第13話(少年) 記憶に現れたもの
あてもなく森を歩く。もはや自分がどこから出発したのかわからなくなった。それほど遠くまで歩いてきた。だが、一向に事態は良くならなかった。行けども樹木の幹しか見えなかった。
森の中では冷気を感じ、そして風の流れも感じることができた。僕はとりあえず、風の吹いてくる方向へと向かっている。そこに行けば何かがあるはずだ。風の流れは道を歩いていて感じなかったから、道からは遠ざかるかもしれないけれど、あるいはそこに、この森について知る手がかりがあるかもしれない。もしかするとそこが森の出口なのかもしれない。そんな期待を持ちながら、僕は一歩一歩足を運んでいった。
木に触ると、手には茶色い汚れのようなものが付着した。そのことは木が生きているという何よりの証拠に思えた。作り物の木ではこれは再現できないだろう。手をかいでみると、自然の独特の香りがした。
上からは光が葉の隙間から差し込んできている。ここに来てずいぶん時間が経ったが、光はその色を変えなかった。強まったり、色を変えたりすることもなかった。そのことに僕はかすかな違和感を覚えた。そこには人工的なものを感じることができた。
だんだんと寒さは増していた。どうやら目的地は近いようだった。風も少し強くなってきている。風は僕が来るのを拒んでいるようにも感じる。だが僕はその流れに逆らって歩いていった。
やがて、大きくひらけた場所に出た。
辺り一面が草原だった。地面に生えた雑草が風に揺れている。草原は綺麗な円形になっており、その広さは異常といってもいいくらいだった。人間が千人ほど集まってここで遊んだとしても、それほど窮屈には感じないはずだ。当然ここからは空も見えた。まっさらな青空が空中に描かれている。雲は一つも浮かんでいない。そして、草原の円の中心にはとても大きな木が一本立っていた。
何とも立派な樹だった。周りの木とは比べ物にならない。高さは少なくとも三十メートルはあるだろう。巨大に成長した太い樹は、この草原一帯を警戒する守護神のように見えた。
その樹にはどこかしら惹かれるものがあった。僕は自然とそこに向かっていた。強い力に引っ張られて、僕はそれに抵抗することができなかった。僕の心では、そこの管理人が必死になって、忘れ去られた記憶の扉をノックしているような感じがした。その樹と僕は、どこかで呼応し合っていた。
どうやら風は、あの樹から発生しているようだった。その樹を中心にして、風は流れを形成している。この巨大な樹は、森の柱の役目を果たしているように見えた。あの孤立した柱が、森のすべての命を支えているのだ。そこからは生命の息吹が存分に感じられた。
樹の根元まで来ると、一段とその大きさを実感することができた。すぐ前に見える幹は頑丈で、まるで何本もの木々がねじれ合ったようになっていた。枝もまた太くて大きく、葉は僕の脚よりも長そうだった。これはおそらく、現実世界にはない種類の樹だ。ここだけにしか生息していない樹なのだ。僕にはそれがわかった。記憶を失う前の僕は、樹に少し詳しかったのかもしれない。
僕はその樹の周りをまわって、すみずみまで観察していった。地面から突き出た根は、刃物もおそらく通さないくらい硬かった。風の発生原も探してみたのだが、どこから風が吹いているのかはわからなかった。確かにこの樹から風が吹いている。しかし、しっかりとここだと断定することができないのだ。僕はそのあともう一周まわり、そして根元に座った。
クルミのことは今でも心配だ。だが、僕はここを離れたくはなかった。僕の記憶は、体の内側ではじけそうなくらい暴れ回っている。その姿は不明瞭なのだが、きちんと拳を握り、やたら殴りかかって、僕に何かを伝えようとしているのだ。僕はそれにわずかに気づくことができない。何とか気づいてあげようと心を研ぎ澄ますのだが、彼の言うことはめちゃくちゃだし、主張も激しすぎて容易には近寄れなかった。
