第19話(ユウキ) 世界の真実(2)
「言葉で説明するのは難しい」と老人はソファーから立ち上がり、近くをうろうろしはじめる。「その『森』というのは、見た目がそう見えるだけで、実際の森とは全然違っておる。厳密な意味での森ではない。しかし、そこは確かに『森』なのじゃ。ただ、そこに期待される機能が違うだけで。
その『森』は、この現実世界のすぐそばにある。手を伸ばせば、いつでも届く範囲に存在する。それこそ、行こうと思えばすぐにでも行くことができるほどにな。しかし、気ままにそこへ行くことはできない。行くには特別な条件があってな、それを満たしていないと駄目なのじゃ。条件さえ満たせば、ポンと向こうへ飛べるのじゃがな。
その『森』は一人ひとりに存在する。森、と言っておるのは、お主のその場所が森のようなかたちだからなのであって、人によってはそこが部屋だったり、プールだったり、山の上だったりする。かたちも自由に変わって、その人の少年時代には図書室だったものが、大人になるとそれが聖堂になったりもする。それぞれが現在のその人にとって重要なモチーフになっているものにかたちを変えて、その人の近くに存在しているのじゃ。じゃが、それらは全部一つの世界を共有しておる。ただ当人にとってどう見えるのかが違うのであって、それらは固有のものなのじゃ。ほとんどないことなのじゃが、もしどこかの『森』――今は混乱を避けるために、その世界のことを便宜的にそう呼び続けるが、よいな?――が傷ついたら、他の『森』もどこかしらに傷がつく。どこかが崩壊すれば、すべてが崩壊する。見た目が違えど、感覚は共同しておるのじゃ。なぜなら『森』は、個人でそのかたちを変えていても、元々の始まりの部分は共通しているから。わしの言っていることは理解できたかのう?」
「正直さっぱりですが、どうぞ続けてください」と僕は言った。
老人は軽く笑った。だが、その笑みには力が入っていなかった。
「それじゃあ、続けるとするかの。次はその『森』の機能についてじゃ。『森』がどんなところか……それは、過去の失われた記憶が良き場所を求めて集まる場所なのじゃ。死んでしまった人の記憶、不幸な事故で強制的に奪われた記憶。それらが空中に漂い、結果として『森』に行き着く。そこで彼らは余生を楽しむというわけじゃな。
記憶には寿命がある。放っておけば、数ヵ月で消えてしまう。これまで観念的には存在しておったものが、その存在自体を失ってしまう。その瞬間が、記憶の完全な消失ということになる。それまでは『森』の中で生きながらえておるのじゃ。そして中にはとても長生きするものがいて、あるきっかけでふと元の持ち主のところに戻ることがある。記憶が戻った人の話をよく聞くが、実はそういう仕組みになっておったのじゃ。
その記憶は、一人ひとりの『森』に共有される。じゃが、共有されるというだけのことで、それが具体的にどういう事態を招くなどはない。記憶はただそこにあるだけじゃ。何もしなければおとなしいままでおる。
その『森』に異変が起こった。そこへ行って、『森』を荒らす者が現れたのじゃ。荒らすといっても、物理的に何かをするというわけではない。その世界を精神的に根っこから揺るがしているのじゃ。わしはたびたびそこを訪れておるが、変化は明白じゃったよ」
「どういう変化が起きているのですか?」
「時間が進行しておるのじゃよ」と老人は静かに言った。彼は机に寄りかかっていた。ずいぶんと落ち着かない人らしい。それとも、彼が慌てるほどのことが、今起きているということだろうか。
「詳しく聞かせてください」と僕は言った。
「わかった。その『森』なんじゃがな、そこはいつもは時間が止まっておるのじゃ。これまで時間が動いたことなどなかった。そこは永遠に昼の状態を保っておるのじゃ。時間の概念がないから、陽が沈むことがない。そもそも太陽がないからな。何もかもが時間的な歩みを止めて、そこに不変のままで居続ける。そういう場所、じゃった。
