春へ
暦の上ではもう春だというのに、窓の外はまだ冬の名残を留めていた。
三月初旬。
乾いた風が窓ガラスをガタガタと揺らし、灰色の雲が足早に流れていく。
私は自室のベッドに座り込み、膝の上でスマートフォンを握り締めていた。
手汗で滲んだ画面を、もう何度拭っただろうか。
今日は、結城先輩の第一志望である国立大学の合格発表日だ。
時計の針が、チクタクと無機質な音を刻む。
十分過ぎた。十五分過ぎた。
まだ、連絡はない。
悪い想像ばかりが頭を過る。
もし、ダメだったら?
あんなに頑張っていた先輩が、もし実力を出し切れなかったとしたら。
私はなんて声をかければいいのだろう。
お疲れ様でした? 頑張りましたね?
どんな言葉も、あの誇り高い先輩の前では空虚な慰めにしかならない気がして、胃のあたりがキリキリと痛んだ。
(神様、お願いします……)
私は目を閉じ、祈るようにスマホを額に押し当てた。
あのコンビニの夜、白い息を吐きながら「合格したら一番に会いに行く」と笑った先輩の顔が浮かぶ。
あの笑顔を、曇らせたくない。
誰よりも努力していた彼に、最高の春が訪れてほしい。
それは、恋人としての願いである以上に、一人の人間としての祈りだった。
ブブッ――!
不意に、掌の中でスマホが震えた。
心臓が口から飛び出しそうになる。
画面には『奏多さん』の文字。
私は震える指で通話ボタンをスライドさせ、耳に当てた。
「……はいっ、もしもし⁉」
声が裏返る。
電話の向こうで、一瞬の静寂があった。
その一秒が、永遠のように長く感じられた。
そして。
『……優愛』
聞こえてきたのは、春の陽だまりのように柔らかく、そして弾むような声だった。
『受かったよ。……合格した』
その瞬間、私の目からぽろりと涙が零れ落ちた。
張り詰めていた糸が切れたように、安堵の感情が奔流となって押し寄せる。
「……っ、う、うそ……本当、ですか……?」
『嘘じゃないよ。今、番号確認した。……本当によかった』
先輩の声も、少しだけ震えているように聞こえた。
いつも完璧で余裕のある彼が、初めて見せる「安堵」の震え。
その人間らしさが、堪らなく愛おしい。
「おめでとう……ございますっ! 本当に、おめでとうございます……! うぅ……」
言葉にならず、私は子供のように泣きじゃくってしまった。
電話越しに、先輩の困ったような、でも優しさに満ちた笑い声が聞こえる。
『泣かないで。最高の笑顔を見せてくれるって、約束したでしょ?』
「だ、だってぇ……心配で、怖くて……っ」
『ふふ、僕よりも優愛の方が緊張してたみたいだね。……ありがとう、待っていてくれて』
先輩の声が、鼓膜を優しく撫でる。
努力が報われた喜びと、私に真っ先に伝えられたという事実が、電波越しに熱を持って伝わってくるようだった。
『優愛。今から、会いに行ってもいいかな?』
「え……?」
『約束しただろ? 合格したら、一番に会いに行くって。……今すぐ君の顔が見たいんだ』
その言葉に、私は慌てて涙を拭った。
そうだ。約束していたんだ。
一日、彼を独占させてあげるって。
「……はい、はい! もちろんです!」
『じゃあ、一時間後にいつもの駅前で。……とびきり可愛くしてきてね』
最後の一言は、ちょっぴり悪戯っぽく、甘い響きを含んでいた。
「もう……! ハードル上げないでくださいっ」
『はは、期待してるよ』
通話が切れると、私はベッドから飛び起きた。
泣いている場合じゃない。
これから、大好きな「彼氏」との、正真正銘の凱旋デートなのだから。
クローゼットを開け放ち、私は服を選び始めた。
冬物のコートはもう重たい気がする。かといって、春物はまだ肌寒い。
悩んだ末に手に取ったのは、今日のためにと密かに買っておいた、ダスティブルーのワンピースだった。
