秘密の共有
日曜日のデートから、私の世界は彩度を増していた。
通学路のアスファルトに落ちる影さえも愛おしく、音楽室へ向かう階段の一段一段が、彼に近づくためのカウントダウンのように感じられる。
「かなたさん」
一人きりの部屋で、枕に顔を埋めてその名前を呟くだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
学校では「結城先輩」。
二人きりの時は「奏多さん」。
この使い分けは、私たちだけの秘密のゲームのようで、背徳的な甘さを孕んでいた。
私は有頂天になっていたのだと思う。
幸せという名の麻酔が、私の危機管理能力を麻痺させていた。
その代償を支払う瞬間は、あまりにも唐突に訪れた。
それは、秋の気配が色濃くなり始めたある日の放課後だった。
文化祭に向けた合唱部の練習は佳境に入り、音楽室にはピリピリとした緊張感と熱気が充満している。
私はソプラノパートの練習中、どうしても音が取りにくい小節があり、伴奏をしてくれている先輩に確認しようとピアノに近づいた。
周りには他の部員たちもいる。
いつもなら、一呼吸置いて「結城先輩」と呼ぶためのスイッチを入れるはずだった。
けれど、そのときの私は、直前まで脳内で昨夜の彼とのやり取り――『明日の部活、頑張ろうね』という甘いメッセージ――を反芻していたせいで、そのスイッチが完全にオフになっていたのだ。
「あの、奏多さん。ここなんですけど……」
自然に、あまりにも滑らかに。
日常会話の延長のように、その名前は私の口から転がり落ちた。
放課後の音楽室に、一瞬だけ鋭い「静寂」が走った。
窓から入り込んでいた穏やかな空気までが凍りついたような感覚。
ピアノの残響が消え、部員たちの話し声がピタリと止まる。
「奏多さん」という、今の状況には存在してはいけないはずの甘い響きが、高い天井に反響して、ゆっくりと、しかし確実に全員の耳に届いて消えていった。
「……っ」
自分の言葉が鼓膜に届いた瞬間、私は全身の血の気が引くのを感じた。
心臓がどくんと嫌な音を立てて跳ね上がり、冷や汗が一気に吹き出す。
慌てて周りを見渡すと、パート練習をしていたソプラノの先輩たちや、楽譜を整理していた友人たちが、一斉にこちらを見て固まっていた。
その目は点になり、やがて困惑と好奇心の色を帯びていく。
「今……平野さん、なんて言ったの……?」
「かなた、さん……?」
ひそひそというさざ波のような声が広がり始める。
やってしまった。
あんなに気をつけて、家で何度も「学校では結城先輩」と唱えていたのに。
日曜日の、あの甘い時間の残像が、あまりにも当たり前に私の中に根を張っていたせいだ。
恥ずかしさと絶望で頭が真っ白になり、視界が歪む。
どうしよう。どうしよう。
私が、壊してしまった。
先輩が大切に守ってきた「完璧な先輩」の立場と二人の秘密を……。
泣きそうになりながら俯き、消えてしまいたいと願ったとき。
「――あはは、参ったな」
聞き慣れた、でもいつもより少しだけ「演技」の混じった楽しげな声が、凍りついた空気を割った。
恐る恐る顔を上げると、奏多さんがピアノの椅子に座ったまま、困ったように首を傾けて笑っていた。
焦りなど微塵も感じさせない、余裕たっぷりの笑顔。
「さっきの休憩中、優愛ちゃんに『卒業したあとは、どう呼べばいいですか?』って聞かれたから、お遊びで練習してたんだよ。ね、優愛ちゃん?」
奏多さんは、動揺で震える私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
その琥珀色の瞳の奥には、「大丈夫だよ」という強い光と、私を導くような意志が宿っている。
助け舟だ。
先輩の鮮やかな機転。
私は必死に、その舟に飛び乗った。
「……あ、は、はい! そうなんです! 卒業しても、先輩って呼んでいいのかなって、想像してたら、つい……!」
声が裏返りそうになりながらも、私がしどろもどろに合わせると、周囲の空気は一瞬で弛緩した。
「なーんだ、そういうことか! びっくりしたー!」
「相変わらず結城先輩は、後輩にも慕われてるんだから」
「優愛ちゃん、気が早いよー! まだ卒業もしてないのに!」
ドッ、と音楽室が安堵の笑いに包まれる。
