印
まるでアイドルの出待ちのような騒ぎの昇降口で、やっぱり、無理なんじゃないか、と臆病な心が呟く。
この大勢の中から私を選んで、特別な人として紹介するなんて。
そんなことをしたら、きっとパニックになる。
先輩の立場だって……。
ふと、人混みの中心にいた奏多さんが、ふわりと微笑んだまま、片手を挙げて周囲を制した。
その動作一つで、波が引くように喧騒が静まる。
「みんな、ありがとう。……でも、ごめんね」
彼の声は穏やかだったけれど、そこには凛とした拒絶の意志が含まれていた。
「僕はもう、ボタンも、この時間も、あげることはできないんだ」
「え……? どうしてですか、結城先輩?」
女子生徒の一人が悲鳴のような声を上げる。
奏多さんは困ったように、でも嬉しそうに眉を下げて、視線を一点に定めた。
その視線の先にいるのは――私だ。
「待たせている人が、いるから」
彼はそう言うと、人の波をかき分けるようにして、真っ直ぐに私の方へと歩き出した。
ざわめきが広がる。
モーゼが海を割るように道が開け、その道を彼が一歩一歩、近づいてくる。
心臓が破裂しそうだった。
逃げ出したいような、泣き出したいような。
でも、彼の瞳が私を捕らえて離さないから、私は金縛りにあったように動けなかった。
やがて、私の目の前で彼の足が止まった。
周囲の視線が、痛いくらいに私たちに突き刺さる。
「あの子、誰?」
「一年生の……合唱部の?」
そんな囁き声も、今の私には遠い世界のノイズにしか聞こえなかった。
目の前には、奏多さんしかいない。
「……優愛」
彼が名前を呼んだ。
「さん」付けでも「ちゃん」付けでもない、呼び捨て。
それだけで、周囲の空気が凍りつくのがわかった。
奏多さんは私の驚く顔を見て、満足そうに微笑むと、自分の首元に手をかけた。
緩めていたネクタイの結び目を解き、シュルリと引き抜く。
深緑色の、学年カラーのネクタイ。
三年間、彼が「結城先輩」として身につけてきた、誇り高き象徴。
それを、彼は迷いなく手に持ったまま――。
とん、と片膝をついた。
まるで、中世の騎士が姫君に忠誠を誓うように。
あるいは、王子様がプロポーズをするように。
昇降口前が、しんと静まり返った。
誰もが息を呑み、この光景を見守っている。
私は言葉を失い、ただ見下ろすことしかできなかった。
逆光の中で、奏多さんが私を見上げている。
その瞳は、真剣そのものだった。
「手、貸して」
短く命じられ、私は震える左手を差し出した。
彼はその手首を優しく取ると、持っていたネクタイを巻きつけていく。
緑色の絹布が、私の手首にくるりと絡まり、きゅっと結ばれた。
まるで、プレゼントのリボンのようなそれは、逃げられない手錠のようだ。
彼は結び目を愛おしそうに撫でると、そのまま私の左手薬指へと、そっと唇を落とす。
熱い感触。
世界が、真っ白になった。
悲鳴のような歓声が遠くで上がる中、奏多さんの声だけが、私の鼓膜を震わせた。
「優愛、僕は君が好きだよ」
隠すことのない、直球の愛の言葉。
誰もが聞いている前での、堂々たる宣言。
「だから、僕のすべては君だけに捧げる。……僕の卒業証書もこのネクタイも、これからの未来も。全部、君のものだ」
彼は顔を上げ、濡れたような瞳で私を見つめた。
「もらってくれるかな?」
春の光が降り注ぐ中、一瞬、世界から音が消えたかのような錯覚に陥った。
手首に結ばれたネクタイの重みと指先に残る唇の熱。
あんなに周囲の目を気にしていた私だったけれど、今はもう、何も怖くなかった。
