番外編:恋に落ちて
奏多視点の話。物語の原点。
放課後の音楽室には、僕を許してくれる静寂がある。
重厚な扉を閉め、鍵をかける。
カチャリ、という金属音が鳴った瞬間、ようやく肺に酸素が戻ってくるような感覚に陥る。
僕はネクタイを少しだけ緩め、深く息を吐き出した。
窓の外では、グラウンドから野球部の掛け声や金属バットの音が聞こえてくるけれど、それらは分厚いガラスに遮られて、遠い世界の出来事のように響く。
西日が差し込む部屋の中、埃が光の粒となって舞っている。
その黄金色の粒子の中を歩き、僕は部屋の中央に鎮座するグランドピアノの前に座った。
黒塗りのボディは、鏡のように僕の顔を映し出す。
整えられた髪。色素の薄い瞳。愛想よく作られた口角。
――結城奏多。
それが僕の名前であり、この学校における一つの「役割」の名前だ。
『結城先輩は、本当に王子様みたいだよね』
『成績優秀で、優しくて、ピアノも弾けて』
『悩みなんてなさそうで、羨ましいな』
そんな無責任な賛辞を、僕は微笑みという名の仮面で受け流し続けてきた。
王子様。
そんなふうに呼ばれるたびに、見えない鎖で手足を縛られていくような気がした。
期待されること。失望させないこと。常に清廉潔白で、誰にでも優しくあること。
それは幼い頃から厳格な家庭で育った僕に染み付いた処世術であり、同時に僕自身を窒息させる檻でもあった。
本当の僕は、そんなにできた人間じゃない。
他人に対して無関心だし、独占欲だってある。面倒なことは嫌いだし、できれば誰とも関わらずに一人でいたいときだってある。
けれど、一度被ってしまった仮面は、そう簡単に外すことができない。
だから僕は、この音楽室に逃げ込むのだ。
ここにあるピアノだけが、僕の言葉にならない感情を、音として吐き出すことを許してくれるから。
鍵盤蓋を開ける。
並ぶ八十八の白と黒。
指を置くと、ひやりとした象牙の感触が指先から伝わってくる。
何の曲を弾こうか。
楽譜はない。今の僕に必要なのは、整理された旋律ではなく、混沌とした感情の奔流だ。
ダン、と低音を叩くと空気が震える。
続けて、高音の煌めきを散りばめる。
即興で紡ぐ音は、美しく整える必要なんてない。
苛立ち。焦燥。空虚。
そんなドロドロとしたものを音に乗せて、空中に解き放つ。
誰も聞いていない。ここには僕一人だ。
だから、どんなに激しく、どんなに醜い音を出しても構わない。
僕は目を閉じ、鍵盤に指を叩きつけた。
世界から切り離されたこの場所で、僕はただの「奏多」に戻る。
そう思っていた。
あの日、彼女が現れるまでは。
四月。新学期特有の浮ついた空気が、校舎内を満たしている。
最高学年となった僕の周りは、いつにも増して騒がしかった。
進路のこと、部活の引退時期のこと、そして新入生の勧誘。
合唱部でも、新入部員の獲得に躍起になっていた。
僕は正規の部員ではないけれど、ピアノ伴奏の腕を買われて、半ば強制的に手伝わされていた。
「結城! 今年も一年生がたくさん入ってきたよ!」
部長が興奮気味に報告してくる。
「ああ、よかったね。今年も賑やかになりそうだ」
僕は当たり障りのない笑顔で答える。
音楽室には、真新しい制服に身を包んだ一年生たちが十数人、緊張した面持ちで整列していた。
どの子も、まだ中学校の幼さが抜けきらない顔をしている。
彼らは一様に、僕の方を見て頬を染めたり、ひそひそと囁き合ったりしていた。
『あ、あの人が噂の結城先輩?』
『すごい、本物の王子様みたい』
聞こえてくる声に、僕は心の中で小さく溜息をつく。
今年もまた、このパターンか。
彼女たちの瞳に映っているのは「僕」ではない。「噂の王子様」という虚像だ。
僕は適当にピアノの前に座り、自己紹介代わりの曲を弾いた。
無難で、美しくて、誰にでも好かれる曲。
演奏が終わると案の定、黄色い歓声と拍手が湧き起こった。
僕は優雅に一礼し、心の中で「業務完了」のハンコを押す。
そのときだった。
