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第12話(ユウキ) 四時二十六分の、ごろん(3)

 僕が歩きはじめると、彼女もついてきた。僕の数歩後ろをぴったりと。仕方がないので、彼女の好きなようにやらせておくことにする。


 彼女はぽつぽつと話をしてくれた。彼女は、自分の名前はサクラだ、と言った。僕よりもやはり年下だったみたいで、十五歳だという。ちょうど来年の冬に受験を控えている時期だ。そのことについて聞くと、彼女はどうやら、とくに志望校はなく、適当に近くの高校を受験するそうだ。自分がどの程度までいけるかもわからない。そして、上位校を目指す理由もこれといってないので、この夏にいろいろ回ってみて、雰囲気の良さそうな高校を選んで受験するようだ。僕はそのことでとやかく言うつもりはなかった。


 夏の夜に女の子と二人で歩くというのは、どうにも気恥ずかしいものがあった。誰か知り合いには見られたくないものだ。できれば、この空間は僕たちだけのものにしておきたかった。少し緊張するが、しかし手放したくはないリアルな感情だ。ここで交わされる話は永遠のものとして心にとどめておきたかった。彼女の話す言葉のひとつひとつをしっかりと胸に刻むあいだは、誰にも介入されたくなかった。つまるところ、僕は彼女を独り占めしたかったのだ。自分がこんなにも独占欲の強い人間だと、ここで初めて知ることになった。


「親には何かしら断ってきたんだろうね?」と僕は言った。彼女の話から、あの二人が両親だということは聞いていた。


「ううん。とくに、何も。そんなこと、したら、絶対、とめられてた」と彼女は言った。


 それはそうだろう。こんな夜遅くに、しかも意味のわからない現象に巻き込まれているなかで、娘を手放す親がどこにいるだろうか。


「君はまだ中学生だ。夜中に外をうろつくのは危険すぎる。それに、君がいないことを知ったら、親は心配するよ」


「そう、言ってる、けど」とサクラは僕の隣まで来て、顔を覗き込んできた。「あなた、私の家に、引き返そうとは、していない」


「うーん」そう言われたら、返す言葉もない。僕にはなぜか、そうすることができなかった。自分勝手な男だ。本来ならば、彼女を家に送るべきなのだろう。だが、彼女をもう少し話がしたいという思いがあった。たぶん、彼女を帰したくはなかったのだと思う。この雰囲気を、もっと味わっていたかった。こんなことはとても口には出せないが。


「同じことを聞くようだけど、君はどうして、僕についてこようと思ったんだ? 僕にはあまり理解できなくてね」と僕は言う。これまで、彼女からはその理由をはっきりと聞くことができないでいた。あるいはそれは、自分でも説明のつかない心の動きだったのかもしれない。僕が唐突に外に散歩に出てみようと思ったときのように。彼女は今回も黙ったままだった。僕はそのことをとくに残念だとは思わなかった。ただ、いろんなことを明確にしておきたいという無意識の作用が働いただけだ。彼女がついてきた理由なんて、言ってしまえば、どうでもよかったのだ。いろいろと話ができればそれでよかった。


「あなたは、高校生、だよね」と彼女は言う。僕は軽くうなずいた。


「高校での、生活って、どんな感じ?」と彼女にしては珍しく、質問をした。これまでずっと、僕が質問をして、彼女がそれに答えるという会話だった。その変化は僕をうれしくさせた。こちらに興味があるということだ。


「別にとりたてて言うほどのことでもないよ」と僕は言った。「というか、僕自身があまりほめられた高校生じゃないから、そう思うだけなのかもしれない。本当はもっと、高校生活は楽しいものなのかもしれない。でも、僕にとっては、高校はあまり面白くないところだ。今はまだ休まずに登校できてるけど、少しでも何かのバランスが崩れたら、僕はもう行かなくなってしまうだろうね」


「ふうん」と彼女はそっけなく言った。「あなたは、人に、好かれるタイプだと、思っていたけど」


「そんなことはない。むしろ、僕を疎ましく思っている人の方が圧倒的に多いよ。初めのうち、そういう関係が嫌でみんなと仲良くしようと思っていたんだけど、うまくいかなくて、次第にその努力もやめてしまった。学校ではもうほとんどしゃべらない。今の僕をたとえるなら、毒沼を突き進む一隻のボートだ」


「なに、それ」と彼女は言って、僕に近づいてきた。「その話、詳しく、聞かせて」


 彼女がすぐ隣まで来ると、良い匂いがかすかに漂った。その瞬間、僕は胸がかきむしられるような強烈な疼きを感じた。その正体はわからない。僕は口を動かすことでその疼きをなんとか制御しようとした。