見上げれば、そこには「完璧な王子様」の仮面を脱ぎ捨て、必死に想いを伝えようと瞳を潤ませている、私だけの「奏多さん」がいたから。
こんなに愛されて、応えないわけにはいかない。
私は涙が溢れるのを止めることができず、大きく頷いた。
「……はいっ……! はい、奏多さん……!」
声が震える。
「私も……あなたのことが、大好きです……!」
私が答えると、奏多さんはぱっと顔を輝かせ、そのまま立ち上がって私を力いっぱい抱き締めた。
衆人環視の中での抱擁。
彼の腕の強さ、心臓の音、匂い。その全てが今、私のものになった。
「……っ、聞こえた⁉ 今、結城先輩が『優愛』って!」
「うそ、あの一年生、合唱部のあの子だったの⁉」
「キャーッ! もう映画みたい!」
周囲の騒ぎは最高潮に達し、拍手と歓声、そして悲鳴が入り混じるカオスな状態になった。
けれど、奏多さんは私の耳元で、くすりと楽しげに笑う。
「……やりすぎちゃったかな。でも、これでようやく、みんなに自慢できるよ」
彼は体を離すと、私の手首に結んだネクタイの端を、まるで宝石でも扱うように優しく整えた。
「これは、僕が君に縛られているっていう『印』。大学に行っても、君がいない時間はこれを見て、僕を待っていてほしいんだ」
なんてキザで、独占欲の強いセリフなんだろう。
でも、それが嬉しくて堪らない。
「……卑怯ですよ、奏多さん。こんなの、もう離れられるわけないじゃないですか」
私が涙目で笑うと、彼は満足そうに、私の頭をぽん、と撫でた。
その撫で方はもう「後輩」に対する遠慮がちなものではなく、最愛の「恋人」に対する甘い愛撫だった。
その後、私たちは興奮冷めやらぬ人混みを抜け出し、校門のそばにある大きな桜の木の下へ移動した。
喧騒は遠のき、ここには穏やかな春の風だけが吹いている。
見上げれば、満開の桜が空を覆い尽くしていた。
薄紅色の花びらが、雪のように舞い落ちてくる。
その一枚が、奏多さんの色素の薄い髪にふわりと舞い降りた。
私は自然に手を伸ばし、それを取ってあげる。
「……ついてますよ」
「ありがとう」
奏多さんは私の手を取り、そのまま自分の頬に寄せた。
手首に巻かれたネクタイが、風に揺れる。
「優愛。これからは、毎日『かなたさん』って呼んでね。学校でも、どこでも」
彼は甘えるように目を細めた。
「……善処します。でも、まだちょっとだけ、照れちゃいそうです」
「ふふ、そんなところも、全部愛おしいよ」
ゆっくりと進んできた私たちの恋。
憧れから始まり、嫉妬に苦しみ、擦れ違い、そして冬を越えて。
後輩と先輩、二年という距離、学校という制約。
そのすべてを乗り越えて、今、私たちの前には新しい季節が広がっている。
もう、隠す必要はない。
誰に遠慮することもなく、彼の手を握り、彼の名前を呼べるのだ。
「卒業、おめでとうございます。……奏多さん」
私が改めて告げると、彼は今日一番のとびきり優しい笑顔を見せた。
「ありがとう、優愛。……愛してるよ」
奏多さんが顔を寄せてくる。
彼の瞳に映る自分を見つめながら、そっと背伸びをする。
触れ合う唇は、桜の味がした気がした。
二人の影が、桜の絨毯の上で重なり合う。
それは、ゆっくりと時間をかけて紡いできた、最高に甘くて、もう二度と切なくない恋の完成した瞬間だった。
音楽室から始まった私たちの恋の歌は、ここからまた、新しい楽章へと続いていく。
ずっと、ずっと先まで。
この桜が何度咲いても、きっと私たちは手を繋いでいる。
そんな確信と共に、私は彼の手を強く握り返した。




