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第11話(ユウキ) 四時二十六分の、ごろん(2)

 僕が説明をしているあいだ、彼らは神妙な面持ちを決して崩さなかった。男性の方は途中、何回かうなずいたり、「へぇ」とか「ほぉ」とかいう感嘆を漏らしていたが、彼が本当に理解しているのか、そして僕が彼らにわかるようちゃんと説明できているかどうかはわからなかった。茶髪の女性はそもそも真相になど興味がなく、この状況にただ驚いていた。何回も他の部屋の時計を確認しに行ったり、外に飛びだしたりしていた。近くの家も同じようなことになっているかどうか確かめに行ったのかもしれない。戻ってきたときの彼女の顔は、少し青ざめていた。そして、黒髪の少女はとても落ち着いた態度で僕の話を聞いていた。彼女は何も言わない。この不可思議な現象を、そのまま受け入れようとしているようにも見えた。


「すみません、変なことに巻き込んでしまって」


 説明を終えて、僕は謝った。男性はすぐに手を振る。


「いや、うん。なんというか。あまりに急なことだったから、まだきちんと理解はできていないんだけど。でも、何だかかとんでもないことになっているということだけはわかった」

「僕だってこんな話、信じられないです。でも、その信じられないような話を実際に経験したから、受け入れるしかありませんでした」


「こんなの、作り話に決まってる」と茶髪の女性がつぶやいた。それは僕たちに対してというより、自分自身に向けた言葉のようだった。


「しかし、現に時計は止まっているんだ。これは機械の故障なんかじゃない。それに、ついさっき確認したばかりだろう? 僕たち以外の家庭は、どこも行方をくらましている。今こうして動けているのは、僕たちだけなんだよ」


「あなたは、どうかしてる。どうしてそんなに落ち着いていられるのよ」と女性は言って、頭を抱えてしまった。今月の出費が予想以上に多くて、給料日前にお金のやりくりに困る人のようだった。


 男性は難しそうに眉をひそめている。「うーん。どうしたことやら。事情はわかったが、僕たちとしては、この現象を解消するにはどうすればいいのかまるでわからない。そもそもどうやって発生したのかが不明だからね」


「はい」と僕は言った。


「だから、話をしてもらって非常に申し訳ないことなんだが、僕たちにできることは、おそらく何もないと思うんだ。できることなら助けたいけど、こんなこと初めてだからなぁ」

「いえ、いいんです。もともと、僕のせいで起こったことですから」


 男性はこちらを見ず、目をつぶって大きく息を吐く。見た目よりもだいぶこたえているようだった。出会ったときに感じた頼りがいのありそうな雰囲気は、もうそこになかった。


 いまだに無事でいるのは、正面の少女だけだった。彼女はまだ僕から視線を離さない。けれどもその目は本当に僕を見ているのかわからない。こちらを見ながら、何か別のことについて考えこんでいるようにも感じた。彼女に話しかけようとも思ったが、肝心の言葉がどこかに消えてしまった。この少女には、思わず押し黙ってしまうような雰囲気がある。


 長い時間が過ぎていった。そのあいだ、時計の針の音だけが部屋に響いていた。しかし、そこにあるはずの時の経過は失われている。規則的なその音は、もはや何の意味もなさなかった。何の効力も持たない、ただの音である。


 彼らが話しだすまで、僕は黙っていた。


 ようやく男性が目を開けたのは、ずいぶん経ってからだった。


「とにかく、電話してみよう。警察でもいいし、病院でもいい。どこか、まだ生きているところを探してみよう」


 そう言って男性は椅子から立ち、テレビの横の固定電話に向かった。彼が電話をかけている様子を、僕たち三人はじっと見つめている。張りつめた空気が胸を圧迫するようだった。


 男性は一言もしゃべらずに戻ってきた。彼は首を振って座る。駄目だった、ということだろう。


「ユウキくん。君の自宅はどうだい? もしかしたら、ここみたいにまだ無事かもしれない」と男性は言った。以前よりもだいぶ声が小さくなっていた。


 僕はどうすべきか悩んだ。母親に迷惑はかけたくない。でも、そうはいっていられない事態だということが、彼らを通じてわかってきたのだ。他人を巻き込んでしまった以上、こちらの個人的な事情を押し通すわけにもいかない。もう考え直すことはなかった。


「お宅の電話を借りてもいいですか? 携帯を家に忘れてきてしまって」


「かまわないよ」と男性は言った。


 僕は電話のところまで行き、自宅の電話番号を押した。コール音が耳元で単調に鳴り響く。二十回目のコール音で僕はあきらめて電話を置いた。


「どうやらつながらないみたいです」と僕は戻って言った。あるいは単に電話に出なかったという可能性もなくはないが、いずれにせよ母親を巻き込まずに済んでよかったというのが一番だった。そんなことはここではとても口に出せなかったが。


「そうか」と彼はそっけなく言った。彼としても、大方予想はついていたらしい。彼は煙草の煙でも吐くみたいに長く息をついた。その音で、僕たちは黙りこんでしまった。


「出ていって」


 女性はそうつぶやいた。その声はつららのように冷たく、鋭かった。


 僕はうなずいた。そろそろそうすべきだと思っていた。元はといえば僕の訪問でこんなことになったのだから、ここから離れれば現象は解消されるかもしれない。というか、それ以前に名前も知らない他人の家にあまり長居をするわけにもいかなかった。僕はその場から立った。全員がこちらを見た。


