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第2話(ユウキ) 影の差した日(1)

 朝日が昇るように僕は目を覚ました。いやに頭が重い。誰かが乱雑に扉をノックしているみたいだった。外では雀の鳴く声が聞こえる。その音も今では不快に感じられた。


 窓からは気持ちの良い陽射しが射しこんできている。光はテレビの画面を照らし、液晶パネルを反射して僕を照らした。たまらず腕で、その光を遮る。


 何とも晴れやかな朝だ。気分もすっきりするというもの。だが、寝覚めは最悪だった。脳内では夢で起こったことが絶え間なく上映されている。僕は頭をぶんぶんと振って映像を追い払った。しかしそれはヒルのような吸着力で離れようとしなかった。


 何ともカオスな夢だった。そこには二つの大きな胸があって、僕はそれを上から見下ろしていた。その胸はしばらくするとどろどろと溶け出して、大きな皿に盛られていく。液体は徐々に固まり、パンケーキのような見た目を形成すると、僕はそれをおいしそうに食していく。そういう夢だった。


 ベッドから下り、枕元の時計を確認する。時刻は六時十八分を指していた。今日はたしか、木曜日だ。学校の登校時間まではかなり時間がある。セットしてあった目覚ましはまだ鳴っていなかった。それは六時半にアラームを設定してある。目覚ましが鳴るより先に起床するのは珍しいことだった。これもすべて悪夢のせいだろう。そう思いつつ、パジャマ姿のまま部屋を出て一階の居間まで歩いた。


 テーブルにはすでに朝食が準備されていた。ハムエッグとレタスのサラダがラップに包まれて置かれている。近寄ってみると、そこには小さなメモ書きが残されていた。


「残さず食べよう朝飯は」


 母親の丁寧な字だった。何の警句なのかわけのわからないまま、僕はハムエッグをレンジに入れて、そのあいだに白飯と麦茶を準備する。


 母は朝が早い。四時前にはもう起きて、五時を過ぎるころに家を出る。そして帰ってくるのも遅いので、互いに顔を合わせる機会がほとんどなかった。あまりに会わないので、すぐに母の顔が思い浮かばないくらいだ。とくにここ最近はずっとそうだった。


 温めの完了を知らせるレンジの音が鳴った。僕はその音を聞くたびに今が朝なのだということを思い知らされる。朝に聞くのと夜に聞くのとでは印象がまったく違う。それがレンジ音だ。


 箸をキッチンから持ってきて、何も言わずに食べ物を口に入れていった。テレビはつけなかった。そういう気分にはどうしてもなれなかった。テレビのリモコンがどこにあるのかわからなかったということもある。外からの自然の音を聞きながらの食事も良いものだな、と思っていた。


 しかし、悪夢は依然として僕の中に存在していた。そのことで僕はどうしても晴れやかな気持ちになることができなかった。




 学校に行くにはまだ時間があったので、食事を終え、歯を磨き、着替えを済ませ、その他いろいろと準備をしてしまったあとは机の前でぼんやりとしていた。別に文字を書こうという気はなかったのだが、手持ちぶさたにシャーペンを持って、ノートを広げてみた。まっさらな白いページをじっくりと眺めていたが、結局そこに文字が書かれることはなかった。何を書くべきか、全然わからなかったからだ。日記を毎日つけているような人はどのように続けているのだろう? 僕には理解できない。少なくとも自分には無理だ。文章力については大目に見たとしても、まず継続することが難しい。文章を書いていてそれが楽しいと思ったこともないので、一週間もしないうちに飽きてしまうだろう。じゃあどうしてノートを広げ、ペンを持っているのか? そう問われたら、僕には答えようがない。ただそうしたかっただけだとしか言うことができない。そもそも僕にはこうした何の脈絡もない行動をとる習性があった。時々自分でも何をしているのかがわからないときがある。おそらく何かを目的としてはいるのだろう。あとになってその行為の意味が判明することも多々ある。だが、そのほとんどは意味のない、もしくは意味の通じないものだった。


