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息抜き

 期末考査が終わり、三年生が自由登校期間に入ると、学校はまるで火が消えたように静まり返ってしまった。

 特に、私たちの校舎から三年生の気配が消えたことは、私の日常から「色」を奪い去るのに十分だった。

 昼休みの図書室にも、放課後の音楽室にも、奏多さんはもういない。

 ただ、黒いカバーをかけられたグランドピアノが、主の不在を嘆くように鎮座しているだけだ。

 私は部活動中、何度もそのピアノを見つめては、溜息を飲み込んだ。

 伴奏者がいない練習は、どこか味気ない。

 CD音源に合わせて歌っても、そこには呼吸がない。私の揺れる感情を汲み取ってくれる、あの魔法のような旋律がない。

 

「……はぁ」

 

 練習の合間に漏れた吐息は、白く濁って消えていった。

 寂しい。

 けれど、応援すると決めた。

 邪魔をしてはいけないとわかっていても、会いたいという欲求は寒さと共に募るばかりだった。


 

 

 部活が長引き、日の入りの早さも相まって外はもう完全に夜の闇に包まれている。

 吐く息が白く凍るほどの寒さの中、私はマフラーに顔を埋め、とぼとぼと通学路を歩いていた。

 街灯が頼りなくアスファルトを照らし、鞄の重みが、心細さを助長させるようだった。

 

 (奏多さん、今頃勉強してるのかな……)

 

 スマホを取り出してみるけれど、通知は来ていない。

 邪魔しては悪いから、私からの連絡も控えている。

 画面の向こうにいるはずの彼が、何万キロも遠くにいるように感じられた。



 

 最寄りのコンビニの前を通り過ぎようとしたとき、聞き間違えるはずのない柔らかい声が夜気の中に響いた。

 

「優愛ちゃん」

 

 心臓が跳ね上がる。

 幻聴かと思って恐る恐る顔を上げると、コンビニの眩しい光を背負って、一人の人影が立っていた。

 厚手のダッフルコートに、チェックのマフラー。

 少しだけ鼻の頭を赤くして、白い息を吐きながら微笑んでいるのは――紛れもなく、奏多さんだった。

 

「え、なんで……だって……え?」

 

 思考が追いつかず、私は金縛りにあったように立ち尽くしてしまった。

 だって、今は追い込みの大切な時期だ。

 こんな寒い夜に、外にいるはずがない。

 混乱のまま瞬きを繰り返す私を見て、奏多さんがふはっと笑い声を漏らし、駆け寄ってきた。

 

「そろそろ部活が終わる時間だと思って、待ってたんだ」

「ま、待ってたって……でも、奏多さん勉強とか……」

 

 私が慌てて言うと、彼は私の目の前で立ち止まり、少しだけ呆れたように、でも優しく私を見下ろした。

 

「あのね、優愛。君は僕が睡眠時間以外のすべてを勉強に費やさないと合格しないような、要領の悪い男だと思ってるの?」

「いえ、そんな……そんなことないですけど!」

「ふふ、冗談だよ。……でも、これは僕の必要な『息抜き』だから」

 

 奏多さんはそう言って、冷え切った私の頬を、自分のマフラーの端でそっと包んでくれた。

 

「部活の手伝いはできないけど、数時間優愛と過ごすくらい、許されてもいいでしょ? ……じゃないと、僕の方が枯れちゃいそうだったんだ」

 

 最後の一言は、囁くように小さく、でも熱っぽく響いた。

 コンビニの無機質な白い光を背負って立つ奏多さんの姿が、まるで雪の結晶みたいにキラキラして見えた。

 会えない時間が、彼を美化しているわけじゃない。

 本当に、彼は発光しているみたいに綺麗だった。

 少し伸びた前髪の隙間から覗く瞳が、愛おしそうに私を映している。

 

「……息抜き、だなんて。そんなこと言って、もしかぜでもひいたらどうするんですか」

 

 口では心配そうなことを言いつつも、私の足は勝手に奏多さんの元へ一歩踏み出していた。

 彼が纏う冬の冷たい空気や、少しだけ眠そうに細められた瞳、そして微かに香るいつもの清潔な匂いが、堪らなく愛おしくて泣き出しそうになる。

 

「優愛があたためてくれれば、風邪はひかないよ」

 

 奏多さんは自信たっぷりに言った後、ふと表情を柔らかく崩した。

 

「……ねえ、そんなところで立ち話もなんだから。少し歩こうか」

 

 奏多さんはそう言って、自分の着ているダッフルコートの右ポケットを、ぱかっと広げて見せた。

 「おいで」という無言の合図。

 心臓が、早鐘を打つ。

 彼の瞳に見つめられると、断るなんて選択肢は浮かばなかった。

 私は顔を赤くしながらも、誘われるままにその温かな場所へ自分の手を滑り込ませる。

 