しかし、今回、その『森』の時間が進みだしたのじゃ。これは前例のないことじゃった。それこそ前代未聞の事態というわけなのじゃよ。お主にとってはあまりことの大変さがわからないじゃろうから、これからその意味について説明する。
この世界が時間を止めていることはもう知っていると思う。今、現実世界は夜中の午前四時二十六分を保ったまま動かなくなった。どうしてそうなったのか? それは、『森』の時間が進んだからなのじゃ。本来的に、現実世界と『森』が表裏一体の関係を築いておったというわけじゃな。これまで、その関係性がどういうものであるのかはわからないままじゃった。しかし今回、こういう事態になって初めて、『森』とこちらとの関係が判明したというわけじゃ。向こうが時間を止めているあいだ、現実は時間が進む。これは裏を返せば、向こうの世界の時間が進めば、現実の時間が止まるということ。今はまさしくそのような状態になっておる。これで少しは理解が進んだかのう?」
「まあ、なんとか」と僕は言った。
「よろしい」と老人は深々とうなずいた。彼はいつのまにか腕を組んでいる。「『森』の時間が進んだことで、現実世界はストップした。そこまではいい。それ自体は問題ないのじゃ。いつまでたっても夜が明けないのは困るが、それで何か不都合があるというわけでもないのじゃからな。問題はそのあとじゃ。
このまま『森』の時間が進行し、陽が沈んで夜を迎えるとどうなるか。これはわしが、この短い期間で研究してやっと出た答えじゃ。あるいは間違っているかもしれん。じゃが、その可能性は高いじゃろう、というものじゃ。あまり言いたくはないのじゃがな……。もしそうなった場合、『森』で漂っていた記憶が、行き場所を失い、現実世界に到来するということが起きる。それこそ、雨でも降るように、数えきれないくらいの記憶たちが、ここへとやって来るわけじゃ。こう、ザザーッとな」
老人は、両手を上から下へと動かし、そのイメージを伝えてきた。僕は、かたちの見えない記憶が空から大量に降ってくる様子を思い浮かべた。しかし、それがどういうことなのかがいまいちわからなかった。
「そうなってしまうと、何が起きるんですか?」
「まだ予想の段階だが、ほぼはっきりとしておる。それらの記憶は、新たな行き場所を探して、その場所を人間の脳内に求める。そして適当に人間を選んで、彼の中に収まろうとするのじゃ。元々所有していた記憶を外に引っ張り出して、空いたところにすっぽりと入るわけじゃな。そのとき、記憶は完全に入れ替わる。その人は別人になる。
そうして引っ張り出された記憶は、そいつもまた行き場所を探す。そして、別の人間のところへと行くことになる。選ばれた人間は、元から持っていた記憶を失い、新たな記憶を持つことになる。そういったことが、全世界で発生することになる。夜明けとともにな。『森』はすべての記憶を放出すると、また時間を止めるのじゃろう。そして、現実世界は再び動き始める。しかし、同時に記憶の入れ替わりが起きることになる。それも、一瞬のうちに。一秒とたたないうちに、無数の記憶が脳の中で出たり入ったりすることになる。その結果、どうなるのか? 脳がその動きに耐えられなくなって、パンと破裂してしまう。神経がぶっ飛んでしまう。その様子を想像できるかのう? 朝日が昇るころには、人間はもはや人間ではなくなっているのじゃよ。その朝日は、人間の絶滅を意味するものとなる。そして、元・人間は、使い物にならなくなった脳を抱えてこれからを過ごすことになる。さっき、破裂、といったが、それは文字通り破裂するわけではなく、脳の持つ機能がショートして使えなくなるということじゃ。そうなるとほとんど何も考えられなくなる。わかりやすいよう例えるならば、人間は原始時代へと逆戻りする、ということになる」
そこまで説明し終えて、老人は一息ついた。話したいことを話してしまって落ち着いたのか、彼はゆっくりとこちらへ戻ってきた。ため息をつきながら向かいのソファーに座る。猫が「にゃあ」と鳴いて足にすりよってきた。
「そんなことが、本当に起こるのですか」と僕は言った。だが、彼の顔つきを見れば、それが嘘の話だとは到底思えなかった。これは実際に起こりうるものなのだ。
