第10話(ユウキ) 四時二十六分の、ごろん(1)
気がつくと、僕は布団をかぶって横になっていた。体を起こして周囲を見てみると、ここがどうやら誰かの寝室だということがわかった。おそらくは、僕を玄関で迎え入れてくれた人の部屋だろう。思っていたよりも疲れがとれておらず、もう少しこのまま眠っていたかったが、さすがにこれ以上世話になるわけにはいかないので、ベッドから抜けだす。カーテンは閉められておらず、窓からは外がまだ朝を迎えていない様子が確認できた。壁に掛かった時計を見てみると、針は深夜四時二十六分を指したまま止まっていた。針の音は鳴っている。だが、その音に見合う針の動きは認められなかった。時計は自分の役割を忘れてしまったかのように停止していた。自然と僕の体は恐怖に震えた。
部屋を出ると、横に長い廊下といくつかの部屋の扉が見えた。廊下の明かりをつけると、左の方に下へと続く階段を発見する。他の部屋には入らないようにして、僕は下へとおりていった。
一階に到着して周囲を見渡す。すると、廊下の奥の方で明かりのついている部屋が見えた。そこにはあの中年の男性や、彼の家族がいるかもしれない。僕は若干決まりの悪い思いを感じながらそちらへと向かった。廊下の軋む音が大きく響く。その音で、僕が目覚めたことを知るだろう。部屋に入った瞬間、彼らの不快な眼差しを受けることが僕は嫌だった。しかし、押しかけたのは僕の方だ。彼らが気分を悪くすることは、ごく当たり前のことなのだ。僕はそれを受け止めなければならない。歩きながら、どうにか息を整えた。
その部屋はリビングだった。リビングと、台所がつながっている部屋だった。かすかにうまそうな匂いが漂ってくる。おそらく夕食の名残りだろう。そして、食事用のテーブルには、一人の男性と二人の女性が座っていた。
男性の方は、玄関で会ったその人だ。こちらを優しく見つめている。口もとは微笑んでいるようだった。彼はパジャマから着替えていなかった。ストライプのパジャマは、何度見ても彼にとても似合っていた。
女性の方は、彼の妻らしき人と、その娘らしき人だ。妻らしき人は、茶色い髪を長く伸ばしている。この時間なのであまり整ってはいない。もちろん化粧もしておらず、それほど美人とはいえない素顔を晒していた。彼女はこちらをきつく睨んでいる。明らかに友好的ではなかった。だが、彼女のその態度は当然のものだろう。僕はそれにケチをつけることができなかった。男性とは違い、彼女は簡単な服装に着替えていた。
そして、娘らしき女の子はというと、彼女は何の表情も浮かべてはいなかった。ただこちらを見ているだけだ。黙々と手作業をするパートの女性みたいな顔だった。僕という訪問者に、それほどの興味は持っていないようだった。彼女は黒くて長い髪を、妻らしき人と同じように縛ったりせずに伸ばしている。違うところといえば、彼女の髪は細くてつやがあることだった。小さい頃から丁寧にブラッシングされ、ずっと大事に手入れされているように思える。顔もまた、とても美しかった。無表情ながら、そこには女性としての天性の魅力があった。化粧などでは到底追いつけない、ごく自然な美しさだった。彼女の方も、簡単にだが服を着替えてきていた。
僕は無意識に彼女に惹かれていた。気がつくと僕はその場に立ち尽くして、その女の子の顔を見つめていた。
「まあ、まずは座って。話はそれからにしよう」と男性は言った。そこで僕ははっとして男性を見る。彼は相変わらず人の良い笑みを浮かべていた。そして、隣の椅子をポンポンと叩く。ここに座って、ということだろう。僕はそれに従った。緊張しながら椅子に腰かける。
僕の向かいには、二人の女性が座っている。彼女たちはひとときも僕から目を離さなかった。一方は僕が何か悪いことでもしないか見張っているようにこちらを見つめ、もう一方は植物の観察でもしているみたいな力のない表情でこちらを見ていた。僕はどこに目を向ければいいのかがわからず、視線をいろんなところに泳がせていた。
まず僕から話すべきだろう。突然訪ねてきてしまって、申し訳ないと謝るのだ。だが、僕は最初の一言をいいだせずにいた。気持ちがたかぶってしまって、うまく口を動かすことができなかった。何も言わずにじっとしていると、隣に座る男性が僕の肩を叩いた。
「力を抜いて。僕たちは、なにも君を取って食うつもりもないんだから、そんなに硬くなる必要はないよ」
「……はい」と僕は小さく答え、彼の方を向いた。その顔は僕の心を落ち着かせてくれた。すべてを肯定してくれるような穏やかな表情だった。僕は彼にうなずいてみせた。すると彼もうなずいた。
「えっと……僕は、ユウキといいます。萩村ユウキです。まずは、いきなり家に押しかけてしまって、本当にすみませんでした」
僕は正面に向き直り、座ったまま頭を下げた。立った方が良かったのかもしれないが、そこまで頭は回らなかった。そのときの僕は、ただ頭を下げて謝ることしか考えられなかった。
すると、僕の対角線に座る気の強そうな女性が立ちあがった。その顔は怒りに震えていた。こんな時間に家に上がりこんで、どうして私の眠りを妨げたのだ、と無言のうちに訴えているようだった。彼女は結局何も言わなかった。怒りを抑えた様子で椅子に座りなおす。僕はもう一度彼女に向かって頭を下げた。彼女は目をそらしてこちらを見ようとはしなかった。