淡くくすんだ青色は、冬の空のようでもあり、春の訪れを予感させる色でもあった。
ウエストが少し締まっていて、スカートがふわりと広がるシルエット。
少し背伸びをしたデザインだけれど、今の私なら似合う気がした。
着替えて、鏡の前に立つ。
メイクもいつもより丁寧に。
泣き腫らした目を蒸しタオルで冷やし、ピンクベージュのアイシャドウで明るさを足す。
リップは、あの日の喫茶店でつけたものと同じ、少し大人びたローズ色を。
鏡の中の私は、いつもの「後輩」の顔をしていなかった。
恋をして、心配して、そして喜びを噛み締めている、一人の「女の子」の顔。
「……よし」
私は小さく気合を入れると、春を待つ街へと駆け出した。
駅前の時計台の下。
そこには、あの日と同じように、でもあの日よりもずっと晴れやかな表情の奏多さんが立っていた。
キャメルのロングコートに、白いタートルネック。
人混みの中でも一際目を引くその立ち姿は、やっぱり「王子様」そのものだ。
でも、今日の彼はどこか違う。
肩の荷が下りたような、憑き物が落ちたような、清々しい空気を纏っている。
「優愛!」
私を見つけるなり、彼は周りの目も気にせず、大きな歩幅で駆け寄ってきた。
そして、私の目の前で止まると、愛おしくてたまらないというように両手を広げ――。
「……おっと」
抱きしめる寸前で、ぴたりと止まった。
ここは駅前。学校の生徒や知っている人が通りかかるかもしれない場所だ。
長年染み付いた「自制心」が、彼の衝動をギリギリで押し留めたようだった。
その不器用なブレーキのかけ方がおかしくて、私は思わず吹き出してしまった。
「ふふ、奏多さん。……もういいんですよ、合格したんですから」
私が笑って自分から彼のコートの袖をちょこんと掴むと、奏多さんは「……そうだね」と観念したように笑い崩れた。
「あーあ、参ったな。優愛には全部お見通しか」
彼は私の手を取り、そのまま自分のコートのポケットへと招き入れた。
冬のあの日と同じ、温かい指定席。
でも、そこに流れる空気は、もう切ないものではなかった。
「おめでとうございます、奏多さん」
見上げて伝えると、彼は眩しそうに目を細めた。
「ありがとう。……君のおかげだよ」
ポケットの中で、指が強く絡まる。
「君が応援してくれたから、最後まで頑張れた。……本当に、ありがとう」
彼の言葉には、嘘偽りのない感謝が込められていた。
私たちはそのまま、あてもなく歩き出す。
行き先なんてどこでもよかった。
ただ、隣に彼がいる。
彼がもう、受験という重圧から解放されて、私の隣で笑っている。
それだけで、世界が黄金色に輝いて見えた。
私たちは、あの日初めてデートした喫茶店へと向かった。
『Cafe&Records』。
カウベルの音と共に店内に入ると、マスターが「おや、久しぶりだね」と目を細めて迎えてくれる。
いつもの奥のボックス席。
隣同士に座ると、奏多さんは深くソファに沈み込み、長い息を吐いた。
「はぁー……。終わったぁ……」
その脱力しきった姿は、学校では絶対に見せない顔だ。
「お疲れ様でした。本当にお疲れ様です」
私が労うと、彼は私の肩に頭を預けてきた。
甘えるような重み。
「……眠い」
「寝てないんですか?」
「昨日は緊張して一睡もできなかった。……でも、今は目が冴えてる。優愛がいるからかな」
彼は私の肩に顔を埋めたまま、くすりと笑った。
コーヒーの香りと、ジャズの音色。
そして、隣にいる大好きな人の体温。
幸せすぎて、怖くなるくらいだった。
「ねえ、優愛」
しばらくして、奏多さんが顔を上げ、真剣な眼差しで私を見た。
「合格したら、何でもひとつ、願いを聞いてくれるって言ってたよね?」
そんな約束、したっけ?