「……っ、あったかい」

 

 ポケットの中は、驚くほど温かかった。

 そこにはカイロが入っているわけではなく、ただ彼の体温だけが満ちていた。

 

「優愛ちゃんの手は、冷たいね」

 奏多さんの大きな手が、ポケットの中で私の手を包み込む。

 指先を絡め掌を合わせると、皮膚と皮膚が密着し、逃げ場のない熱が指先から腕へ、そして全身へと駆け巡る。

 

「……奏多さんの手が、温かいから」

 

 私が答えると、彼は嬉しそうに私の手をきゅっと握り返した。

 誰にも邪魔されない、コンビニから自宅までの僅かな道。

 いつもなら寒くて寂しいだけの帰路が、今の私たちにとっては世界で一番贅沢なデートコースに変わった。


「学校、どう? 僕がいなくて、合唱部の練習は捗ってる?」

 

 彼が何気なく尋ねてくる。

 私は少し拗ねたように唇を尖らせた。

 

「捗ってません……全然。伴奏の音が違うだけで、なんだか自分の声まで迷子になっちゃったみたいで」

 

 CDの音源は正確だけど、冷たい。

 先生の弾くピアノは上手だけど、私の呼吸を知らない。

 

「ふふ、それは困ったな。僕がいない間に、他の伴奏者の先輩に惚れ直されちゃったらどうしようかと思ってたんだけど」

 

 奏多さんは冗談めかして言うが、繋いだ手に少しだけ力がこもったのを私は見逃さなかった。

 不安なんだ。

 こんなに完璧に見える彼でも、離れている時間は不安になるんだ。

 それが分かった瞬間、愛おしさが爆発しそうになる。

 

「そんなわけないです。私の耳には、奏多さんの音しか残ってないんですから」

 

 私が少しムキになって答えると、奏多さんは不意に足を止めた。

 街灯の下、ちらほらと粉雪が舞い始めていた。

 白く光る息が、二人の間に溶けていく。

 

「……優愛」

 

 名前を呼ばれて見上げると、そこには受験生としての険しさを脱ぎ捨てた、ただの「恋をしている男の子」の顔があった。

 切なくて、真剣で、どうしようもなく私を求めている瞳。

 

「合格したら、一番に会いに行く」

 

 彼の言葉は、誓いのように響いた。

 

「……そのときは、今日みたいに数時間じゃなくて、一日中、君の隣を独占させてね」

 

 彼はポケットの中で繋いだ手を、そのままぎゅっと自分の腰の方へ引き寄せた。

 その反動で、私たちの体が分厚いコート越しにぶつかる。

 伝わってくる、彼の心臓の確かなリズム。

 とく、とく、と速く脈打つそれは、彼が生きている証であり私への想いの証だ。

 一日中、独占する。

 その言葉の甘い響きに、私はくらくらと眩暈を覚えた。

 「先輩」という立場も、「受験生」という足枷も外れたら、彼は一体どれほど私を愛してくれるのだろう。

 想像するだけで、寒さなんて吹き飛んでしまう。

 

「……はい。約束です」

 

 私は彼の瞳を見つめ返した。

 

「私も、誰よりも可愛くなって、その日を待っています」

 

 雪が、私たちの肩に降り積もる。

 でも、二人の間にある熱だけは、決して冷えることはなかった。

 ほんの少しの逢瀬。

 でも、それが私たちに春を待つための十分な燃料を与えてくれた。

 家の近くまで送ってくれた彼は、名残惜しそうにポケットから手を出し、最後に一度だけ私の頭を撫でた。

 

「じゃあ、行ってくる。……待ってて」

 

 それは「さようなら」ではなく、戦場へ向かう騎士のような、力強い言葉だった。

 

「はい。いってらっしゃい、奏多さん」

 

 彼の背中が見えなくなるまで、私はずっと手を振り続けた。

 雪の中に消えていくその背中は、もう「遠い憧れ」ではない。

 必ず帰ってくる場所を共有している、私の大切な人の背中だった。



 

 そうして、季節は巡る。

 世界が白銀に覆われ、やがて雪解けの水音が聞こえ始めるまで。

 私たちはそれぞれの場所で、それぞれの戦いを続けた。

 彼はペンを握り、私は楽譜を握りしめて。

 会えない時間が、愛を育てるなんて陳腐な言葉だと思っていたけれど。

 今の私にはわかる。

 会えない夜に積み重ねた「想い」は、きっと再会の日に、何倍にもなって花開くのだと。



 

 そして、運命の春がやってくる。

 

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