列の最後尾で、一人の少女が慌てて楽譜を落とした。
「あ、すみませんっ!」
バサバサと床に散らばるコピー用紙。
周りの新入生たちがくすくすと笑う中、彼女は真っ赤になってそれを拾い集めていた。
小柄な背中。少し癖のある、肩までの髪。
大きな瞳は、子犬のように潤んでいて、焦りで右往左往している。
――平野 優愛。
名簿にあった名前を、ぼんやりと思い出す。
特に目立つタイプではない。
容姿も、どちらかと言えば地味な方だろう。
けれど、彼女が必死に楽譜を拾い集めるその指先が、妙に丁寧なことが気になった。
ただの紙切れなのに、まるで大切な宝物でも扱うような、そんな動き。
「……大丈夫?」
僕は条件反射的に席を立ち、彼女のそばにかがみ込んだ。
一枚、彼女の手から滑り落ちそうになった楽譜を拾い上げる。
すると、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「は、はいっ! すみません、ありがとうございます……!」
至近距離で目が合う。
その瞬間、僕は不思議な感覚を覚えた。
彼女の瞳には、僕への「憧れ」や「熱狂」といった色が、驚くほど薄かったのだ。
もちろん、緊張はしている。顔も赤い。
でも、そこにあるのは「失敗して恥ずかしい」という純粋な羞恥と、「助けてくれて申し訳ない」という謙虚さだけ。
僕を「王子様」として崇めるような、あの独特のフィルターがかかった目ではなかった。
「気をつけて。……これ、上下逆だよ」
僕が拾った楽譜を渡しながら指摘すると、彼女は「ひゃあ!」と可愛らしい悲鳴を上げて、さらに赤くなった。
「す、すみません!」
「ふふ、面白い子だね」
思わず、自然な笑みがこぼれた。
計算された微笑みではなく、心からの苦笑に近いもの。
それが、僕と彼女のファーストコンタクトだった。
その時はまだ、彼女が僕の日常に入り込んでくるなんて、思いもしなかったけれど。
それから数週間。
彼女――優愛ちゃんは、合唱部に馴染もうと必死だった。
経験者だという話だったが、高校のレベルの高さに戸惑っているようだ。
発声練習では誰よりも大きな口を開け、パート練習では先輩たちに食らいついていく。
不器用だ。
見ていて危なっかしいほど、一生懸命すぎる。
僕が伴奏のために音楽室へ行くと、彼女はいつも隅の方で、眉間に皺を寄せて楽譜と睨めっこをしていた。
けれど、その姿を見るのが、いつしか僕の密かな楽しみになっていた。
何故だろう。
彼女を見ていると、胸の奥の澱が少しだけ澄んでいくような気がしたのだ。
打算も、駆け引きもない。
ただ「上手くなりたい」「歌いたい」という純粋な熱量。
それは、僕がとうの昔に忘れてしまった、あるいは「王子様」という仮面の下に封じ込めてしまった、初期衝動のようなものだったからかもしれない。
梅雨入り前の、長く続く雨の日の放課後。
気圧のせいか、それとも進路相談で担任に言われた「君なら東大も狙える」という期待の言葉のせいか、僕はひどく疲弊していた。
放課後、部活が始まる前の音楽室。
まだ誰も来ていない時間を見計らって、僕はいつものようにピアノに向かった。
逃げたかった。
期待や責任、完璧な自分から。
鍵盤に指を這わせる。
重く、暗く、底知れない絶望と情熱が渦巻く曲。
今の僕の心象風景そのものだった。
激しく鍵盤を叩く。和音が唸りを上げ、音楽室の空気を振動させる。
もっと。もっと激しく。
誰にも見せない、ドロドロとした感情を全て吐き出すように。
僕はピアノの世界に没入していた。
周囲の音が消え、ただ自分の内面と向き合う時間。
一曲を弾き終え、最後の和音が消え入るまで、僕は鍵盤に突っ伏すようにして肩で息をしていた。
はあ、はあ、と荒い呼吸が静寂に響く。
少しだけ、スッキリした。
顔を上げ、汗を拭おうとした、そのとき。
「……すごいです」
背後から、小さな声がした。
心臓が凍りついた。
誰かいたのか? いつから? 鍵はかけていなかったのか?
