信号待ちの彼女
国道14号の錦糸町交差点を右折するのは難しい。
その日も例に漏れず、信号に引っ掛かった。どんよりした空に嫌な感じを抱いていたが、いよいよ一粒二粒と雨が降り出してきた。晃司は早めにワイパーを動かし、フロントガラスに貼り付く水滴を拭った。助手席の亜希が大きな欠伸をしながら手元の携帯電話を弄っている。それを横目で確認し、晃司も一つ大きな溜め息をついた。
もう慣れた光景である。二年半同じ景色を見てきた。亜希を自宅のある船橋から、毎週木曜日、彼女が通う向島のダンススクールまで送迎するのが晃司の『日課』になっていた。
長い信号待ちの時間も、二人の間にこれといった会話は無い。相変わらず亜希は携帯の画面に夢中で、晃司は反対車線を過ぎていく車の数を数えていた。右折を報せるウィンカーの音だけが時を刻んでいるようだった。
信号が変わり、市道に入って千住の方へ進む。ここを走れば亜希の通うダンススクールは直ぐだった。彼女をスクールが入っているビルの駐車場で降ろした後、晃司は465線を更に四ツ木方面に車を走らせ、この辺では比較的大きなパチンコ屋の駐車場に車を停める。
これも、晃司の『日課』だった。
亜希がスクールに居る小一時間、晃司はいつもこのパチンコ屋で暇を潰す。スクール終わりの亜希を迎えに行くまでの時間が、最初手持ち無沙汰で仕方無かった。何となしに立ち寄ったパチンコ屋で暇を潰す習慣が最近では妙に落ち着くし、大抵、風呂とトイレ以外は一緒にいる様な亜希から離れ、一人で過ごせる事が晃司には貴重だった。
亜希は高校時代からダンスが好きで、学校でサークルを立ち上げ仲間を集っては、熱心に放課後遅くまで練習していた。折に触れ将来はプロのダンサーになりたいと高気に満ちた瞳で晃司に語っていた。晃司もそんな殊勝な亜希に感心し、高校を卒業して亜希がダンススクールに通う様になってからずっと、彼女の送り迎えを担っていた。
最初は少しでも亜希と一緒にいたくて、また亜希の助けになっている気がして車を走らせていたが、最近ではパチンコ台と台の中を無秩序に跳ね回る銀色の玉を眺めている時間を求めに行っている自分に気付いていた。
亜希に対して思いが薄れた訳ではない。晃司は高校を卒業してしばらく職を転々としていたが、ようやく最近準社員並みの待遇のある会社への採用にこぎ着けていた。
一方、亜希はというと寝ても覚めてもダンスに夢中で、週に二三回の書店でのアルバイトをこなしては家で振り付けの確認をしたり、有名なダンサーのDVDを見たりしながら過ごしていた。
当初輝いている様に思えた彼女の夢や希望が、二年半も過ぎると現実味の薄れた、五里霧中の玉虫色の案内札のように思えてき、幾許かの不安を感じざるを得なかった。
スクールが終わる頃になると、晃司はパチンコ屋を出て、スクールのビルの駐車場へ車を向かわせる。練習が終わって晃司の車に駆け寄ってくる亜希の手には、いつもビルの一階にあるコーヒーショップで買ったコーヒーが握られていた。大抵左手には亜希が好きなキャラメルマキアートがあり 右手には晃司の嗜好のカプチーノがあった。
「どっちがいい?」
亜希は毎回晃司に訊ねるが、車のドアを開けて助手席に座り込む時は既に左手のキャラメルマキアートに口を付けている。その時の亜希の姿だけには、相変わらず口元を緩ませられた。
亜希を乗せた車は、船橋方面へ来た道を戻っていく。晃司はドリンクホルダーにあるカプチーノを啜りながら、ハンドルを切った。右折待ちの長い交差点は、帰路ではスムーズに通って行ける。
さっき、粒程度だった雨はもう本降りになっていた。
先週からの雨は、その日もしつこく降り続いていた。
