第17話(少年) 夕暮れの白い塔
意識の混乱は、目の前に広がる景色を見ているうちに静まっていった。
樹のてっぺんは想像していたよりもずっと高かった。地面はかすんでよく見えない。薄く、靄のようなものが発生しているようだ。それに阻害されて、森全体が何とも奇妙な感じに映る。
下に見える木々は、地平線の先まで延々と続いているようだった。どこまで続いているのか、それはここからではとてもわかりそうにない。それほどの巨大な森だったのだ。僕はこんなところを歩き回っていたのか、と途方に暮れてしまう。この広い森のどこに出口があるのか、それはさっぱり見当もつかなかった。
神秘的で、心を揺さぶられる光景だ。これまで閉じていた花が、気持ちの良い朝日を浴びて花開くみたいに、精神が解放されるような快さがあった。残念ながら朝日はどこにも見えず、それどころか太陽すら見つからなかったが、何となくそういう心持ちになった。美しく、そして豪快だ。
先ほどまで貫くほどの青い空だったが、今は淡いオレンジ色になっていた。橙色の絵の具を思いきり水で薄めたような色だった。おそらく夕焼けに近い色合いだ。陽が沈んでいる光景などどこにもなかったのだが、これがこの世界でいう「日没」なのだろう。一日の終わりを示唆するそれは、見ようによっては死の予感にも感じられた。長くて厳しい冬の到来を告げる地獄からの使者のようでもあった。そのような予感を受けとってしまったあとは、その景色を長く見ていることができなかった。我慢できずに目をそらす。
クルミのもとに行かなければ、と思った。今頃彼女は一人でどこかをさまよっているはずだ。まだ眠っている可能性もあるが、彼女が孤独であることは確実だ。彼女のところに行って、その孤独を癒してあげなければならない。しかもそれは同時に、僕自身の孤独を癒すことでもあった。今はとにかく誰かと話をしたかった。胸の内に突然得体の知れない寂しさが浮かんできたのだ。その正体を知ることはできそうにない。それはまだ名前のない感情だった。はっきりと認識することはできないけれど、確実に心の中に住み着いてしまっている、謎の感情。それは、過去の不可解な記憶と、この美しく破滅的な景色とが混ぜられて発生したものだ。早くこの感情を処理したかった。そのためには彼女に会わなければと思った。
それにはまず、この樹から降りなくてはならない。ここで怪我でもしたら何にもならないので、慎重にゆっくりと降りていく。
半分ほど下りたところで、何やら良くない予感を感じた。しかしそれがなんなのか、具体的には判明しない。とりとめのない思いが、形をいろいろに変化させて心の中をさまよっていた。僕は反射的に辺りを見回す。
すると、そこに見えたものがその予感をあっさりと解消してくれた。
大きな白い塔が、森の中に出現していたのだ。塔はこの樹よりはるかに高い。てっぺんは天を突き刺しているようだった。地面から離れるにつれて、その建物は全体を細くしている。それが空に刺さる針みたいに見えたのだ。
心臓の鼓動が早くなった。腕も震えてくる。悪魔に微笑まれたような恐怖が僕を包み込んだ。
さっきまであそこには何の姿も認められなかった。そこに、いつのまにか塔がそびえていた。これは何を意味するのだろう? 単に景色を眺めたときに見逃していた、という話なら簡単だ。しかし、あれほどの大きさの塔を見逃すはずがない。あれは先ほどまで完全に姿を隠していたのだ。それが、樹から下りているあいだに、なぜだかはわからないが出現した。間違いなく、そこに行け、ということなのだろう。そうでなくとも、僕はあそこに行かなくてはならないという強い思いがあった。高いところが好きだからとか、そういうことではない。もっと、僕のうちに潜む、根源的なものがそう言っているのだ。自分は、塔に行くことを運命づけられている。
気持ちばかりがあせってしまい、思うように早く下りられなかったが、なんとか怪我だけはまぬがれた。ようやく地上に戻り、一息つく。体の節々が痛かった。長いあいだ使われていなかった筋肉が悲鳴を上げているようだった。だが、今はそんなことはどうだっていい。僕の視線の先には、真っ白な塔があった。塔は異様な存在感を放っている。それは僕を招き入れようと嘲笑っているようだった。
僕は急ぎ足で塔のある方向へと向かった。
塔までは案外距離があった。塔があまりに大きく見えたので、わりと近い位置にあるのではないかと勘違いしていたらしい。実際はその塔にたどり着くまでにかなり歩かなければならなかった。木登りの疲労もあったので、その進み具合は何ともじれったいものだった。僕はなかなか塔に到着することができなかった。
そのあいだ、僕は少女のことを考え続けていた。彼女が今どこで何をしているのか、それを頭の中で想像した。まだ眠っているのだろうか? 僕たちが離れてから、言うほど時間は経っていない。彼女の疲れが深刻なものだったならば、まだ目を覚まさないはずだ。もしくは、何かの拍子に目を覚ましてしまった可能性もある。その場合の彼女の心境を考えると、僕はつらくてたまらなかった。この別れは僕の責任だ。おそらくはそういうことなのだ。僕が余計なことをしなければ、あんなことにはならなかった。僕たちは引き裂かれることもなく、あるいは森の出口に辿り着くことだってできたかもしれないのだ。しかし今となっては、そんなことは不可能になってしまった。この深い森のどこに彼女がいるのか、まるでわからない。目印のようなものもなく、どれほど離れてしまったのかもわからない。とりあえずは、あの塔に向かうことが僕の使命に思えた。塔に近づくにつれ、その思いはますます強くなった。
