
そこで女の子が眠っていた。彼女はベンチをベッド代わりにすやすやと寝息を立てている。驚いたことに、髪は銀色だった。初めて見る髪色だ。おとぎ話の中でしか見られないような見事な銀髪だった。小学校二、三年生ほどの身長で、クマのぬいぐるみを大事そうに抱えている。ときどきそのぬいぐるみをぎゅっと握りしめていた。そのたびに、クマの皮膚は伸びたり変な方向にゆがんだりした。
彼女の正体はわからないが、とにかく近寄ってみることにした。無視してそのまま行くこともできたのだが、僕にはなぜか、彼女に声をかけるべきだという確信のようなものがあった。彼女のどこかに著しく惹かれたのかもしれない。心の中の敏感な部分をくすぐる何かを、彼女に感じたのかもしれない。
下手に起こすのも悪い気がしたので、彼女が自発的に起きるまで待つことにした。彼女の体は小さい。横になっていても、人間一人が座れるスペースは十分空いていた。ベンチに座って、そして自分がナイフを持っていることに気づき、それを慌ててベンチの横に隠す。女の子の隣で凶器を持って微笑んでいるわけにもいくまい。起きたときに見つからないようにしたあとは、木々を眺めながらぼんやりとしていた。
もしかしたら、彼女はこの森の住人なのかもしれないと思った。現実世界から来たのではなくて、元からここに住んでいるのだ。ここで永遠の時を過ごし、静かな生活を送っているのだろう。たまに訪れる現実世界の人間と会話をし、それ以外は森に漂っている記憶の欠片と談話でもして時間をつぶす。そして、疲れたらいつでもどこでも眠ってしまう。昼も夜もないのだから、好きな時間に目を閉じることができる。そんな自由な暮らしを、僕はうらやましいと感じた。
彼女の寝ている姿は、思わず微笑んでしまうほどに温かかった。父が娘を見るときは、こんな感じで愛おしく見えるのだろうか。僕のすぐ横にある彼女の顔は、とても安らかな表情を浮かべていた。たまにわずかな声を出してむずむずと動くのも、また可愛らしかった。これは絶対に起こせない。このままずっと、寝かせてやりたかった。
とりたてて危険な状態にいるわけでもないので、彼女を置いて先へ進もうかとも思った。世界の危機が迫っているのだから、のんびりしている暇はない。こうしているうちにも、人間破滅へのタイムリミットはどんどん近づいている。あと十秒数えてまだ起きなければ、ここを離れることにしよう。心の中で、気持ちゆっくりと十まで数えはじめた。
カウントが七のとき、彼女は目を開けた。
女の子は寝足りないかのように目をこすり、やがてすぐ近くの僕に気づく。おそらく驚いてしまうだろうなと思い身構えていたのだが、案外何の反応もなかった。まるで僕が、ここにいることが当然のような反応を示していた。彼女は僕をしばらく見つめ、そしてきょろきょろと辺りを見渡した。
「私が眠っているあいだに、ここまで運んできてくれたのか。疲れていたから、助かった」
彼女は、僕のことを知っているような口ぶりでそう言った。僕にはわけがわからなかった。僕の反応が薄いことを察したのか、彼女は首をかしげる。
「おや、どうしたのだ? さっきまでとはずいぶんと態度が変わってしまったように感じるのだが」
「すまないけど、僕は君とは初対面なんだ」と僕は言った。「人違いかもしれない」
「そんなことはない」と女の子は鋭く言った。「私はそこまで馬鹿ではない。人の顔を見分けることくらいはできるのだ。お前は、絶対に私と一緒にいた。忘れてしまったのか?」
「そこまで言われると、僕もあまり確信はできないんだけど……」
かなり困った状況になってしまったみたいだ。彼女は僕のことを知っているという。だが、僕は、いくら考えても、彼女に見覚えがなかった。どこかで会ったことがあるのだろうか? 少なくとも、森に来てから初めて人に会ったのだ。先ほどまで一緒にいたとは、どういうことなのだろうか。
僕は手短に、彼女に事情を説明することにした。もちろん難しいことは抜きにして。僕はあることをするために、ついさっきこの森にやって来た。歩いているうちに、ベンチで寝ている君を発見して、ここで起きるのを待っていた。君とは初めて会話をする。僕は君の名前すらわからないのだ。
説明し終えると、彼女は口に手を当てて考えこんだ。
「むう……。では、どうしてお前はここで、私が起きるのを待っていたのだ」
「それは、自分でもわからないんだ。ただ、眠っている君を見ていたら、どうしても放っておけなかった」
「お前の名前を聞かせてくれないか」
「萩村ユウキ」と僕は言った。「高校二年生。部活には無所属。遅刻をしょっちゅうする。友人は多くない。こんなところかな?」