「その毒沼は、人間が触れることができない、死の沼なんだ。少しでも触れてしまえば、その部分が溶けてなくなってしまう。手で触れれば手が、足で触れれば足が、きれいさっぱり。そして、もっと悪いことに、その溶けたところから徐々に体全体に毒が進行して、最後には全身がどろどろに溶けてしまうんだ。それくらい強い毒を持っている。僕は、というか、人間は、その中を突き進まなければならないんだ。その毒沼を越えて、向こう岸に辿り着かないといけない。人間の中には、その沼をパスすることができる人がいるけど、ほとんどの人間はこれを通過しないといけない。そして生き残らなければならないんだ。ボートは壊れやすく、何度も修理しないと途中で使い物にならなくなってしまう。そして沼に落ちて全身を朽ちさせてしまう。そうならないために、僕たちは定期的に修理を繰り返しながら、毒沼を進んでいる。僕もそうだし、君もそうだと思う。


 修理には材料が必要だ。材料は個人で蓄えが違うから、さほど苦労せずにゴールまで行ける人もいるし、材料が少ないから、いつ修理するか、どこで修理すれば無事に渡れるかを真剣に計算しながら進む人もいる。一人一人条件は異なっているんだ。僕はおそらく、とても苦労して渡っている人種。今だっていっぱいいっぱいなんだ。それでも、まだあきらめてはいないけどね。


 ここを楽に突破するには、仲間との連携も重要になってくる。仲間がいれば、材料を分け合ったりもできるし、まだそれほど修理の必要がないボートに相乗りして、壊れそうな自分のボートを引っ張っていって距離を稼ぐことだってできる。友人が一人でも多くいれば、沼の通過はより簡単になっていくんだ。


 でも、仲間が一人もいないと、最初から最後まで苦しむことになる。そして、いつボートが壊れてしまうかと心配しながらの前進だから、精神的にもつらい。今の僕が、それに似た状態なんだ。声をかけてくれる人もいるにはいるけど、彼らは僕の他にも友人がたくさんいて、そっちで手いっぱいだ。僕の方まで手をまわすことができない。僕も変に遠慮をしてしまって、そのサポートを意図的に断ったりしている……」


 そこまで言い終えて、僕は口を閉ざした。しゃべっているうちに、何だかものかなしくなってきたからだ。自分のみじめさ、弱さを再確認したみたいで、僕は毒沼について話したことを後悔した。


 それはもしかすると、彼女に話をすることが何の苦痛にもならず、かえって楽しかったからなのかもしれない。普段の僕なら、こんなに長々と話をすることなんてないはずなのに。彼女と会ってから、自分がどんどん変化していくような感じがした。


「あなたは、いろんなことを、考える」と少女はぼそりと言った。「その話、とても、面白かった」


 そのとき、彼女が少しだけ微笑んだような気がした。だが、おそらく気のせいだった。次に見たときはもう彼女はいつもの無表情に戻っていたからだ。「それは良かった」とだけ僕は言った。




 もうずいぶんと歩いてきた。後戻りはできなくなっていた。とにかく縦横無尽に進んできたので、ここがどこなのかはとっくに把握していなかった。民家の並ぶ田舎道はどこまでも続いている。この町がこんなに広いことに、まずびっくりした。そして、いつまで経ってもまるで進展がないことにも驚いていた。僕たちはどうしてこうして歩いているのか、それがわからなくなることが多々あった。必死に考えると、ふと思いだす。そうだ、僕は何か予感を感じて外に出てきたのだ。僕はこの町で探し物をしている。それが何なのかはまだ判明していないが、一目見ればそれが求めていたものだとはっきりわかるものだ。それを、あの視線に完全に捕まってしまうまでに見つけなければならない。


「あれから、ずっと、考えている。どうして、私は、あなたに、ついてきて、しまったのか」と彼女は言った。僕には顔を向けず、前方の虚空を見つめたまま。「でも、いくら考えてみても、ただ、ついてきたかったから、という理由以外、思いつけない」


「君もひょっとすると、この夜の町に探し物でもあるのかもしれないね」

「かも、しれない。でも、違うかも、しれない」


「もちろん」と僕は言った。それで会話は終わった。


 二人で歩きはじめてずいぶん経つが、視線は一向に感じなかった。あれは幻だったのだろうか? それとも、今もすぐ近くにいるのだが、それを僕が気づいていないだけなのだろうか? わかることといえば、時間はまだ止まっているということくらいだった。


 本当に静かだった。野良猫の鳴き声すら聞こえない。ここでもそうなのかは知らないが、だいたいこの時間になると外をうろつく猫が嬌声を上げているのに。人間だけでなく、動物たちも動きを封じられているようだった。行動できているのは、僕と彼女だけだ。