 僕には何もない。勉強だってそれほど得意なわけではないし、スポーツも好きではない。これといった趣味も持っていない。見た目が良いわけでもなく、ごく普通の背丈にさえない顔。友人も少なく、学校では孤立している。そしてこれまでに異性と交際をしたことすらない。女性と話すといやに緊張してしまう面倒な性格をしている。唯一誇れるところといえば遅刻をしたことがないということだが、それは何の自慢にもならなかった。それを抜きにしてしまえば、自信を持てるものはひとつもなかった。さえない男子高校生の、さえない日常。そんなタイトルの映画があったとして、いったい誰がそんなものを見るだろうか? 僕はあるいは見るかもしれない。千円札を捧げて、恐いもの見たさに映画館に足を運ぶかもしれない。しかしその内容がどのようなものであったにせよ、僕はその映画を激しく嫌悪することになるだろう。もしくはその映画の監督や脚本家を。もし徹底的にリアルにダメな高校生を描いていたとして、結末もパッとしないとても後味の悪いものだったならば内容のひどさについて叩くだろうし、逆にさえない主人公が多くの人との出会いを通じて成長し、やがては自分を変えて幸せな高校生活となって終わった場合でも、そんなことがあるはずないじゃないか、そんなご都合展開があると思っているのか、と同じく叩くだろう。何にしたって、それは映画にするべき題材ではないのだ。あまりに救いがない。


 気がつけば、いつもネガティブなことばかり考えてしまっている。いけないと思っていても、考えないわけにはいかなかった。これはもう癖のようなものだったからどうしようもない。これを治すには、努力が必要になる。日々を楽しく過ごす努力だ。そうすれば嫌な想像も姿を隠してくれるだろう。だが、僕にその気はなかった。そのことで別段苦しめられているわけでもないのだし、そういう努力をしたくても、もうできないような状況になってしまっている。そう思い、やはり救いようがないものだな、と自然に笑みがこぼれた。


 いつのまにか時間がかなり経過していたようだ。ふと時計を見てみると七時半をまわっている。僕はバッグを右手に持ち、部屋を出て学校へ向かった。




 いつも通りの風景。新しいことなんて何ひとつない。心奮える出来事なんてひとつも起こらない。小さな幸せすらどこかに逃げてしまった、退屈で凡庸な学校生活。やることといったら窓の外に広がる風景をただ眺めることだった。歴史について話す先生の声が聞こえる。しかしただ聞こえるだけでその言葉の意味を理解することはなかった。そちらに意識は傾いていない。意識はすべて窓の外に向けられていた。別に何かについて熱心に見ているわけではないのだけれど、その無限とも思える広々とした青を眺めていると、自分が現実を離れて浮遊していく感覚があり、僕はその感覚を楽しんでいた。


 窓際の席でなかったら僕は何をしていたのだろうと考える。前の席の人の後頭部を見ているわけにもいくまい。天井でも見上げているか? しかし首が疲れそうだ。その時は机に突っ伏して寝ているふりをするかもしれない。もしくはちゃんと授業に参加するかもしれない。だが幸いなことに、僕はこの高校に入学してからほとんど、窓の近くの席を確保できていた。


 授業が終わっても、姿勢を変えることはなかった。チャイムの音が鳴っているのはわかる。先生が教室から出ていき、途端に周囲が騒がしくなるのも理解できる。しかしそれは自分とは何ら関係のない世界の話だった。その騒がしさとは無縁だった。僕にとって、授業とその間の休憩時間に境目などなかったのだ。そのふたつは同様の物として認識されていた。どちらもつまらない時間だ。違うところなんてない。


 たまに、ふざけている同級生とぶつかることがある。「ああ、ごめん」と彼は言う。「ああ、別にいいよ」と僕は言う。それだけだ。そこから会話が発展することはない。友人のもとに戻ってまたふざける彼の後ろ姿を横目で見て、僕はまた空を眺める。


 クラスでいじめられているとか、無視されているとか、そういうことではない。彼らは僕をいないもののように扱ったりはしなかった。こちらが何か質問したり話しかけたりすれば、返答はしてくれる。しかし、それはだいたい一言二言で終わってしまうような味気ない会話だった。それをコミュニケーションと呼べるかどうかも怪しい。僕と他の人たちには、相手と仲良くなろうという思いがなかった。僕が彼らに興味がないのと同じように、彼らも僕に興味がなかった。ただ、クラスメートの一人として、礼儀として受け答えをしているだけだった。もちろん、僕たちは長い時間雑談をしたり一緒に過ごしたりすることはしない。そして、僕はそのことをとくに残念だとも思わなかった。僕と彼らとは生き方が根本的に異なっていた。


 おそらく、昔はこんな調子ではなかったのだと思う。当時の記憶はほとんどないので詳しくはわからないが、少年時代はそれなりに友人との付き合いもあったのだろう。一緒にゲームをしたり、公園で走ったり、町を探検してみたり。今とは性格だってずいぶん違っていたはずだ。一日のほとんどを笑顔で過ごしていたように思える。


 しかし今では、そのようなことはまるでなかった。ただ義務的に学校へと足を運ぶ日々だ。休みの日は何をするでもなくテレビを見たり、気が向いたら宿題を進めたり、あるいは机の前で何かについてじっと考えていたり。そこに色彩はない。もうそれが恒常化してしまった。改善しようという気にもならなかった。

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