何かを思いだせそうだった。古い過去の記憶だ。とりとめのない映像が、流れては消え、また流れては消えていく。僕はいてもたってもいられなくなり、立ちあがってうろうろと歩いた。何かが頭に突っかかっている。それさえ取れれば、記憶は元通りになるはずだ。僕は神経を集中してその詰まりをほぐそうとする。指先に意識を集中させて、硬くこわばったものを丁寧にほぐしていく。そのもつれはひどい状態でとてももとには戻せなさそうだったが、歩きながら辛抱強くほぐしていった。何かが見えても、すぐにそれをつかもうとするのではなく、まずはそのまわりのもつれを解いてから、その記憶の欠片を丁寧に拾いあげていく。それは断片で、それ一つでは何の意味もないが、断片を集めて合体させていくうちに、ある一つの映像になっていく。木の周りをぐるぐるとまわりながら、その融合作業に没頭した。自分が細工師にでもなったような気がした。
そして、僕の頭に、ようやく一つの映像が完成した。それは僕が小学生時代の頃の記憶だった。
小学生時代の僕は、よく校庭に生えている木に登っていた。僕の通う小学校は自然が豊富で、多くの木々がそのままの形で残されていた。中にはとても大きいものもあった。僕はあることをきっかけに木に登りはじめる。何がきっかけだったのかはよく思いだせない。とにかくふとした瞬間に木に登ってみたくなったのだ。僕は手ごろな木を見つけ、その上まで登ろうとする。それには助走をつけてジャンプし、根元からしっかり飛んで枝を掴まなければならない。はじめのうちまったくそこに届かなかった。いくらやってもまるで届かないのだ。その木は僕にとって大きすぎた。
しかし、あきらめずに何度も挑戦を重ねた。昼休憩になったらすぐさま外に出て、その木に挑戦し続けた。初めて挑戦してから三ヵ月くらいたったと思う。ようやく僕はその木に登ることができた。あるとき、ふっと成功したのだ。はじめ、僕は自分が木に登れたことを実感できなかった。でも、目標地点に自分の手があるのを見て、ようやく言葉にできない感動が心を包んだのを覚えていた。
その後は他の木にも挑戦した。小さい木、大きい木。太い木、痩せた木。枝の多い木、少ない木。達成していくたびに僕は自分に対して誇りを持つことができた。
当時、木登りをする人間なんてほとんどいなかった。いるとしてもそれはごく限られたものだった。僕はその、限られた趣味を持つ一人だった。僕はどんどん力をつけていき、他の人が登れないようなものもすんなりと登れるようになっていた。それを見ていたみんなは尊敬の眼差しで僕を見ていた。しかしそれは特に気にならなかった。木に登ること自体が楽しくて仕方がなかったのだ。けっして人の注目を集めたいからそういうことをしていたわけではなかった。しかし正直に言ってしまえば、そうやって人から尊敬されるのは悪い気はしなかった。
おそらくは小学校を卒業するまで木登りを続けていたと思う。そのときには僕はあらゆる学年の子供たちと知り合いになっていた。まだ低学年の子供たちに、木登りの簡単なコツを教えたりしていた。当時の僕は学校で一番の木登り名人になっていたのだ。それが自信になっていたのかはわからないが、勉強も運動もかなりできていた。僕は学校ではそれなりに有名人になった。
映像はそこで止まった。そこから先のことは思いだせない。小学六年生の頃の記憶から先は、まるでハサミで切り取られてしまったようにぷっつりと切れてなくなっていた。だがわかったのは、僕が小学生時代に木登りに熱中していたということだった。
僕は目の前にそびえる樹を見つめる。僕の内側で何かが燃えたぎっているのが感じられる。いつのまにか樹の正面に立ち、それと向き合っていた。あのころの純粋な気持ちがよみがえってくるようだった。
樹の頂点に目を向ける。僕はそこに行きたいと思った。そこに立ちたいと思った。そしてこの世界を全方角から見下ろすのだ。そうすることができればきっと道は開ける。僕はそう思った。