草木を踏み越え、突き進む。出発してから一時間ほどで塔の前に到着した。近くから見てみると、一層その大きさに圧倒される。ここからでは塔の頂上はかすんで見えない。また、ここも先ほどの木登りをした場所と同じく、周囲は塔を中心にして大きくひらけていた。
僕のすべきことは明確に思えた。ここを、登ることだ。どうしてそういう決意が宿ったのかはわからない。この上にあの少女が待っているとでも思ったのだろうか。それははっきりとはしなかった。自分のことなのに、それがまるで自分の抱いている感情のように思うことができなかった。記憶が戻り、自分を取り戻してからは、何だか自分が自分でないような思いに苦しめられていた。
塔の入り口は青銅の重そうな扉だった。両開きになっていて、なぜだか片方はすでに開けられていた。誰かが既にこの塔に侵入している証だ。いよいよ、少女が塔に入ったという信憑性が増してきた。僕はその隙間を縫うようにして扉を抜ける。
内部は単純な構造だった。まず、入り口のすぐ左には壁に沿って上へと続く螺旋階段があった。段差は低めになっており、小さな女の子でも簡単に上がれるようになっている。その他には目を引くものは見当たらなかった。塔の中はがらんどうになっていた。
どうやら下の階には何もなさそうだった。人の姿も見当たらない。少女が塔にいるとすれば、この上だ。少女でなくとも、誰かがこの塔にいることはほぼ間違いない。僕はすぐに階段を上りはじめた。
頂上に着くまで、いったいどれほど時間がかかるだろう。僕にはとても予想がつかなかった。体力をできるだけ温存しながら、気持ちゆっくりと進んでいく。幸い段差はきつくないので、上ること自体は楽なのだが、遠い道のりに心が折れそうになった。しかし、この先に誰かが待っているという事実を柱にして、できるだけ止まらずに階段を歩いていった。
階段の途中途中には小さな窓があり、そこから外の景色を眺めることができた。窓をのぞいてみると、あの大きな一本の樹が見えたりもした。しかし、それは気休めでしかない。外の景色を見ている暇があったらさっさと階段を上るべきなのだ。とにかく足を動かすこと。一度休んでしまえば、そこからしばらく動きたくなくなるだろうということくらいは予想がつく。だから、意識的に断続的に足を動かしていく。そうしていれば、いつかは頂上に辿り着く。もしくは、先を歩く誰かに出会える、はずだ。
疲れは唐突にやってきた。あるいはもっと前から疲れていたのかもしれない。思えば、樹に久しぶりに登った際の疲労がまだだいぶ残っていたのだ。木登りは意外にも多くの体力を僕から奪っていたようだった。それに、自分でも気づかないうちに上るペースを速めていたというのもある。気持ちがあせってしまい、どうしてもゆっくり歩くことができなかったのだ。どうしてこんなにもあせってしまうのか、正直なところ自分にもわからなかった。せっかく記憶が戻ったというのに、より自分のことがわからなくなってしまっている。それが僕をさらに苛立たせ、歩くスピードはさらに速まる。それで、こんなにも疲れてしまっていたのだ。
僕はついに腰を下ろしてしまう。階段の段差をちょうど椅子にして、その場に屈みこんでしまう。体の疲れが内側から湯気のように放出される。足は小刻みに震えていた。
こうしている暇はないのに、早く上へ向かわなくてはならないのに、こうして休みを取っている状況は、僕を落ち着かなくさせた。しかし、それで疲れがどうにかなるわけではない。こういうときのために日頃から運動をしておけばよかったと思う。ここに来る以前の僕が、高校でどのような活動をしていたのかは不明だったが、少なくとも運動部には所属していないだろうなと思った。でなければこの異様な疲れは何なのだ。
気がつくと、僕は目を閉じていることがあった。考えてみれば、僕はもうどのくらいここにいるのだろう。こちらの世界に来てからの正確な時間はわからないけれど、かなりの時間をここで過ごしたことは確実だった。半日ほどは経っているはずだ。加えてこの肉体の疲労である。このまま、階段の上でもいいから、ぐっすりと眠りたかった。
しかし、それではいけないという思いも同時に僕の中にあって、その矛盾した思いに僕は苦しめられた。本心では、きっと眠りたかったのだと思う。それは過去の僕の叫びだ。休息をとったあとで、じっくりと上を目指していけばいいと彼は言う。でも、寝てはいけない、早く上にいる誰かに追いつかないといけない、と叫ぶ自分も同時にいた。それはきっと、ここに来ていろんなことを体験した僕だ。休む時間があったら、とっとと歩いて少しでも距離を縮めるべきだ、と彼は主張していた。両者の言いあいを横から見ている僕は、どちらにすべきかどうしても決められなかった。どちらも正しいように思えたし、どちらも間違っているように思えた。
その思いに苦しめられている最中に、いきなり体が重くなる感触があった。実際にその重さを僕は感じることができた。比喩などではなく、本当に体が重いのだ。自分がほとんど眠りかけているせいだろうとも思ったのだが、どうやらそれとも微妙に違う。何かが僕の中で起こっていた。あまり歓迎したくないような、しかし絶対に拒否できないような変化だ。僕はその場に倒れ込んだ。もう立ち上がれそうになかった。腕や足はもぎ取られてしまったかのように感覚がなかった。
そうして、僕は意識を失った。