「頭を上げなさい」と男性は言った。「もう君の気持ちは十分伝わったから。僕たちはそのことについてはもう怒っていないよ」
一人、その言葉に不服そうに顔を歪めたが、まだ何も言わなかった。そろそろ何か言うかと思ったのだが、彼女は意外にも我慢強い性格のようだった。
事情を説明しようかと思ったのだが、それはやめておいた方がいい気がした。あんな非現実的な体験を、相手によく伝わるよう順序立てて話すことはできそうになかったし、話したとしても絶対に信じてくれなさそうだったからだ。最悪嘘をつこうかとも考えたが、それはさすがに控えた。嘘をうまく言える自信もなかった。
「少し、考えたんだよ」と男性は腕を組みながら唐突に言った。「君がここに来た理由。玄関で君に会ったとき、君はずいぶんと取り乱していたみたいだった。何かとても危険な目にあったあとみたいだった。僕は何者かに襲われそうになっていたんじゃないかと思ったんだ。どうだい、当たっているかい?」
男性は、僕が話しづらくしているのを見て、僕に話しやすいよう場を提供してくれたみたいだった。それは大変ありがたいことだった。
「ある意味では、合っていると思います。僕自身、何から逃げていたのかがわからなくて」と僕はぎこぎなく言った。
「でも、何かに追われていた」
「はい。それは間違いないです」
それを聞いた妻らしき女性は、静かな声で言う。
「それは、勘違いじゃないの? ちゃんと相手は見えていたの?」
「いえ……ただ、誰かがこちらを見ている、ということだけは感じていました。僕に恨みでもあるみたいに、こちらをきつく睨みつけていたんです」
そう言って、僕は後悔した。この説明だと、僕が何だか妄想癖のある普通じゃない人のように思われてしまうだろうからだ。しかし、僕にはそう説明するしかなかった。その説明しかできなかった。
それを聞いて、女性は怪訝な顔をする。
「それって、あなたの遊び仲間か誰かじゃないの? 何か悪いことでもして、それで恨みでも買ったんじゃなくて?」
「それも違う、と思います。相手の姿が見えなかったので、断定はできないけど」
「じゃあ、何なのよ!」と女性は言って、テーブルを叩いて立ちあがった。「だいたい、こんな時間に子供がうろついていいわけないでしょ! だからそんな目に会うのよ」
その言葉に対して、僕は何も言えなかった。確かに、あのとき外に出ようなどと思わなければ、こんなことにはならなかったのだ。彼女の意見はもっともだ。
「まあ、落ち着きなさい」と男性は優しく言った。女性は彼を睨む。だが、意外にもそれ以上僕に突っかかってくることはなかった。この男性はもしかすると、優しそうな人柄に反してかなり厳しい人なのかもしれない。
彼はその微笑みを崩さずに僕の方を見た。
「理由は何であれ、君が無事で良かった。怪我でもしていたら大変だからね。病院に行かなくてはならなかったし、そのあとで夜中にうろついていたことが学校などにばれてしまう。これに免じて、次はこんなことはしないようにするんだよ」
「はい」
「君の家は、この近く?」
「ええ、まあ」と僕は言葉を濁した。あまり正直に言うと、家に電話でもされかねない。母親に迷惑はかけたくなかった。今日もきっと、早く出かけなくてはならないだろうから。
「そうか。じゃあ、そこまで送るよ。一人で行かせるわけにはいかないからね」と男性は言った。そして椅子から立ち上がる。「すぐに出発できるかな? それとも、もう少しここで休んでいく?」
「えっと……」と僕は答えながら、果たしてどうしようかと悩んだ。この嘘がばれてしまうのはあまりよろしくない。ますます怪しくなるだけだ。もう嘘をついてしまった以上、このまま突き通すしかない。でも、どうやって? 玄関へ向かう男性の後ろを、僕はついていくことができなかった。茶髪の女性が目を細めてこちらを見ているのがわかる。
「時計、見て」
黒髪の女の子は静かに言った。その声は、しんとした空間に明瞭に響き渡った。そこまで大きな声ではない。しかし、その独特の響きは、部屋全体に雨上がりの太陽のような効果をもたらした。その声は若干幼さを感じさせた。頼りなく、甲高い声だ。少女の声に男性は止まる。僕は彼女を見た。
少女は僕たちの誰も見てはいなかった。彼女の正面の壁にかかっている時計に、その視線は向いていた。それにつられて男性と茶髪の女性も時計を確認する。そして、一瞬変な間があり、そのあとで、誰かの息を飲む音が聞こえた。
「あれ?」と男性はとぼけた声を出した。「時計、電池切れたのかな」
「でも、時計の音は、する」と少女は言った。何だか奇妙な話し方だった。
彼女の言うとおり、その時計からは秒を刻む音が聞こえる。その音が鳴っているということは、時計の電池が切れたわけではない。ただ、時間が四時二十六分から進まないだけだ。男性は時計と少女を交互に見つめ、そして最後に僕を見た。僕はどんな顔をしたらいいのかわからず、とりあえずうなずいておいた。
「実は、そういうことなんです」と僕は言った。
少しの沈黙があり、しばらくして男性はいやにくぐもった声で「ううむ」と言った。