慌てて振り返ると、入り口のドアのそばに、優愛ちゃんが立っていた。
雨に濡れたのか、髪が少し湿っている。
彼女は呆然とした表情で、僕を見ていた。
見られた。
完璧な王子様ではない、感情を剥き出しにしてピアノを叩きつける、醜い僕を。
僕は瞬時に「仮面」を探した。
なんて言えばいい? 『練習してたんだ』と笑えばいいか?
動揺を隠して、僕は口角を上げようとした。
「あ……優愛ちゃん。ごめんね、気づかなくて。今のはただの指慣らしで……」
「泣いてるみたいでした」
彼女の言葉が、僕の言い訳を遮った。
「え……?」
彼女はゆっくりと歩み寄ってきた。
その瞳は、いつものようにオドオドとしていない。
吸い込まれるように、真っ直ぐに僕を見据えている。
「ピアノが、泣いてるみたいでした。……すごく綺麗で、でも、すごく苦しそうで」
彼女はそう言うと、胸を押さえた。
「聴いていて、ここがぎゅってなりました」
言葉を失った。
今まで、僕のピアノを聴いた人は数え切れないほどいる。
『上手だね』『さすがだね』『才能があるね』
そんな言葉は聞き飽きた。
けれど、僕の音の中に込めた「苦しみ」や「泣き声」を聞き取った人は、一人もいなかった。
みんな、表面的なテクニックや、「結城奏多が弾いている」という事実にしか興味がなかったからだ。
なのに、この子は。
入部したばかりの、不器用な一年生は。
僕の仮面を通り越して、その奥にある本質へと触れてきた。
「……変な曲、だったでしょ?」
僕は自嘲気味に笑った。
これはテストだ。彼女がどう答えるか。
もし『そんなことないです、素敵でした』と社交辞令を言ったら、僕はまた心の扉を閉ざすだろう。
優愛ちゃんは首を横に振った。
「いいえ。……私、この曲好きです。先輩のピアノの中で、一番好きかもしれません」
嘘のない、透明な声だった。
彼女はピアノのそばまで来ると、遠慮がちに鍵盤の端に触れた。
「先輩は、いつも楽しそうに弾いてるけど……本当は、いろんな気持ちをピアノに話してるんですね」
どくん、と心臓が跳ねた。
見透かされている。
でも、それは不快な感覚ではなかった。
むしろ、長く暗い地下牢に、一筋の光が差し込んだような。
誰にも理解されたくないと思っていた孤独を、そっと手ですくい上げられたような救いを感じた。
「……優愛ちゃんには、敵わないな」
僕は鍵盤から手を離し、椅子の背もたれに体を預けた。
仮面が、剥がれ落ちていく音がした。
この子の前では、無理に笑わなくてもいいかもしれない。
完璧な先輩を演じなくても、ありのままの音を受け入れてくれるかもしれない。
そう思った瞬間、肩の力がふっと抜けた。
「……また、聴いてくれる?」
僕が尋ねると、彼女は花が咲くようにぱっと顔を輝かせた。
「はい、もちろんです! 私、先輩のピアノ、ずっと聴いていたいです!」
その笑顔だった。
カチリ、とパズルのピースが嵌まるように、僕の中で何かが決定的に変わる。
ああ、そうか。
僕は、この笑顔が見たかったんだ。
僕の音を理解し、僕自身を見てくれる、この瞳に映りたかったんだ。
窓の外では雨が降り続いている。
けれど、音楽室の中だけは、やけに暖かかった。
西日の代わりに、彼女という存在が、僕の世界を照らし始めていた。
その日を境に、僕は変わった。
いや、周りから見れば何も変わっていないだろう。
相変わらず「結城先輩」として振る舞い、優等生を演じている。
けれど、その視線は常に一人の少女を追うようになっていた。