 このままでも構わない、と思うようになってきた。美しい女の子と夜道を並んで歩き、いろいろと会話をする。それだけで幸せに思えてきた。彼女が、というか、他人が自分にこんなにも親しくしてくれることに、大きな幸福感を感じていたのだ。もしこの現象が解決してしまえば、彼女はきっと僕のもとから離れてしまうだろう。何の接点もないからだ。歳が同じというわけでもないし、通う学校も違う。家は離れていて、めったに出会うこともない。そんなことになるのなら、いっそ、永遠に時間が凍結していればいいのに、と思う。良い方向に考えれば、こうしているあいだは何も悩まなくていいのだ。学校について、友人について、進路について。それらが全部空中に放り出され、完全な自由になる。ずっと夜なのが少しきついが、それさえ我慢できればこのままでも十分生活できるのだ。僕は次第に、この状況を楽しんでいた。一人で不安な気持ちに押しつぶされそうになっていたころが懐かしかった。


 けれども、気づくといつのまにか、その幸せな想像には黒く塗りつぶされたところがある。そこをのぞいてみると、僕を苦しめた視線の存在が垣間見えるのだ。彼がいつまた僕のところにやってくるかと思うと、恐くてたまらない。あれが単なる思い違いであればいいのにと思う。でも、改めてあのときのことを思いだしてみると、あの視線は確かに本物だった。決して幻想なんかではない。僕が勝手にこしらえた本物のような偽物、ということもあるかもしれない。でもいずれにせよ、それは二度と味わいたくないものだった。その視線のおかげか、僕はまだ、この閉じた世界から脱出したいという思いを持つことができていた。


 いつのまにか、僕たちは川の流れる方面へと歩いていたようだ。気がついたときには川のせせらぎが聞こえてきた。田舎と都会を隔てる、唯一無二の大きな川だ。間違いようがない。無意識のうちに、そちらの方へと来ていたようだった。


「水の、音が、聞こえる」

「そうだね。ちょっと、近くまで行ってみようか」

「うん」


 僕たちは足元に気をつけながら、草の茂った土手を下りていく。傾斜に足を取られそうになるが、なんとか下までたどり着いた。下りた先にちょうど、川に沿って人が通れる道ができている。きちんと整備されているわけではないが、自然がそのまま残った緑豊かな道だ。僕たちは暗黙のうちにそこを、川下に向けて歩いていく。水が互いに混じり合い、てこずりながらも一定の方向に流れる心地良い音が、左耳から聞こえてきた。


 遠くには、二つの地区を結ぶ鉄橋が見えた。でもそれは、きっといつも学校に向かうときに通るものとは違うはずだ。僕たちはだいぶ遠くまで来てしまった。左の土手の上に見える都会の景色も、まるで見慣れないものだった。そして、そのときに気がついたのだが、都会はいつものようににぎやかな音は立てておらず、死んだように静まりかえっていた。


 風も気持ち良かった。この季節にしてはちょっと冷たかったが、長時間歩いて適度に火照った体にその風は最適だった。風といい、水といい、自然のものは時間をとめられていないようだ。それは何だか不思議な感じだった。


 突然少女は立ち止まった。あまりに突然、僕の側からいなくなったので、彼女が川に落ちたのではと心配した。しかし、落ちたときの水の音はしなかったし、後ろを見てみれば彼女はちゃんとそこにいた。どうしたの、と僕は訊いた。彼女は僕をまっすぐに見ていた。


「ちょっと、疲れた」と彼女は言った。これまでそんな様子など微塵も感じられなかったのだが、実際はかなり疲弊していたらしい。僕はうなずいた。


「そうだね。もうずいぶん歩いてきた。僕もそろそろ休みたいと思っていたところだ」


 僕たちは川べりの原っぱに腰を下ろした。雑草は少し湿っていた。傾斜がちょうどいい感じだったので、僕はそこに寝転んだ。何だか新鮮なものだった。こうして野外で寝転がったのは、いつ以来なのだろう。彼女は僕と若干離れたところで膝を抱えていたが、くつろぐ僕を見てそばに寄ってきた。僕の左隣だ。そして、同じようにそこに寝そべった。残業からようやく解放されたサラリーマンのように、彼女は深く息をついた。


「これは、初めての、体験」と少女はひっそりと言った。彼女は目をつぶっていた。


「こうして、川の近くでごろんとしたことが?」

「そう。ごろん、としたことが」


 その、ごろん、という言葉を強調して、彼女は言った。少しすると目を開けて、星を見上げる。その顔はとても穏やかだった。いや、あるいは錯覚かもしれない。彼女はこれまで一度も無表情を崩さなかったのだから。


「ごろんとするのは気持ちいい?」僕も同じように上を見て言った。


「うん。気持ちいい。とても、気に入った」彼女はささやくように言った。それは、自分しか知らない秘密の体験をこっそり親に打ち明けるときのような話し方だった。ちょっと幼げな声がそのイメージをより強めた。


「このまま、ずっと、こうしていたい」

「そうだね」


 しかし実際のところ、僕は果たしてどちらを望んでいるのかがわからなかった。こうして彼女と過ごすことを望むのか、元の世界に帰ることを望んでいるのか。今の僕にとってどちらが幸せなのかは明白だったのだが、自分にはどうしても一方的にこっちだと選ぶことができないでいた。肉体の疲労は回復していくが、精神はどんどん濁っていくようだった。

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