例えば、今もあの日のままであることとか
思っていた以上に帰宅が遅くなり、今から帰ってキッチンに立つ気力も意欲もいまいち湧かず、かといって今からでは入れる店も限られる。ああ、そういえば駅の近くにラーメン屋でもあったかな、などとおぼろげな記憶を脳みその奥底から引っ張り出した。奥底といってもそこの浅いできの悪い脳みそなので、それほど奥でも底でもなかったのは悲しむべきところ。
近所過ぎたし、そこまで流行っている風でもなかったので、どうにも興味が動かぬままに捨て置いていた。この機会だし、折角だから一度くらい暖簾をくぐっても構わないだろう。かなり遅くまでやっているようなので、実はそれなりに繁盛しているのかも知れない。
ぼやぼやと、そんなことを考えている間にも、すでに店のすぐ近くまでたどり着いていた。明かりは見える。『春夏冬二枡五合』との札も立っている。これで、すでに店仕舞いしているということはないだろう。これで営業中でなければ、ちょっとした詐欺ではないか。だとしたら、帰って憂さ晴らしにゲームの世界で銃でも乱射したくなる事態である。
暖簾をくぐると、店員たちの――この時間に四人もいて人件費は大丈夫なのだろうか? もっとも、俺が心配してやるべきことでもないが――威勢のいい呼び込みが響いた。揃いの黒のシャツに、揃ってタオルの鉢巻。鉢巻の巻き方で個性化を図っているようにも見えた。しかし、ラーメン屋の店員はこのスタイルでなければならないという決まりでもあるのだろうか。ラーメン屋の変装をするとなれば、全員がこの格好になるだろう。ついでに、腕なども組んでみつつ。
店内を見回すと一人だけだが客がいた――なおのこと、人件費は大丈夫なのか――ことに若干ほっとする。流行っている気配の見えない飲食店ほど不安を掻き立ててくれるものはない。たとえ、一人でも他の客がいるだけましである。
折角なので、近くのカウンター席を選ばせて貰うことにする。あちらは、意外なことに女性のようであった。まだ注文が来ていないらしく、視線は携帯電話に落としている。
流石に隣に座る勇気はないが、それでも精一杯のそれを捻り出して一つ挟んだカウンターへ。こちらの気配に気付いたようで、彼女がふっと顔をあげた。途端に、俺は踵を返しそうになり、彼女は見なかったことにして携帯に視線を戻そうとして、それぞれがそれを諦めた。
「久し振り……」
「……ああ、久し振り」
まあ、あれだ。有体に言えば、元カノというやつである。つい三年前――三年前が『つい』であることに絶望を禁じえないが――まで付き合っていた。別れの理由は今思えば馬鹿げたもので、たまたまその時期お互い仕事が忙しい上に上手くいっておらず、お互い何かに付けて苛々していた。お互い心休まりたくて会っていたのだろうに、お互いが相手を気遣う余裕を持っていなかった。それで大喧嘩して、さようなら。そんな次第だ。ちょっとだけ歯車が噛み合わなくて、それを許容する優しさが持てなかった。例えば、今ならもうちょっと違った結末もあったのかもしれない。
「なんでこんなところにいるんだよ」
「こっちの台詞よ」
棘はないが、余所余所しい。それは俺だって同じことではある。何を話していいか分からない。何を話すべきかも。こんな偶然は、テレビか映画の世界でしかありえないと思っていた。あるいは、神話の世界のできごとか。
「引っ越したんだよ。おまえと別れた後さ」
「私も引っ越したのよ、あんたと別れた後」
別れて少ししてちょっと冷静になると、後悔の波が押し寄せてきた。一時の激昂で、酷く愚かなことをした、と。そういったものを振り切るために、半ば勢いだけで引越しを進めた。それがまさか、結果として距離を置くためどころか狭めていたとは。
「この店、よく来るのか?」
「ええ。たまに。あんたは?」
「いや、俺は初めてだ。なんか、今までずっとスルーしてた。本能が回避命令出してたのかね? あの店近付くなと」
「ずっと回避してればよかったのに」
まあ、もっともである。俺も、回避し続ければよかったと思っていた。嫌であるとかそういうのではなく、ただ単に気まずい。俺は、空気を読める子なのだ。
それでいて、いい大人でもある。如才なく振舞う術を知っている。
「まあ、久々に会ったんだし。そういうのはよそうや。この店、何がお勧め?」
「そうね。久々に会って、いきなり険悪なのも馬鹿馬鹿しいし。そんな気分で食べても、美味しくないし。お勧めは、麻婆豆腐ラーメンかしら」
「ゲテっぽくね?」
思わず、正直な感想を述べる。他の店にもないわけではないが、なんとなく邪道っぽいので敬遠していた。とはいえ、訊いておいて無視をするのも気が引けるので、素直にそれを頼むことにした。もちろん、若干怪しいメニューを大盛りで頼むなどという愚かな真似はしない。
先客である彼女の方が先に品物が届いた。まあ、順当である。それが普通のラーメンであることに若干違和感があるが。
「あれ? お勧めした奴じゃねえの?」
「たまには違うの頼むわよ。毎回同じメニューを頼む人って、なんだか残念な人多くない? じゃ、お先に頂きます」
そんな口先に納得させられつつ、大した差もなく俺の頼んだ麻婆豆腐ラーメンがきた。
「俺も頂ま……」
言いつつ一口含む。そして、そのあとは何もできなくなった。
「……! 辛っ! これ辛いぞ!?」
辛さに咽ながら、水を飲む。コップの水をすべて飲み干しても口の中で燃え盛る炎は消えず、彼女は悪魔のような素敵な笑顔で俺を眺めていた。
「図りやがったな……!?」
「そういえば、あんた昔から辛いの苦手だったわよねえ。いやあ、相変わらずね」
怒りたかったが、辛さに負けた。のたうつ以外の何もできない。
「ここのって見た目はそんなに辛そうでもないのに、何がどうしてこうなってるのか分からないくらい辛いのよね。大丈夫? 水要る?」
「だから、油断したんだよ。畜生。水要る」
二杯目の水を飲み干して、やっとどうにか人心地を得る。流石に、彼女は少しだけ申し訳なさそうな顔をしていた。
「ごめん」
「いいけどさ。これ、残りはどうするよ? 無理だぞ。これ。俺には」
「ああ、いいよ。私のと換えてあげるから。あと、あの時もごめん」
不意に、謝られる。今更になって、あの時のことを。考えてみれば、あの日、結局どちらも折れなかったし、どちらも謝らなかった。正面から何の工夫もなくぶつかり合って、そして恐らくどちらも傷付いた。
「悪いが、助かる。それと、俺もごめん。余裕がなかった、っていうのは言い訳にはならんよな」
丼を交換しながら、俺も自然と謝っていた。気まずさは、いつの間にか消え去っていた。
それなりに近況などを話しつつ食事を終え、揃って店を出た。最寄り駅は同じようだが、家は反対側らしい。送ろうかとも提案したが、それは流石に断られた。
「反対方向だからさ。そこまでは甘えるつもりはないよ」
「そうか。じゃあ、気をつけて帰れよ」
「うん、あんたもね」
ひらひらと手を振って、それぞれ反対方向へ歩を向ける。十歩ほど行くと、背後から彼女の声が聞こえた。
「携帯とかさ、メールとか、変えてないから。おやすみ」
「俺もだ。おやすみ」
夜の闇に、彼女の姿が紛れて消えるまで、俺はその後姿を見送った。
――了