放課後、彼女が音楽室に来る時間を計算して、先回りするようになり、彼女が他の部員と話していると、どんな会話をしているのか気になって耳をそばだてるようになった。
特に、男子部員と話している時の彼女を見るのは、面白くなかった。
無自覚なのだろうけれど、彼女は人と話すときの距離が少し近い。一生懸命聞こうとするあまり、身を乗り出してしまうのだ。
その無防備さが、危なっかしくて、腹立たしくて、愛おしい。
『優愛ちゃん』
名前を呼ぶだけで、彼女の肩がびくっと震え、耳まで赤くなる反応。
それを見るたびに、サディスティックな優越感と、庇護欲が混ざり合った奇妙な感情が湧き上がる。
もっと僕を見てほしい。
僕の前だけで、その顔を見せてほしい。
そんな独占欲が、日に日に膨れ上がっていくのを自覚していた。
ある日の練習後、二人きりになった音楽室で、僕は彼女に問いかけた。
「優愛ちゃんは、どうしてそんなに頑張るの?」
彼女は譜面台の前で、まだ練習を続けていた。
「え?」と振り返った彼女の額には、うっすらと汗が滲んでいる。
「だって、私……下手っぴですから。先輩の伴奏に釣り合うように、少しでも上手くなりたくて」
彼女は恥ずかしそうに笑った。
「先輩のピアノは、魔法みたいだから。私の歌が足を引っ張っちゃったら、申し訳なくて」
僕のため。
その言葉が、胸に染み渡る。
彼女の原動力の一部に、僕がいる。
それがたまらなく嬉しくて、僕はピアノの椅子から立ち上がり、彼女の頭に手を伸ばした。
さらりとした髪の感触。
彼女は驚いたように目を丸くしたが、嫌がる素振りは見せなかった。
「……十分だよ。優愛ちゃんの歌声は、僕のピアノを一番輝かせてくれる」
「えっ、そ、そんなことないです……!」
「本当だよ。……君が歌うと、僕は優しい音が出せるんだ」
これは、口説き文句ではない。紛れもない本心だった。
彼女の歌声に寄り添うときだけ、僕は「結城奏多」という役割を忘れ、ただ音楽を楽しむことができる。
彼女は僕の救いだ。
だから、手放したくない。
誰にも渡したくない。
「彼女の先輩」というポジションに甘んじている今の関係が、もどかしくてたまらなかった。
あと二年早く、彼女が生まれていれば。
あるいは、彼女がもう少し大人であれば。
そんな「たられば」を考えてしまう自分に苦笑する。
でも、今はまだ、この距離感を守らなければならない。
急いては事を仕損じる。
彼女はまだ、恋を知らない雛鳥のようなものだ。
僕がいきなり「好きだ」なんて伝えたら、きっと怖がって逃げてしまうだろう。
だから、ゆっくりと。
少しずつ、外堀を埋めるように。
僕なしではいられないように、甘い毒を盛るように、優しく包み込んでいこう。
「優愛ちゃん」
「はい?」
「明日も、一番に来てね。……君のためだけに、ピアノ弾いてあげるから」
彼女の顔が、林檎のように赤く染まる。
その反応を見るのが、今の僕の最大の愉悦だ。
「は、はいっ! 絶対、絶対来ます!」
力強く頷く彼女を見て、僕は満足げに微笑んだ。
ああ、可愛い。
本当に、どうしようもなく可愛い。
こんな感情、今まで知らなかった。
これが「恋」だというなら、僕は喜んでその沼に沈もうと思う。
音楽室に差し込む西日が、二人を照らす。
その黄金色の光の中で、僕は心の中で密かに誓った。
いつか必ず、この「先輩」という肩書きを外して、彼女の「特別」になってみせると。
それまでは、精一杯の「優しい先輩」を演じ続けよう。
時々、こうして独占欲を滲ませながら。
これが、僕、結城奏多が恋に落ちた音の記録。
静かな雨の日、音楽室で響いた、たった一言の共鳴。
それが全ての始まりだった。