いや、してなくても、彼の願いなら何でも叶えたい。
「はい。奏多さんの願いなら、なんでも」
私が迷わず答えると、彼は少しだけ真面目な顔になり、居住まいを正した。
琥珀色の瞳が、揺るぎない光を湛えて私を見つめる。
「じゃあ……卒業式の日」
彼は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「みんなの前で、僕の『特別な人』として紹介させてほしい」
「え……?」
予想外の言葉に、私は目を丸くした。
特別な人として、紹介する。
それはつまり、公然と「彼女」だと宣言するということだ。
「でも……いいんですか? 先輩は、みんなの憧れで……卒業式なんて、きっとたくさんの女の子たちが……」
「だからこそ、だよ」
奏多さんは私の言葉を遮り、私の両手を包み込んだ。
「もう、誰にも隠したくないんだ。……学校の『王子様』としての結城奏多は、卒業式で終わりにする。これからは、ただの一人の男として、君の隣を堂々と歩きたい」
その瞳には、強い決意が宿っていた。
今まで周囲の期待に応え、優等生を演じ続けてきた彼が選んだ、最初で最後の「わがまま」。
それが、私という存在を公にすることだなんて。
「僕が一番誇りに思っているのは、大学の合格じゃなくて、君が僕の隣にいてくれることだから」
熱い言葉が、胸の奥深くまで染み込んでいく。
涙が出そうになるのをこらえて、私は何度も頷いた。
「……いいんですか? 私、緊張して倒れちゃうかもしれません」
「大丈夫。僕がずっと、手を繋いでてあげる」
奏多さんは私の手の甲にキスを落とした。
「……いいよね、優愛?」
拒否できるはずがなかった。
それは、私にとっても一番の願いだったから。
日陰の恋が終わる。
春の陽射しの下で、堂々と彼の手を握れる日が来る。
「はい……! よろしくお願いします」
私が答えると、奏多さんは満足そうに微笑み、再び私の肩に頭を乗せた。
「あー、楽しみだな。みんな、どんな顔するかな」
「先輩、性格悪いです」
「ふふ、君限定でね」
春を予感させる柔らかな風が、二人の間を吹き抜けていくようだった。
切なくて、もどかしくて、ゆっくりと大切に育んできたこの恋が、ついに誰に隠すこともない「二人の物語」として花開こうとしていた。
その日から、卒業式までの数日間は、まるで夢の中の出来事のように過ぎ去っていった。
学校では、三年生の卒業ムード一色だ。
在校生による送辞の練習、体育館の飾り付け、そして音楽室からのピアノの運び出し。
私はその喧騒の中にいながら、心ここにあらずといった状態だった。
奏多さんは合格後も、何度か学校に顔を出していたけれど、私たちはあえて接触を避けていた。
最後の最後、卒業式という大舞台のために、「楽しみ」を取っておくように。
廊下で擦れ違えば、目配せだけで合図を送る。
『あと少しだね』
『待っててね』
そんな無言の会話が、私たちの絆をより強くしていた。
そして迎えた三月某日、卒業式。
空は雲ひとつない快晴だった。
桜の蕾が、今にも弾けそうに膨らんでいる。
私は、鏡の前で制服の襟を整えた。
いつもと同じ制服。でも、今日でこの制服を着た彼を見るのは最後になる。
緊張と、期待と、少しの寂しさで胸が高鳴る。
それら全てを抱えて、私は学校へと向かった。
体育館は、厳粛な空気に包まれていた。
パイプ椅子の冷たさ。
紅白幕の鮮やかさ。
そして、壇上に並ぶ三年生たちの背中。
私は在校生席から、必死に奏多さんの姿を探した。
いた。
最前列の、一番端。
背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を見据えているその横顔は、やっぱり誰よりも美しかった。
名前を呼ばれ、卒業証書を受け取る姿。
答辞を読む代表生徒を見守る眼差し。
その一つ一つを目に焼きつけながら、私はこっそりと自分の左手首を握り締めた。
あと数時間後。
この式が終わったら、約束の時間がやってくる。
「特別な人」として、彼の隣に立つ瞬間が。
式が終わり、退場曲が流れる。
拍手の中、三年生たちが花道を歩いていく。
奏多さんが私の座っている列の近くを通ったとき、ふと視線が合った。
本当に一瞬だけ、彼が片目を閉じてウィンクをした気がする。
周りの女子たちが「キャーッ! 今、結城先輩こっち見た⁉」と騒ぎ出す中、私だけが知っている秘密のサイン。
(待ってます、奏多さん)
私は心の中でそう呟き、彼を見送った。
教室に戻り、ホームルームが終わると、校内は一気に解放感に包まれた。
花束を抱えた卒業生、写真を撮り合うグループ、後輩に囲まれる先輩たち。
その喧騒の中、私は約束の場所である昇降口前へと向かった。
足が震えて、心臓が破裂しそうだ。
でも、もう迷いはない。
階段を降りると、そこには既に人だかりができていた。
その中心にいるのは、もちろん奏多先輩だ。
女子生徒たちに囲まれ、ボタンをねだられたり、手紙を渡されたりしている。
相変わらずの人気ぶり。
いつもなら、その光景に嫉妬して、遠巻きに見ているだけだっただろう。
でも、今日は違う。
私は深呼吸をして、その輪の外に立った。
すると、まるで私の気配を感じ取ったかのように、彼が顔を上げた。
そして、大勢の女子たちの隙間から私を見つけると、あの喫茶店で見せたような、とろけるような笑顔を向けたのだ。
春の光が降り注ぐ昇降口。
物語のクライマックスが、今、始まろうとしていた。