部員たちは「なんだ、いつもの仲良し先輩後輩か」と納得し、それぞれの練習に戻っていった。
心臓がまだ早鐘を打っている。
助かった。
先輩の機転がなければ、今頃どうなっていたか分からない。
「ごめんね、みんな。僕が変な話をしちゃったから。さあ、練習に戻ろうか」
奏多さんは完璧な「王子様」の笑顔でその場を収めると、再び譜面に視線を落とした。
疑いの目は晴れ、音楽室にはまた合唱の歌声が響き始める。
私は震える足を叱咤して、指示された箇所を確認しようとピアノのそばに寄った。
近づくのが怖い。でも、謝らなければ。
「……すみません、奏多……いえ、結城先輩」
蚊の鳴くような声で謝ると、奏多さんは譜面をめくるふりをして、私だけにしか見えない角度で、ふっと悪戯っぽく口角を上げた。
「……危なかったね、優愛ちゃん」
囁かれた声は、誰にも聞こえないほど低く、酷く甘い響き。
怒っていない。むしろ、このスリルを楽しんでいるような色気さえ感じる。
「でも、あんなに堂々と呼んでくれるなんて思わなかった。……正直、心臓が止まるかと思うくらい、嬉しかったよ」
そう言って、彼は鍵盤の下、死角になった場所で、私のスカートの端をほんの一瞬だけ引っ張った。
びくりとして見下ろすと、先輩の指先が名残惜しそうに離れていくところだった。
「学校」という仮面の下で、二人だけの熱が通い合った瞬間。
その子供っぽい悪戯に、私の恐怖心は一気に吹き飛び、代わりにどうしようもないほどの愛おしさが込み上げてきた。
(……やっぱり、かなたさんには敵わない)
顔が赤くなるのを隠すように、私は大きく息を吸って、さっきよりもずっと力強い声で歌い始めた。
部活が終わり、まだ心臓のバクバクがおさまらないまま、私は人気のない非常階段へ向かった。
校舎の裏手にあるこの場所は、普段は誰も使わない死角になっている。
重たい鉄の扉を開けると、ひんやりとした秋の風が吹き込んできた。
空はもう茜色から群青色へと変わりつつある。
私は手すりに寄りかかり、大きく溜息をこぼした。
「はぁ……」
日常のほとんどに組み込まれた奏多さんの存在が大きくなりすぎて、彼との密やかな関係も、そろそろ限界かもしれない。
先程は彼が上手く取り繕ってくれたけれど、いつまた失敗するかわからない。
私の不注意一つで、彼の積み上げてきたものを壊してしまうかもしれない恐怖。
だが、堂々と校内で彼の隣に立つには、奏多さんに人気がありすぎる。
ファンクラブのような女子たち、先生からの信頼、進学への期待。
その全てが、私には眩しすぎて、重たい。
「困ったなぁ……」
二回目の溜息を落としたところで、不意に右の頬に冷たい物が押し当てられた。
「ひゃっ⁉」
思わず悲鳴をあげて飛び退くと、そこには悪戯っぽく笑う奏多さんの姿があった。手にはペットボトルのミルクティーが握られている。
「ふふ、そんなに大きな溜息をついたら、せっかくの幸せが逃げちゃうよ?」
奏多さんはそう言って、冷たいペットボトルを私の手に握らせると、私の隣にすとんと腰を下ろした。
コンクリートの階段に、ズボンが汚れるのも気にしない。
「……ありがとうございます、奏多さん」
受け取ったミルクティーはひんやりと冷たくて、私の火照った頬を冷やすのにちょうどよかった。
キャップを開けて一口飲むと、甘い味が口の中に広がり、強張っていた神経が少しずつ解れていく。
でも、さっきの失態を思い出すと、また胸の奥がチリチリと痛んだ。
「……ごめんなさい。あんな風に、みんなの前で名前を呼んじゃうなんて。奏多さんが守ってくれている場所を、私が壊しちゃうところでした」
俯いて謝ると、隣から衣擦れの音がした。
「守ってる、か。僕はそんなに大層なことしてるつもりはないんだけどな」
奏多さんは手すりに背中を預け、遠くに見える街の明かりを見つめていた。
夕闇に沈んでいく校舎。
校内での彼は、誰もが憧れる「完璧な王子様」。でも、今の彼の瞳には、どこか寂しげな色が混じっている。
「優愛ちゃんが困ってるのは……僕に、人気があるせい?」
静かな問いかけに、私は言葉に詰まった。
自意識過剰かもしれない。でも、事実は事実だ。