いつものように煙草を吹かしながら、パチンコ台と対峙していた晃司の携帯電話が鳴った。
亜希からだと思ったが、スクールが終わる時間には早すぎる。近々、発表会があるらしく最近は普段より亜希の練習時間は押していた。煙草を揉み消しながら、ジーンズのポケットから携帯を探り出すと、着信は翔平からだった。
「晃司?今何処にいる?今さあ、販売の真希達と飲んでるんだけど、お前も来ないか?」
「あー。今さあ、四ツ木。亜希のスクールを終わるの待ってるんだよ」
「えー、なんだよ。久しぶりだから合流しようぜ。だってさ、亜希ちゃんは電車でも帰れるだろ?真希の友達もきてるんだぜ」
「……ああ。分かったよ。亜希に電話して、行けたら行くよ」
翔平は高校時代からの腐れ縁で、亜希の事もよく知っていた。卒業後しばらく働いていた食品会社の工場でも翔平と一緒だった。電話口の向こうで盛り上がる居酒屋の雰囲気と女達の声に刺激され、晃司は一向に出る気配の無いパチンコ台から席を立ち、車のキーを握った。
翔平達は船橋の駅前で飲んでいるらしい。今から向かえば、三十分と掛からないだろう。晃司は亜希に電話を入れようとしたが、レッスン中なのでどうせ電話には出られないだろうと思い、急に用事が入って今日は迎えに行けない旨をメールで送った。
店を出ると思ったより雨脚は強かった。駐車場にはもう水溜まりが出来ている。晃司は雨を避けるように足早に車に乗り込み、翔平達の居る店へと向かった。
――そういえば、亜希を迎えに行かず先に帰るのは今日が初めてだな、と思った。
晃司が店に着くと、翔平たちは大分出来上がっていた。晃司も久しぶりに同世代の人間と騒ぎたくなり、また亜希以外の女と酒を飲むのも随分久しぶりな感じがした。
晃司が二杯目の杯を空けようとした時、一緒にいた女の一人が不意に晃司に訊いてきた。
「晃司君の彼女、ダンスやってるんでしょ?凄いよね。結構本格的にやってるんだって、翔平が言ってたよ」
「ああ……今日もスクールに行ってるよ。……今も踊ってるんじゃないかな」
「へえ。ダンススクールかあ。私も中学の時、少しやってたんだよ。でも周りに着いて行けなくて直ぐに辞めちゃったの。なんだか懐かしいな。彼女さんはどんなダンスやってるの?」
女は好奇心なのか、矢継ぎ早に質問を続けた。晃司は適当に相槌を打ちながら、それとなく答えていた。亜希の姿が脳裏を過ぎった。
「そういえばさあ。お前、いつも亜希ちゃんの送り迎えしてんだよな」
翔平が割って入る。「えー。優しいー!良く出来た彼氏じゃん!彼女が羨ましいよ」もう一人の女が感心した様に晃司に言った。「そんな、何でもないよ。もう仕事みたいなもんで、生活の一部みたいになってるから。……」晃司は少し照れ臭そうにして、小鼻を掻いた。
ふと外に目を遣りたくなって窓をみると、雨脚は一層強くなっていた。風も吹き出しており、通りを歩く人達は誰も彼も、両手で傘を持っている。けれど風雨が強過ぎて、皆、髪も服もびしょ濡れになっているのが分かった。
勢いの止まない雨の音が、窓を叩いている。
晃司は大きく唾を飲み込んだ。
亜希のダンススクールから最寄りの駅までは歩いたら二十分は優に掛かる。しかも彼女は傘を持っていないはずだ。最近練習に熱が入り、両足の親指と踵の皮が擦れて痛いと言っていたのを思い出した。
一気に酔いが冷めた。晃司は財布から千円札を何枚か抜き取り、テーブルの上に置いて急いで店を出た。
――もう亜希の練習はとっくに終わっている時間だ。何処かで傘を用意して、どうにか歩いて帰っただろうか。しかしこの雨だ。若しかしたら、自分が迎えに来るのを待っているかもしれない。