木の根元に素早く目を走らせる。そこから飛び上がって、ぎりぎりで上の枝につかまれそうなポイントがひとつだけあった。僕は木から距離を取って助走をつけ、自分が成功するイメージを思い浮かべる。木登りなんて何年ぶりなのだろうか。体が覚えていてくれているかどうか心配だったが、あれこれ考えていても仕方がない。気がついたときには僕はもう走り出していた。
地面を蹴るように太い根に飛び乗る。そして、勢いそのままに上へと跳躍した。右手を限界まで伸ばす。わき腹に苦痛が走った。ちょっと腕を伸ばしすぎたかもしれない。しかし、そんなことはどうだっていい。今は枝につかまることができるかどうかが問題だ。だが、そんなことを考えているうちに、僕はすでに枝にぶら下がっていた。
本当に一瞬のことだった。あまりに早すぎて、喜ぶ機会を見逃してしまった。だが、これで一歩前進だった。先はまだまだ長い。木登りはここからが面白い。
腕と腹筋を使ってその枝に飛び乗り、上へと行けそうな地点を探す。少し離れているがここの隣の枝なら問題なさそうだった。あそこに飛び移ることができれば、その次の枝にも掴まりやすくなる。ここではとても、上の枝に手を届かせることはできない。
膝を曲げ、勢いをつけてジャンプし、横の枝に飛び乗る。バランスを崩しかけたが、何とかうまくいった。このひやひやした感じを味わうのはずいぶんと久しぶりだ。僕はたまらなくなって声をあげそうになった。だが、それはてっぺんまで行ったときのためにとっておこう。そう思い、再び上を見据えた。
その後はつまづきそうなところもなく、わりと苦労せずに登っていけた。体はあのころのように自由に動いてはくれなかったが、それでも感覚は残っていたので、その感覚を信じて上を目指した。
そして、半分ほど登ったところで新たな記憶がよみがえった。それは流星のような到来だった。最初の記憶はだいぶ苦労して思いだしたのに、今回はすんなりと出てきてくれた。それは頭の中で勝手に再生された。これもまた小学生時代の思い出だ。
それは一人の女の子だった。腰に手を当てて、こちらを睨んでいる。その目はこちらを見下すように笑っていた。ショートカットがよく似合う少女で、年齢は当時の僕と同じくらいだろうか。ジーンズに派手なシャツを着ていて、一見すると彼女が女の子に見えないくらい元気で活発な少女だった。だが僕には彼女が女の子だということがわかっていた。
「まだまだ甘いね、きみ」と彼女は言った。「そんなてこずっていたら、どうしようもないよ。私の登り方を、ちゃんと見ててね!」
少女は木に向かって助走をつけて飛び上がった。伸ばした片方の手が、遥か高くの枝に近づく。僕にはその姿がまぶしかった。こんなにも美しく飛ぶ人がいたなんて。しかも彼女は女の子で、僕と同じく木登りが大好きだという。こんな出会いがあるのだろうか。当時の僕としては驚きしかなかった。
記憶はそこで途切れていた。彼女がその木に登れたのか、そしてそのあと僕たちがどうなったのかはわからずじまいだった。
せっせと上を目指しながら、その少女について考えを巡らせる。彼女のおかげで、僕がさらに木登りにのめりこんだのは確実だった。彼女は僕にとって大きな意義のある人なのだ。記憶の欠片から浮かび上がる一瞬の光景からもそのことがうかがえた。
だが、一番初めに思いだした記憶のなかに彼女はいなかった。小学六年生になり、みんなに木登りを教えている映像にも彼女は出てきていない。これはどういうことを意味しているのだろう? その頃にはもう僕たちは仲が悪くなっていたのか、それともたまたまあの場にいなかっただけなのか。彼女に関する記憶だけが、精彩を欠き、きちんとした記憶として浮かび上がらなかった。
てっぺんが見えてくる。あと少しで手が届きそうだった。枝はだんだん細くなり、ともするとぽきりと折れてしまいそうになる。実際にここに来る途中、いくつもの枝を折ってきた。ここからは細心の注意を払って登らなくてはならない。僕は下を見ないように注意した。意識を登ることだけに限っておかないと、恐怖が頭をもたげて手が震えてしまう。これほどの高さならなおさらだった。
