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第1話(少年) 地下で起こったこと

 僕は地下室にいた。まわりは灰色のコンクリートで満たされている。周囲をきょろきょろと見渡してみるが、僕以外には誰もいなかった。このだだっぴろい地下室の中央に、僕一人だけがぽつんと、世界から切り離されていた。


 ここはいったい何なのだろう? 僕にはまるで見当がつかなかった。そして、ここに来る以前、自分が何者で、どこに住んでいて、何をしていたのかすら思いだせなくなっていた。無意識に頭を抱える。何かを考えようとしたけれど、何をどう考えていいのかがわからなかった。


 辺りはとばりが降りたように暗かった。かといって完全な暗闇、というわけでもない。周囲をかろうじて識別できるほどの明るさは保たれている。そして、自分の息づかいの他には、聞こえてくる音は一つとしてなかった。孤独を絶望のうちに過ごしたいのなら、ここは最適であろう。しかし、僕にそのような望みはなかった。


 特別寒いというわけでもない。地下室は適度に温かかった。それがまた不気味で、ただならぬ予感を感じた。この後に待ち構える不幸を否応なく感じていた。


 急に目の前が光り出した。瞬間的に顔を上げる。よく見てみると、その光は地下室の隅からやってきていた。僕の向いている壁の、ちょうど真ん中あたりで何かが光っている。


 光は顔を手で覆わなければならないくらいまぶしいというわけではなく、かといってじっと見つめられるほどのものでもなかった。ときおり息継ぎをするかのように明かりを弱め、そしてまた光る。この一連の運動から僕は目が離せなかった。それの正体を確かめるべく、歩き出す。近づくにつれ、輝きは大きくなっていった。


 そしてふと、これは夢なのではないかと思った。この光景は明らかに現実味を欠いている。ここは光がいっさい届かない暗い地下室だ。それなのに、あんなにも生命力にあふれた光が存在するなんて、おかしな話だ。しかし、僕はその光を実際に認識できるし、自分が歩いているという意識もはっきりとしている。感じていること、考えていることは本物だ。それではここは現実だというのか? いや、それにしたって説明がつかないだろう。僕は何も思いだせないし、この場所にも見覚えがない。この状況事態がそもそも不可解だ。そのことについて考えるうちに、僕の頭は煮えたぎった。


 ひとまず、光の正体を確かめよう。僕はそう決意した。夢か現実かを見極めるのはそれからでもいい。一度冷静になり、ゆっくりと慎重に光に歩み寄っていく。


 気がつくと、さあああ、という砂煙にも似た音が聞こえてきた。光に近づくにつれて音は強くなる。この音は、という疑問が浮かび、そのあとで、僕の心に言いようのない恐怖が走った。唐突にそれはやってきた。このまま行ってもいいのだろうか? あの光は、僕にとって幸福とはいえないものなのではないか? 理由はわからないが、そういう危険な予感がしたのだ。そして、僕の足はそれ以上前に進まなかった。あれに近づくのは危険だと心の声は言っている。腕で顔を覆いながら、一歩ずつ後ずさった。その光に背を向けないようにして、少しずつゆっくりと。もといた地点まで戻ってくると、もう砂煙の音は聞こえなくなった。


 けれども、近くに寄って光の正体を確かめたいと望む自分もまたいるということを、僕は受け入れなくてはならなかった。罠かもしれないし、実際そうなのだろうとは思う。それにもかかわらず、そういう欲に突き動かされそうになってしまう。自分の中に、近づこうと言っている僕と、離れようと言っている僕がいて、喧嘩をしている。接近を主張する方は、あそこにはここについて知る手がかりがあるに違いないと言うし、後退を主張する方は、あれは罠だ、近づくときっと大変な目に会うだろうからここは引くべきだと言う。相反する思いがぶつかり合い、非常にやりきれない気持ちになる。結局、最後には恐怖心が頭をもたげ、その場を動くことはなかった。


