表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

 まるでアイドルの出待ちのような騒ぎの昇降口で、やっぱり、無理なんじゃないか、と臆病な心が呟く。

 この大勢の中から私を選んで、特別な人として紹介するなんて。

 そんなことをしたら、きっとパニックになる。

 先輩の立場だって……。


 ふと、人混みの中心にいた奏多さんが、ふわりと微笑んだまま、片手を挙げて周囲を制した。

 その動作一つで、波が引くように喧騒が静まる。

 

「みんな、ありがとう。……でも、ごめんね」

 

 彼の声は穏やかだったけれど、そこには凛とした拒絶の意志が含まれていた。

 

「僕はもう、ボタンも、この時間も、あげることはできないんだ」

「え……? どうしてですか、結城先輩?」

 

 女子生徒の一人が悲鳴のような声を上げる。

 奏多さんは困ったように、でも嬉しそうに眉を下げて、視線を一点に定めた。

 その視線の先にいるのは――私だ。

 

「待たせている人が、いるから」

 

 彼はそう言うと、人の波をかき分けるようにして、真っ直ぐに私の方へと歩き出した。

 ざわめきが広がる。

 モーゼが海を割るように道が開け、その道を彼が一歩一歩、近づいてくる。

 心臓が破裂しそうだった。

 逃げ出したいような、泣き出したいような。

 でも、彼の瞳が私を捕らえて離さないから、私は金縛りにあったように動けなかった。


 やがて、私の目の前で彼の足が止まった。

 周囲の視線が、痛いくらいに私たちに突き刺さる。

 

「あの子、誰?」

「一年生の……合唱部の?」


 そんな囁き声も、今の私には遠い世界のノイズにしか聞こえなかった。

 目の前には、奏多さんしかいない。

 

「……優愛」

 

 彼が名前を呼んだ。

 「さん」付けでも「ちゃん」付けでもない、呼び捨て。

 それだけで、周囲の空気が凍りつくのがわかった。

 奏多さんは私の驚く顔を見て、満足そうに微笑むと、自分の首元に手をかけた。

 緩めていたネクタイの結び目を解き、シュルリと引き抜く。

 深緑色の、学年カラーのネクタイ。

 三年間、彼が「結城先輩」として身につけてきた、誇り高き象徴。

 それを、彼は迷いなく手に持ったまま――。


 とん、と片膝をついた。

 まるで、中世の騎士が姫君に忠誠を誓うように。

 あるいは、王子様がプロポーズをするように。

 昇降口前が、しんと静まり返った。

 誰もが息を呑み、この光景を見守っている。

 私は言葉を失い、ただ見下ろすことしかできなかった。

 逆光の中で、奏多さんが私を見上げている。

 その瞳は、真剣そのものだった。

 

「手、貸して」

 

 短く命じられ、私は震える左手を差し出した。

 彼はその手首を優しく取ると、持っていたネクタイを巻きつけていく。

 緑色の絹布が、私の手首にくるりと絡まり、きゅっと結ばれた。

 まるで、プレゼントのリボンのようなそれは、逃げられない手錠のようだ。

 彼は結び目を愛おしそうに撫でると、そのまま私の左手薬指へと、そっと唇を落とす。

 熱い感触。

 世界が、真っ白になった。

 悲鳴のような歓声が遠くで上がる中、奏多さんの声だけが、私の鼓膜を震わせた。


「優愛、僕は君が好きだよ」


 隠すことのない、直球の愛の言葉。

 誰もが聞いている前での、堂々たる宣言。

 

「だから、僕のすべては君だけに捧げる。……僕の卒業証書もこのネクタイも、これからの未来も。全部、君のものだ」

 

 彼は顔を上げ、濡れたような瞳で私を見つめた。

 

「もらってくれるかな?」

 

 春の光が降り注ぐ中、一瞬、世界から音が消えたかのような錯覚に陥った。

 手首に結ばれたネクタイの重みと指先に残る唇の熱。

 あんなに周囲の目を気にしていた私だったけれど、今はもう、何も怖くなかった。

 見上げれば、そこには「完璧な王子様」の仮面を脱ぎ捨て、必死に想いを伝えようと瞳を潤ませている、私だけの「奏多さん」がいたから。

 こんなに愛されて、応えないわけにはいかない。

 私は涙が溢れるのを止めることができず、大きく頷いた。

 