「萩村、ユウキ……」少女は顔をうつむかせて、ひらめきをつかもうとするみたいに目をつぶった。「私には、その名前に覚えはないみたいだ。そもそも、先ほどまで私と行動していた男がどんな名前だったのかがわからない。それさえわかれば、判断ができたのだがな」
「その男って、僕にそっくりだったの?」
「そっくりどころの話ではない。お前そのものだった」
僕の言うことを信じてくれたようではあったが、まだ煮え切らない様子だった。何か、僕が別人だというきちんとした証拠でもあればいいのだが……。僕はためしに、着ているジャージを指し示して言った。
「その人は、こういう服を着ていた?」
すると、女の子は、あっ、と声を出した。「そうか。私の記憶だと、あの男はこのような服は着ていなかった……確か、高校の制服だとか言っていた気がしたな」
「それほど強い根拠にはならないだろうけど、これで信じてくれたかい?」と僕は言った。
「そうだな……」と彼女は絞り出すような声で言った。「それにしても、そっくりだ」
誤解がだいぶ解けたところで、僕は彼女にいろいろと質問をしてみた。君はもとからここに住んでいるのか、それとも現実世界からここへとやってきたのか。ここに来て、何か自分に異常はないか。あるいは、ここで異変が起きていることに君は気づいているか。初めて会う人間に、それも小さな女の子にこうしてたくさんの質問をぶつけるのもひどい話ではあるが、僕にそっくりの男のこともあるので、質問を続けた。彼女がこの冒険において、重要な役割を果たすという予感が僕の中にあった。
彼女はつい最近ここへ来たのだという。どうして来てしまったのかはよく覚えておらず、気がついたら森に入りこんでいたそうだ。ここをずっとさまよい、歩きつづけていた。不思議なことだが、そのあいだ、空腹は感じなかったようだ。眠気は周期的に訪れるものの、何かを食べたいという欲求は全然なかったみたいだ。そうやって長い時間ここで過ごしているうちに、僕にそっくりの男と出会った。
「彼のことを聞かせてくれないかな?」
女の子はうなずいた。「その男は、ほとんどすべての記憶を失っていた。覚えているのはいくつかの基本的なことだけで、過去の思い出は何も持っていなかった。聞いただけなので、それが本当のことなのかどうかはわからないが、私は本当だとそのときは思った。ずっと歩いてきて、すべてをあきらめかけた私に彼は声をかけてくれた。話をしているうちに、彼のことは信用してもいいと思った。それで、彼と一緒に行くことにしたのだ」
「記憶がない男か」
そのことといい、僕に似ているということといい、どこか引っかかるものがあった。もしかすると、彼女は、僕の過去の記憶に出会ったのではないだろうか? 次第にそういう考えが固まってきた。可能性といったらそれくらいしかない。
女の子にそのことを言ってみた。君が会ったのは、僕の古い記憶が実体化したものなのかもしれない。だからその人物は、僕と似かよっていたのだ。
「そんなことが、起こりうるのか」と女の子は疑わしそうに言った。事情を理解していなかったころの僕であれば、そんな話をむげに信じたりはしなかっただろう。他人からすれば突飛でありえない話だ。しかし、悲しいことに、これは本当に起こっていることなのだ。
「世界は今、大変なことになっているんだ」と僕は言った。「僕のその、古い記憶が悪いことをしているせいでね。どんな悪いことをしているのかまではわからないけど、いずれにせよ、僕は彼を止めないといけない。そのために、ここまでやってきたんだ」
「私といるときは、悪いことなどしていないように見えたのだが」
「そのとき、ここはまだ明るかっただろう? たぶん、今みたいに空は赤くなかったはずだ」と僕は言った。
「そういえば……そうだ。あのときは、空は青かった」
「ここが完全に夜になったらおしまいなんだ」と僕は説明を続ける。「その前に、何としても彼をとめる。もし何か、彼がどこに行ったのか、とか手がかりになるようなことを知っていたら、教えてほしいんだけど」
女の子は首を振った。「彼は私が寝ているあいだにどこかに行ってしまったみたいだ。先に進んでしまったのかもしれないし、手違いで離れ離れになってしまったのかもしれない。今彼が、どこで何をしているのかは、まったくわからないのだ」
「そうか」と僕は言った。「じゃあ、君もついてきてくれるかな? 歩いているうちに、何かを思いだすかもしれない」
女の子はしばらく動かなかったが、やがて小さくうなずいた。「わかった。私も、彼とはまだ話がしたい」
「よし。じゃあ、早速行こうか。こうしているうちにも、どんどん時間が経っているからね」
僕たちはベンチから立ち上がり、再び道を進みはじめた。