 けれども、本当にこれで良かったのか、僕には判断しかねるものだった。本心を言ってしまえば、きっと光のもとへ歩いていきたかったのだと思う。これは本能のようなものだった。明かりに群がる夏の虫のように、仕掛け餌を見つけて飛びこむ愚かなタヌキのように。でも、すんでのところで理性が働き、光への接近を中止することにした。あのまま行っていたらどうなるかわかったものではない。今は下手なことはせず、むしろのんびりとした心持ちでいるべきだ。甘い香りには裏がある。そのことを自分に言い聞かせ、納得がいかない、と叫ぶ心を治めていった。だが後悔の渦はその後しばらく消えることはなかった。


 光はだんだん小さくなり、やがて消えてしまった。


 辺りは再び暗くなる。光が完全に消えてしまうと、周囲は元の薄暗い無機質な地下室へと戻ってしまった。僕は言いようのないむなしさをおぼえた。この気持ちはいったい何だろう。胸の真ん中に、無視することのできない小さい穴があいてしまったようだった。


 しばらくはそこから動くことはしなかった。ようやく気分が落ち着いてきたところで、周囲の状況を探ることにした。


 ここはさみしい場所だった。僕以外には何もない。ただ出口のない空間が展開されているだけだ。まるで観察対象の獣を入れておく実験室のようだった。


 実験室?


 僕は天井を、目をこらして見てみる。しかし、監視カメラのようなものはなかった。もしかすると、僕は何者かに見張られているのかもしれないと思ったのだが、違うのだろうか。僕は何の気もなしに、周囲の壁に沿って歩きながら何かないか探した。しかし、それらしいものは何ひとつとして見つからなかった。


 結局徒労に終わった。自然とため息がこぼれる。僕はいったいどうなってしまうのだろう。このままここを出られない可能性だってある。もしそうだとしたら、やはり先ほど光に近寄るべきだったのだろうか? いや、あれはもう過ぎてしまったことだ、いまさら何を言っている? もうそのことは考えずにいよう。そう思い、あてもなく冷たい地下室を歩いて回った。動いていないとどうも落ち着かなかった。僕はあまり我慢ができない性格なのだ。


 足音がさみしく響き、規則正しい音を立てては消えていく。そのときになってようやく、僕は自分自身の状態に気を配ることができた。手を見つめ、そして全身に目を移す。


 この格好はおそらく僕の通う学校の制服だろう。履き心地の良い学生ズボンをはき、上はワイシャツだった。痩せてもおらず、太ってもいない。ごく普通の体型だ。ズボンのポケットに何か入っているかどうか確かめたが、中はからっぽだった。次に手で顔に触れてみる。髪、口もと、鼻、耳。どれも特に変化はないようだった。これは間違いようがなく僕の顔だった。記憶がなくとも、自分の外見くらいは判断がつくものなのだなと安心した。


 先ほど光っていた壁までやってくる。その地点を細かく点検していったが、何もなかった。壁に手を触れる。壁はひんやりと冷たかった。体感気温に比べてそれがあまりに冷たかったので、思わず手を引っ込める。凍りつくほどのものでもなかったのだが、反射的にそうしてしまったのだ。新たに発見した事実といえばそれくらいで、あとは特に何も見つからなかった。


 考えれば考えるほど、不気味な状況だった。理解の範疇を超えている。しかし、どうしてかはわからないのだが、不思議と地下室自体に恐怖は感じなかった。どちらかといえば、落ち着くことのできる空間だった。壁は冷たかったが、そこには巧妙に隠された親しみのようなものがあった。この常温に保たれた全体に、密かな優しさを感じることができるのだ。そして僕は、そのことを何ら不思議なことだとは思わなかった。どうしてかはわからない。ただものごとが本来あるべきところにあるという認識があっただけだ。確かに謎は多い。だが、その謎をあえて解明しようとすることが逆に間違いに思えてきた。これと言った根拠はなく、直観として。