……いや、それでも痛めた足で駅に向かったのか。
彼女を置いてきた自分を恥じた。たまらなく嫌になった。
酒が入っていたので、車は使えなかった。駅の改札を通り、階段を駆け上がってホームに出る。携帯電話を確認したが彼女からの着信履歴はなかった。晃司はあれこれ思惑しながらも、足だけは亜希のスクールがある最寄り駅まで向かっていた。
駅に到着し、電車を降り、乗降客の波をかき分けてスクールのある方の改札へ駆ける。人々の手に握られている傘達が、はやる晃司を更に急かせた。
改札へ向かって走る晃司の目に、ふと向いのホームに置かれたベンチが映った。
……亜希がいた。
息継ぎもしないで、階段を降りて、登って、反対ホームの彼女に駆け寄る。
彼女の視界に入った時、晃司は肩で息をしていた。
「どうしたの?」
亜希は突然目の前に現れた晃司を見上げ、呆気にとられた表情で言った。
「ねえ?……さっき、急用が出来たって。……まさか電車でまた戻って来たの?」
「ああ。……」
晃司はゴクリと唾液を飲み込み、頷いた。
「……晃司君!走ってきたんだ。息切らしてるよ」
亜希が少し笑って言った。
「うん。……走ってきた。だって凄い雨だったし、傘持って無いと思ったから。……それと足、傷めていたろ?」
「はは。心配してくれたんだ。大丈夫だよ。友達の車で駅まで送って貰ったから」
「そっか。なら良かった。……勝手に先帰っちゃって、だから、ちょっと心配になった。……ごめんね」
「いいよ。逆に急用って言うから、こっちが心配しちゃったよ。あっ、そうそう、晃司くんのメール見たのコーヒー買った後だったから、……はい、これ」
そう言うと亜希は手に持っていた袋からコーヒーを取り出して晃司に渡した。
勿論、カプチーノだ。
コーヒーを受け取り、晃司は直ぐにそれを啜った。じわり、と目尻に涙が溢れてくるのを感じた。亜希に悟られないようにするのがやっとだった。
「もう冷めちゃってるでしょ?」
亜希がまた笑って言った。
「でも、うまいよ」
晃司は亜希の手を取った。そして掌で彼女の手を握り直した。
ホームの奥から、次の電車の到着を報せるアナウンスが聞こえる。
「……帰ろうか」
晃司は亜希の手をとり、歩きだした。亜希は笑顔で応えた。
「うん!!それと……私、傘持ってないからね!」
国道14号の錦糸町交差点を右折するのは難しい。その日も亜希を乗せた晃司の車は交差点の信号で停った。右折を報せるウィンカーがカチカチと音を鳴らせる。しかし、時を刻んでいるのは、ウィンカーの音だけでは無くなった。
「そろそろ発表会だね。今日も練習大変かな?」
晃司が助手席の亜希に訊く。
「うん。今日は、振り付けの最終確認して、全体の流れ合わせてから、何度か全部通す予定だよ。終わるのは大体何時だろう。えっと……」
練習が終わる頃の時間を考えている亜希を見ながら晃司は言った。
「時間はいいよ。今日は一緒に行く。見学しても大丈夫だろ?亜希が頑張って踊ってとこ見たいし」
「え!?見に来るの?」
「だめ?」
「だめじゃないけど、なんか、恥ずかしいな。晃司君に見られるの……。だって……パチンコ、しなくていいの?」
「いいよ。亜希のダンス見てる方がいい!」
晃司は笑顔で言った。助手席の亜希も晃司を見て、笑った。
二人の声が車内に響く。
右折信号が青に変わり、晃司はハンドルを切った。
亜希のダンススクールはもうすぐだ。
今日はワイパーはいらない。空は雲一つない快晴だった。
今日の天気を思いながら書きました。こういう日、心が沈む事があったなら、読後に少しでも元気になって頂けたら幸いです。