「こうなったのも、全部僕のせいです。迷惑をかけてしまって、すみませんでした」


 再度頭を下げる。これでいったい何度目だろう。頭を上げるまで、彼らは何も言わなかった。


「こちらこそ、何の力になれず、面目ない」と男性は言った。その顔は、悲しそうでもあったし逆に嬉しそうでもあった。あくまで僕から見た印象だったので、本当は何を思っているのかはわからないのだが。


「はぁ」と女性はため息をつくだけだった。彼女はもう限界のようだった。早いところ出ていかなければ、強制的に追いだされかねない。


 僕はそれからまっすぐ玄関に向かった。後ろからは男性がついてきてくれた。


「体はもう大丈夫かい?」

「はい、もう回復しました。助けてもらって、本当にありがとうございました」


「いや、いいんだ。おかげで、貴重な体験もできたしね」と男性は言って、微笑みを浮かべた。それは何だかさみしそうな微笑みだった。


「それじゃあ、頑張ってね」

「はい」


 僕たちは別れを告げた。


 外は相変わらず真っ暗だった。これまで感じていた家庭の温かさとでもいうべきものが一挙に失われていく感覚があった。


 まずは周囲をよく見回す。どうやら視線は、僕がこの家にいるあいだにどこかに去ってしまったようだった。誰かに見られているようにはまだ感じない。しかし、いつ再来するかわかったものではないので、無駄なことだとはわかっていたのだが、それでも辺りを警戒しながら慎重に歩きはじめた。


 とそこで、誰かが玄関を開ける音と、こちらに向かってくる足音が聞こえた。振り向くと、あの黒髪の少女が近寄ってきていた。まだ名前すら知らない、独特の話し方をする美しい女の子。彼女は髪を揺らしながら僕のところへ走ってくる。どうして彼女がそうしているのか、僕にはわけがわからなかった。


「どうしたの?」と僕は、彼女がすぐ近くまで来たときに訊ねた。


 彼女はしばらくのあいだ何も言わなかった。ただ、純粋そうな丸い瞳で僕を見つめている。手を後ろで組んで、左足を少し引いた体勢で僕の前に立ったままだった。こうして改めて彼女を見てみると、本当にきれいな子なのだなということがわかる。その美質には何の欠点もなかった。どこをとっても秀でたところしかなかった。あまりに完璧すぎて、周囲の女性たちが嫉妬することを忘れてしまうほどの美貌だった。こうして向き合って立ってみると、意外にも彼女はそれほど背が大きくないことがわかるのだが、僕からしてみたらちょうどいい背の高さだ。モデルみたいな百六十センチ後半くらいの背だったらさすがに僕も気が引けてしまう。彼女はせいぜい僕の胸のあたりくらいの身長だった。手足はすらりとしていて、ショートパンツから伸びる脚は躍動感に満ちていた。


 彼女は手を後ろで組んだまま、一歩たりとも動かなかった。無垢な色をした瞳も僕の顔から離れなかった。僕はだんだん居心地が悪くなってきた。年下(本当にそうかどうかはわからないが。ただ、何となく彼女はまだ中学生くらいに感じた)とはいえ、こうして可愛い女の子に見つめられると落ち着かない気持ちになる。頬が紅潮していくのがわかる。彼女とうまく目線を合わせることができなかった。


「えっと……」僕は何とか話を聞きだそうとコミュニケーションをとろうとする。でも、彼女に一体どう話しかければいいのか、考えれば考えるほどわからなくなった。あまりに見られているのであまり頭が働いてくれないというのもある。だがそれ以上に、彼女には何かしらこちらの言葉を封じてしまうような力があった。おかげで、僕とその少女は、道の真ん中で無言で向き合うというおかしな状況になっていた。後ろに下がりたかったが、そうすると彼女は傷ついてしまうのではないかという心配があったので、後ろに下がることもできない。結局彼女が動いてくれなくては話が始まらないのだ。


 本当に長い時間が経った気がする。ようやく彼女は口を開いた。


「わからない」


 僕は彼女を見た。わからない?


 それから少しの間があって、再び彼女は話しだした。


「私は、どうして、あなたに、ついてきてしまったんだろう。あなた、わかる?」

「いや、僕に聞かれても困るんだけど」

「そう」


 この状況は何なのだ? わけがわからないのはこっちだというのに。それはまるで、収拾のつかないほどに散らかった子供部屋を思い起こさせた。どこから手をつけたらいいのかまったくわからない。何をどこにしまえばいいのかがもうわからなくなってしまっている。


 僕はとにかく彼女から話を聞きだそうとした。「僕は何か忘れ物でもしたのかな?」


「忘れ物?」

「そう。で、君がそれを渡しに来たのかなと思って」


 少女は首をひねった。「あなたは、ここに、来た時、何も、持っていなかった」


「そうだったっけ」

「うん。私、あなたが、お父さんに、運ばれていくのを、しっかり、見ていたから」

「忘れ物ではないとしたら、君はどうしてここに来たんだろう?」

「それは、きっと、ここに、来たかったから」


「そうか」全然そうかじゃなかったのだが、一応うなずいておいた。

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