 十分な探索を終え、だんだん気持ちが収まってきた。僕は適当な場所に腰を下ろす。そして、これから起こるであろうことをおぼろげながら想像してみた。


 このあとにも必ず何らかの変化があるはずだ。それは光の出現とは限らない。予想のつかないような何かだ。今度はちゃんとその正体を確かめてみようと思う。やはり僕は危険を冒してでもそういったものに飛びつきたいのだ。もう後悔はしたくないということもある。光から離れるとき、やはり僕の心には、これで果たして正しかったのだろうかという疑念があった。正しさとは何なのか、という問題は置いておいて、消えることのないわだかまりのようなものがどうしても残ってしまう。性に合わないのだ。過去の記憶はまったくないけれど、僕がどういう性格なのかはだんだんわかってきている。記憶――そういえば、言葉は失われてはいない。具体的な過去の出来事のみがすっかりなくなっているだけだ。何とも不思議な感じだった。考えることはできる。ただ、過去の事例と結び合わせてものを思考することができないだけだった。そこにどこか人為的な操作が感じられる。僕はやはり誰かに実験されているのだろうか? 記憶を奪われ、しかしものを考えることはできる人間が暗い地下室に一人でいるとき、そこで何が行なわれるのか、という実験。それがいったいどれだけ有意義なものなのか、僕にはちょっと理解できない。


 不意に何かを感じ、背筋が凍る。


 辺りを素早く見渡す。見かけ上は何もなかった。しかし、さきほどとは明らかに違う。地下室全体の空気が一変している。かつてそこにあった親しさ、優しさは消え失せていた。


 何者かに見られている。そう確信した。それも一人ではない。複数の人間、もしくはそれに準ずる何かに、直視されている。それも同じフィールドで、だ。視線の持ち主は同じく地下室にいる。僕は思わず立ち上がる。足は少し震えていた。心臓の高鳴りが感じられる。


 その場から動くことは叶わなかった。僕自身の意識の問題もあるのだろうが、足の裏が床にべっとりと張りついてしまったみたいに動かせなかったのだ。動かせないのは自分に原因があるのか、それとも外部の作用が原因なのかははっきりとしなかった。足だけでなく、体全体が徐々に硬直している気がする。それは下半身から上半身に向けて進行していた。自分が何だか石にされているような気分だった。


 今はまだ自由な頭を懸命に動かす。周囲の状況がどうなっているのか、まずは確かめたい。しかし、横を向いても、後ろを見ても、変わったところはどこも見受けられなかった。ただ、そこから異様に鋭い視線を感じるだけだ。人が立っているわけではない。でも、たしかに誰かに見られているという感じがある。そして、その目がこちらに接近していることもわかった。恐怖がみるみる増していく。


 呼吸の乱れが実感できる。その場に倒れ込みたいという衝動に駆られる。そうすれば何もかもが終わるような気がしたからだ。けれども体がそうさせてくれない。僕の全身は、そのほとんどが機能を停止し、使い物にならなくなっている。首ももうほとんど動かせなかった。何本ものイバラに体の自由を掠め取られている感覚だ。意識もうまく保てなくなってきている。僕はもう駄目かもしれない、と思った。そして、助けて、と声に出そうとした。思えば、僕はそこで初めて言葉を発しようと思ったのだ。これまでそんなことは一度も考えなかったのに。息を吸い、口を動かそうと試みる。しかし、声は頼りない一本の糸のようにかすれていた。発音は聞こえるのだが、そこにあるべき実際の音はどこかに行ってしまった。硬直が進行し、もはや口すら満足に動かせなくなってくる。


 視界がぼやけてきた。地下室は薄い靄がかかったように白くかすんで見えた。当然ながらそこに人の姿は確認できない。だが間違いなく正面に誰かがいる。鈍った頭で、そのことだけは理解できた。


 どうしてこうなってしまう? 実験はどうなったのだ? 様々な疑問が頭を通り過ぎていく。しかし、答えなどなかったし、考えることすらままならなかった。意識が遠のいていく。何もわからないまま、ここで死を迎えることになるのか……と絶望に浸っているなか、その途中で意識は完全に消え失せ、あとには何も残らなかった。

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