「あ……。はい。奏多さんは、みんなの奏多さんだから。私が独り占めして、名前を呼んだり隣を歩いたりするには、……ちょっと、眩しすぎるんです」
正直な気持ちを吐露すると、また溜息が出そうになる。
彼が好きすぎて、日常のすべてが「奏多さん」で染まっていくのに、学校という場所ではそれを隠さなきゃいけない。
そのギャップが、私を少しずつ追い詰めていた。
奏多さんはしばらく黙っていたが、やがて私の手からペットボトルを取り上げると、それを横に置いて、私の両手を包み込むように握った。
冷えた私の指先を、彼の温かい掌が包み込む。
「……限界、なのかな。隠し通すこと」
「え……?」
「僕もね、実は限界なんだ」
彼は私の目をじっと見つめた。
「……さっきだって、本当はあの場で抱きしめて『僕の優愛になにか用?』って言いたかった」
穏やかな口調。けれど、繋がれた手には、今までにないほどの力が込められていた。
色素の薄い瞳が、夕闇の中で鋭く光る。
そこにあるのは、紛れもない独占欲だった。
「優愛ちゃん。僕、もうすぐ卒業だよ。……卒業したら、もう『先輩と後輩』の仮面なんて、いらない」
奏多さんは私の顔にゆっくりと顔を近づけると、鼻先が触れそうな距離で、酷く甘く決意に満ちた声で囁いた。
「卒業式まで、あと少し。それまでは、誰にも見つからないように、もっと深く、僕たちの『秘密』を共有しない? ……誰にも邪魔されない場所で、もっとたくさん、僕の名前を呼んでほしいんだ」
それは、ただの慰めではなく、共犯者としての誘いだった。
あと少し。
その言葉が、寂しくもあり、希望のようにも響く。
私は彼の手を握り返し、精一杯の強がりを見せた。
「私、もうちょっとだけ頑張ります。奏多さんが卒業してしまうその日まで。あなたの後輩を立派に演じてみせます!」
鼻息荒く宣言すると、奏多さんが目を丸くする。
「…………な、なので、上手にできた日は、その……私のこと、褒めてくれませんか?」
図々しいお願いだとは思いつつも、奏多さんが応援してくれていると思えば、気持ちが引き締まる。
もちろん、二人きりのときは、学校でも校外でもうんと甘やかしてほしいと思ってしまうのだけど。
私の言葉に、奏多さんは一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くした。けれど、すぐにその表情は蕩けるような、堪えきれないといった風な笑顔に変わった。
「……ふふっ、あはは! 本当に、優愛ちゃんには敵わないな」
奏多さんは声を立てて笑うと、愛おしくてたまらないというように、私の両頬を大きな手で包み込んだ。
「いいよ、約束する。立派に『後輩』を演じられた日は、僕がとびきり甘やかしてあげる。……でも、我慢できなくて今日みたいにボロを出した日も、ちゃんと僕が助けてあげるから。ね?」
そう言って、彼は至近距離で私の目を見つめた。
校舎の影に隠れて、誰の視線も届かないこの場所は、今、完全に二人のためだけの聖域になっている。
「立派な演技のご褒美は、なにがいい? 言葉がいい? それとも……もっと、別のことがいい?」
奏多さんの親指が、私の唇をそっとなぞった。
その触れ方は、学校での彼からは想像もつかないほど官能的で、私の心臓はまた激しく警鐘を鳴らし始めた。
言葉にできない期待と熱が、身体中を駆け巡る。
「……卒業までのカウントダウン、始めようか」
奏多さんは私の手を引いて立ち上がると、そのまま私を軽く抱き寄せた。
冬の匂いがするコートに顔を埋める。
「学校では、完璧な『結城先輩』と『後輩の優愛ちゃん』。でも、ここや、メッセージの中や、日曜日の街では……僕の優愛。それでいい?」
「……はい。奏多さんの、優愛でいたいです」
私が彼の胸に顔を埋めて答えると、頭上で満足そうな吐息が聞こえた。
「よし、決まりだ。……さあ、冷えないうちに帰ろう。下まで降りたら、また『先輩と後輩』に戻るよ? 準備はいい?」
奏多さんが、まるで舞台に上がる前の役者のような顔をして、私にウィンクを投げる。
その遊び心さえも愛おしくて、私は力強く頷いた。
季節が晩秋から初冬へと移り変わると、学校の空気も少しずつ変わり始めた。
三年生のフロアは静まり返り、進学組は大学受験に向けての追い込み期間に入る。