そうして、ついに最後の枝につかまり、その上に乗ろうとした瞬間、また過去の映像が復活した。意識がかき乱されるようだった。なんとか自我を保ち、倒れないよう枝にしがみつく。しかし、今回は気を失ってしまいそうなほど記憶が暴走していた。頭の中が思いきりかきまぜられているようだった。目をつぶり、勝手に再生される映像を心で見つめる。
ここは……どうやら風呂のようだった。おそらくは自宅の浴室。自分は裸の状態でそこに立っている。体つきからして、まだ小学生のようだ。それは当時の自分が、視線を落ち着きなくあちこちに泳がせているときにわかった。どうしてここまでうずうずしているのだろうと僕は思う。残念なことに、小学生時代の自分の考えていることは伝わってこない。だから、どうして僕が風呂場でこうして、足踏みをしながら何かを待ち受けているのか、それはまるっきり不明確なままだった。
しばらくして、浴室の扉が開いた。小さい僕の視線はすぐさまそちらへと注がれる。現れたのは、同じく裸の少女だった。彼女も幼い体つきで、不安そうに目を泳がせているところもまったく同じだった。タオルで全身を隠し、産毛を逆立てながらぶるぶる震えている。幼い僕は、彼女のそんな姿からじっと目を逸らさない。そして小学生の体を通して当時の景色を見ている僕も、彼女から目を離すことができなかった。何度か記憶を整合させて、ようやく彼女の正体が判明する。彼女は僕に素晴らしい木登りを見せてくれた子だったのだ。あのときよりも髪は伸びているけれども、間違いない。けれども、どうして一緒に風呂に入ることになったのだろうか? それはどれだけ考えてもわからなかった。木登りをしている途中、泥でも跳ねてしまったのだろうか? ただ、一つはっきりしていることといえば、出会ってから、この二人は意気投合し、性別は違えど信用の置ける親友同士になったということだった。
僕たちは長いあいだお互いのことをじっと見ていた。それは恥ずかしさというよりも、どうしたらいいのかわからないという、言葉にならない戸惑いによるものだった。きっと、相手の裸を目撃して、果たして自分は恥ずかしがればいいのか、それがうまく判断できないのだ。二人はそういう年頃なのだ。異性というものがどういうものなのかが判然としていない。だがそれを知るための扉の存在は知っている。ときどき扉の先にあるものを覗いたりすることもある。でもその程度だ。完全に扉の向こう側に足を踏み入れたわけじゃない。異性の裸に対して、まだ正当な反応を引きだせないでいる。だからこそ、二人は動かないでいるのだろう。
初めに動き出したのは少女の方だった。彼女は幼い僕に近づいていく。その瞳は何かを決意したようだった。もうさっきのように目がふらついてはいなかった。幼い僕は、その接近に逃げずにいる。でも近づきもしない。僕はただ、彼女がそばまで来るのを待っているだけだ。彼女がもはや目と鼻の先まで来てしまうと、僕はそれまでうつむきがちだった顔を上げた。そして、ほとんど身長が同じの女の子の顔を間近で見つめた。それは相手も同じだった。少女もこちらの顔を、正面から直視していたのだった。
記憶はそこまでだ。そこからはハサミで切り取られている。意識は引き戻され、自分が樹に登る景色へと帰ってくる。
今の記憶は、いったいいつの時期のものなのだろうと思った。その時の自分がまだ小学生だったというのは確定している。しかし、正確にどの時期に起こったことなのかはいくら考えてもわからないのだ。自分が子供たちに楽しく木登りを教える前のことなのか、あとのことなのか。かろうじてその辺の時期に起きたことだけはわかるのだが、それより詳しくとなると手の打ちようがなかった。
最後の枝に飛び乗り、これ以上は上に行けないことを確認する。僕はため息をついた。よりによって、なんという記憶を呼び覚ましてしまったのだ。おかげで、やっとてっぺんに登れたという喜びを感じることができない。僕は胸のうちに起こった名もない空白の激情を感じながら、目を細めて全視界に広がる雄大な景色を眺めた。