「これで一応、『森』についての話は終わりじゃ。そこがどういう場所で、何をつかさどっているのか……曲がりなりにも理解してくれたと思う」
「じゃあ……あの、質問をしてもいいでしょうか」と僕は言った。
老人は何も言わず、こちらを見るだけだった。おそらくは大丈夫なのだろう。
「さっきまで僕たちを追っていた、恐ろしい視線の化け物は何者なんですか? 彼らはいったいどういう目的で動いていたんですか?」
「その質問は、これから話そうと思っていたお主の役目とかなり関係するものじゃな」と老人は言った。「あやつらには絶対に捕まってほしくなかった。危ないところじゃったが、ぎりぎりで何とかなった。それは、隣のお嬢さんのおかげでもあるし、この猫のおかげでもある」と老人は、黒猫を持ち上げて言った。「気づいておらんかったかもしれんが、こいつはずっとお主のあとをつけておった。そして、付け狙うやつらを遠ざけておったのじゃよ」
僕は何とかうなずいた。本当に、そうなのだろうか。逃げているあいだ、猫の鳴き声などまるでしなかったのに。この猫にそれほどの力があることもあまり信じられない。しかし、こうして無事にここまで来れたことに違和感を感じるのも事実だ。一人で行動していたとき、視線は遠くをうろつくだけで、何かしらの攻撃を加えてくることはなかった。川沿いではもっと近寄ってきたが、一切の攻撃を受けていない。それがこの猫の力によるものだとしたら、感謝すべきではあった。
「でも、それならもっと早くここに来ることができたんじゃないですか? わざわざ田舎道を歩くこともなかった」
「こちらとしても、あまり気配を察知されたくはなかったのじゃ。猫が捕まえられでもしたら、終わりじゃったからな。声も出せんかった。助太刀も少なくて、非常に申し訳ないと思っておる」
「……わかりました」
「しかし、おかげでこのお嬢さんにも会うことができた。それはお主にとって幸運なことではなかったのかね?」と老人は笑みを浮かべて言った。それについては、認めないわけにはいかなかった。右に座るサクラを見てみる。彼女は僕をじっと見つめていた。急に気恥ずかしくなって、僕は顔をそらした。老人は、その様子を眺めていたみたいで、押し殺した笑い声をだしている。
「この短いあいだに、ずいぶんと仲良くなったようじゃの?」
「まあ、そうですね」
きっとこの年寄りは、川沿いで僕たちが星を見ていたことも知っているのだろう。そのときのことを思うと、とても恥ずかしい思いだった。
「じゃがな……わしにはどうも納得できないのじゃよ。どうしてこのお嬢さんは、少年についていこうとしたのか。その理由が、いくら考えてもわからんかった。差し支えなければ、そのことを教えてもらいたいのじゃが」と老人は言った。
今までずっと黙っていたサクラは、巨大なドラゴンが何百年かの眠りから覚めたあとみたいにのっそりと言った。
「それは……私にも、わからない。あのとき、自分が、何を、思ったのか……今の、自分には、はっきりと、しない。でも……少なくとも、私は、彼に、ついてきて、後悔は、していない。むしろ、良かったって、思う。いろんなことを、体験、できたし」
「そうか、そうか。お主の気持ちはわかった」と老人は言った。その声は親しみであふれていた。
「お主たちのことを思うと、何だか気持ちが落ち着くようじゃ。これから世界が破滅するかもしれないというのに、不思議と不安は感じない」
「そうだ、聞きたいことがありました。質問の答えの途中で悪いんですけど、どうして僕や、彼女や、あなたはこうして動けているのですか? 何か条件でもあるんですか?」
すると老人は、考えこむように顔をうつむけた。
「その条件は……よくわかっておらん。そういう資質のある者のみが無事なのかもしれん。詳しいことはわかっておらん。なにせ初めての事態じゃからな。三人がこうして集まれるというのもなかなかの偶然なのじゃよ。とくにお主とお嬢さんの出会いは奇跡といってもいい。その二人は、世にも稀な巡り合わせをしたことになるのじゃぞ?」
「はあ」と僕は言った。