「……はいっ……! はい、奏多さん……!」

 

 声が震える。

 

「私も……あなたのことが、大好きです……!」

 

 私が答えると、奏多さんはぱっと顔を輝かせ、そのまま立ち上がって私を力いっぱい抱き締めた。

 衆人環視の中での抱擁。

 彼の腕の強さ、心臓の音、匂い。その全てが今、私のものになった。

 

「……っ、聞こえた⁉ 今、結城先輩が『優愛』って!」

「うそ、あの一年生、合唱部のあの子だったの⁉」

「キャーッ! もう映画みたい!」

 

 周囲の騒ぎは最高潮に達し、拍手と歓声、そして悲鳴が入り混じるカオスな状態になった。

 けれど、奏多さんは私の耳元で、くすりと楽しげに笑う。

 

「……やりすぎちゃったかな。でも、これでようやく、みんなに自慢できるよ」

 

 彼は体を離すと、私の手首に結んだネクタイの端を、まるで宝石でも扱うように優しく整えた。

 

「これは、僕が君に縛られているっていう『印』。大学に行っても、君がいない時間はこれを見て、僕を待っていてほしいんだ」

 

 なんてキザで、独占欲の強いセリフなんだろう。

 でも、それが嬉しくて堪らない。

 

「……卑怯ですよ、奏多さん。こんなの、もう離れられるわけないじゃないですか」

 

 私が涙目で笑うと、彼は満足そうに、私の頭をぽん、と撫でた。

 その撫で方はもう「後輩」に対する遠慮がちなものではなく、最愛の「恋人」に対する甘い愛撫だった。


 その後、私たちは興奮冷めやらぬ人混みを抜け出し、校門のそばにある大きな桜の木の下へ移動した。

 喧騒は遠のき、ここには穏やかな春の風だけが吹いている。

 見上げれば、満開の桜が空を覆い尽くしていた。

 薄紅色の花びらが、雪のように舞い落ちてくる。

 その一枚が、奏多さんの色素の薄い髪にふわりと舞い降りた。

 私は自然に手を伸ばし、それを取ってあげる。

 

「……ついてますよ」

「ありがとう」

 

 奏多さんは私の手を取り、そのまま自分の頬に寄せた。

 手首に巻かれたネクタイが、風に揺れる。

 

「優愛。これからは、毎日『かなたさん』って呼んでね。学校でも、どこでも」

 

 彼は甘えるように目を細めた。

 

「……善処します。でも、まだちょっとだけ、照れちゃいそうです」

「ふふ、そんなところも、全部愛おしいよ」

 

 ゆっくりと進んできた私たちの恋。

 憧れから始まり、嫉妬に苦しみ、擦れ違い、そして冬を越えて。

 後輩と先輩、二年という距離、学校という制約。

 そのすべてを乗り越えて、今、私たちの前には新しい季節が広がっている。

 もう、隠す必要はない。

 誰に遠慮することもなく、彼の手を握り、彼の名前を呼べるのだ。

 

「卒業、おめでとうございます。……奏多さん」

 

 私が改めて告げると、彼は今日一番のとびきり優しい笑顔を見せた。

 

「ありがとう、優愛。……愛してるよ」

 

 奏多さんが顔を寄せてくる。

 彼の瞳に映る自分を見つめながら、そっと背伸びをする。

 触れ合う唇は、桜の味がした気がした。

 二人の影が、桜の絨毯の上で重なり合う。

 それは、ゆっくりと時間をかけて紡いできた、最高に甘くて、もう二度と切なくない恋の完成した瞬間だった。

 

 音楽室から始まった私たちの恋の歌は、ここからまた、新しい楽章へと続いていく。

 ずっと、ずっと先まで。

 この桜が何度咲いても、きっと私たちは手を繋いでいる。

 そんな確信と共に、私は彼の手を強く握り返した。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