再来週の期末考査を終えれば、三年生は自由登校となり、学校に来る日は数えるほどしかなくなってしまう。
例にもれず、進学組のトップである奏多さんも、恋愛にかまけている時間はなくなってしまうだろう。
分かってはいたけれど、現実は想像以上に寂しいものだった。
当然、部活に奏多さんは来なくなった。
音楽室のピアノは黒いカバーがかけられたままで、あの美しい音色はもう響かない。
廊下で擦れ違うことも減り、たまに見かけても、彼は参考書を片手に難しい顔をして歩いていることが多かった。
ある日の放課後。
私は図書室の片隅で、彼を見つけた。
窓の外では、冬の乾燥した風が木々を揺らし、どんよりとした鉛色の雲が雪の気配を運んできている。
静まり返った図書室には、ページをめくる音と暖房の風音、時折響く誰かの咳払いだけ。
私は勇気を出して、彼の隣の席に座らせてもらった。
「邪魔しないように勉強しますから」と言うと、彼は優しく微笑んで頷いてくれたけれど、すぐに視線を手元の問題集に戻してしまった。
隣に座る奏多さんは、いつもの柔らかな雰囲気とは少し違う、真剣な「受験生」の横顔をしていた。
前髪を少し邪魔そうに払いながら、シャープペンの先を滑らかに動かしていく。
難しい数式を次々と解き明かしていくその指先は、ピアノを弾くときと同じように美しいけれど、今の彼が奏でているのは私には理解できない世界への旋律だ。
その凛とした集中力に圧倒され、私は自分の教科書に並ぶ文字が少しも頭に入ってこなかった。
(……寂しいな)
ふと、胸の奥を冷たい隙間風が通り抜けたような感覚に襲われる。
自由登校が始まれば、こうして放課後に会うことさえ難しくなる。
奏多さんは未来に向かって真っ直ぐ進んでいるのに、私だけがこの音楽室や図書室に、取り残されてしまうような気がしていた。
彼が卒業した後、私は一人ここで歌い続けなければならない。
伴奏のない歌。彼のいない学校。
想像するだけで、泣き出しそうになった。
すると、私の視線に気づいたのか、走っていた奏多さんのペンがぴたりと止まった。
「……優愛ちゃん。手が止まってるよ」
前を向いたまま、小さな声で囁かれる。
奏多さんは視線を参考書に落としたままだが、その口元には私にしかわからないほどの微かな苦笑が浮かんでいた。
「……すみません。ちょっと、考え事をしていて」
「期末考査、いい点取らないと『ご褒美』あげられないよ?」
茶化すような言葉。
でも、その声もどこか寂しげに聞こえたのは、私の気のせいだったのだろうか。
机の下、誰からも見えない死角で、奏多さんの左手がそっと下りていく。
そして、私の膝の上にある手が探り当てるようにして優しく握られた。
びくりと肩が震える。
温かい。冷え切っていた私の手に、彼の体温が流れ込んでくる。
「……合格したら。また、あの喫茶店に行こう」
ぎゅっと握られた手のひらから、彼の熱と思いが伝わってくる。
それは「今は頑張らなきゃいけない」という自制心と、「離れたくない」という本音が混ざり合った、切ない温度だった。
彼もまた、寂しいと思ってくれているのだろうか。
この温もりが、そう言っている気がした。
「大学に行っても、忙しくなっても。僕は優愛ちゃんを置いていったりしないから」
奏多さんはようやく私の方を向き、至近距離でその瞳を合わせた。
彼の瞳は受験勉強の疲れを滲ませていたけれど、私を見る光だけは変わらずに優しかった。
「だから、そんな悲しい顔しないで? 受験勉強中も、優愛ちゃんの応援があれば、僕は百人力なんだ」
そう言って、彼は握っていた私の手に、自分の指を一本ずつ絡ませた。
恋人繋ぎ。
机の上での私たちは「一緒に勉強している真面目な先輩と後輩」。
でも机の下では、指先を震わせながら互いの存在を確かめ合う、恋人同士。
この秘密の感触があれば、きっと私は冬を越えられる。
「私、誰よりも大きな声で、奏多さんのこと応援します。……大好きですから」
私が小声で精一杯の想いを伝えると、奏多さんは一瞬だけ困ったように眉を下げ、それから私の手を痛いくらいに強く握り締めた。
言葉の代わりに返ってきたその痛みが、私の心のお守りになる。
冬の足音はもうすぐそこまで来ていたけれど、私たちの繋いだ手の中には、小さな春が確かに息づいていた。




