名前
その日の練習は、散々なものだった。
先輩とのあんなやり取りのあとでは、部活に集中できるはずもない。
楽譜の音が頭に入ってこない。
ブレスのタイミングが合わない。
何度も音を外しては、パートリーダーに注意され、友人たちに苦笑されてしまった。
ピアノの前に座る先輩は、一度も私の方を見ない。
ただ淡々と、完璧な伴奏を弾き続けていて、その横顔がいつもより遠く、冷たく感じられた。
私が勝手に嫉妬して、勝手に嘘をついて、勝手に傷ついているだけ。
そんな自分が情けなくて、惨めで、涙が出そうになるのを必死で堪えた。
部活が終わり、片付けの時間。
いつもなら、少し残って先輩と話すチャンスを伺うところだけれど、今日はそんな気力もない。
一刻も早く、この場所から逃げ出したかった。
「優愛、帰ろー」
美咲が声をかけてきたが、今日は彼女と一緒に帰る気分にもなれなかった。
「ごめん、美咲。今日ちょっと用があるから」
「えー、また? 最近付き合い悪いよー」
「ごめんね、本当に」
美咲は不満そうにしながらも、他の友人と連れ立って帰っていった。
私は一人、薄暗くなった廊下を歩き出す。
窓の外はもう完全に日が落ちて、校舎は夜の静寂に包まれ始めていた。
廊下の冷たい空気が、火照った頬に触れる。
溜息をつくと、白く濁った感情が口から零れ落ちていくようだった。
私の嘘。先輩の冷たい言葉。
クラスの男の子と仲良くなりたい、なんて。
そんなの、全くの嘘なのに。
私の頭の中には、いつだって結城先輩のことしかないのに。
どうして素直になれないんだろう。
どうして、ただ「先輩が好きです」って言えないんだろう。
「年の差」という言葉が、呪いのように私の足首に絡みついている。
とぼとぼと階段を降り、昇降口へ向かおうとした私の背を、唐突に聞き慣れない声が叩いた。
「平野!」
「え、あ、はい……」
反射的に返事をして、振り返る。
そこに立っていたのは、見知らぬ男子生徒だった。
いや、見知らぬというのは正確ではない。
同じ一年生の学年章をつけているし、私の名前を知っていることから、恐らくクラスメイトなのだろう。
私は目を凝らして彼の姿を観察した。
短く刈り込んだ髪に、人懐っこそうな笑顔。制服のシャツの第一ボタンを開け、少しラフな着こなしをしている。
だが残念ながら、私の頭に彼の名前は浮かばなかった。
普段、クラスの男子とほとんど関わらない私にとって、彼らは背景の一部のようなものだったからだ。
「あ、さては俺のこと覚えてないな? 俺は、西島。同じクラスだから」
彼は私の困惑を察したのか、明るく笑って自己紹介をした。
西島くん。そういえば、席替えの時に名前を見たような気がする。
「ご、ごめん……。名前と顔、覚えるの苦手で……」
申し訳なさそうに謝ると、彼は手をひらひらと振った。
「いーよ、気にしなくて。ちなみにこう見えて俺は美術部だから、同じ文系部同士よろしくな!」
にかっと笑って気さくに話しかけてくれる西島くん。
その屈託のない笑顔に、私の緊張が僅かに解けるのを感じた。
先輩と話すときは、いつも心臓が口から飛び出しそうなほど緊張して、言葉を選ぶのにも必死になってしまう。
でも、西島くんとの会話は、とても楽だった。
これが、「同級生」の距離感なのだろうか。
さっき音楽室で先輩についた嘘――「クラスの男の子と自然に話したい」という言葉が、皮肉にも現実の形となって目の前に現れたようだった。
「あ、それでな。これ、担任から渡してくれって頼まれて。帰る前に会えてよかったよ」
西島くんは鞄からプリントを取り出し、私に差し出した。
どうやら、進路調査票の書き直しらしい。「わざわざありがとう」プリントを受け取り、私は少し余裕のできた表情で微笑んだ。
先輩の前では強張ってしまう頬が、彼の前では自然に緩む。
それは恋心がないからこその気安さだったけれど、今の私にはその「普通さ」が心地よかった。
「ううん、全然! ちょうど俺も帰るところだったし」
西島くんは照れくさそうに頭を掻きながら、屈託のない笑顔を返してくれた。
先輩以外の男の子とこんなにちゃんと話すのは、入学してから初めてかもしれない。
先輩と話すときのような心臓を締めつける緊張感ではなく、もっとフラットで、同世代らしい柔らかな空気。
ああ、これが「普通」の高校生の会話なんだ。
先輩への憧れに縛られていた私は、こんな当たり前の日常すら忘れていたような気がする。
「平野ってさ、合唱部だろ? 文化祭のステージ、楽しみにしてるからな」
「あ、ありがとう。……頑張るね、西島くん」
初めて呼んだクラスメイトの名前に、少しだけくすぐったい気持ちになりながら、私は彼に微笑みかけた。
「――優愛ちゃん?」
背後から、低く落ち着いた声が降ってくる。
聞き間違えるはずのない声。けれど、いつもよりずっと温度の低いその響きに、私の背筋がぴんと伸びた。
空気が、一瞬にして凍りついたような感覚に、西島くんとの間に流れていた柔らかな空気が、ガラスのように粉々に砕け散る。
恐る恐る振り返ると、そこには校舎の影を背負って立つ、結城先輩の姿があった。
逆光で表情は見えない。
けれど、その佇まいから放たれる冷たいオーラが、私を貫いていた。
手に持ったスポーツバッグを少しだけ強く握りしめ、先輩は私と西島くんを、射抜くような視線で見つめている。
「あ、結城先輩……。まだ、いらっしゃったんですか?」
震える声で尋ねる私に、先輩はゆっくりと、影の中から歩み出てきた。
廊下の照明に照らされたその顔は、笑っていなかった。
無表情。
能面のような美しさが、今はただただ恐ろしい。
「……忘れ物。鍵を、職員室へ返しに行こうと思って」
先輩はゆっくりと歩み寄ってきた。その歩調はいつもより少しだけ速く、私の隣に立ったとき、威圧感さえ感じるほどの「男の人」の気配が私を包み込んだ。
いつもは「優しい先輩」として一定の距離を保っている彼が、今はその境界線を踏み越えて、私のパーソナルスペースに侵入してきている。
西島くんが、その空気に押されるように一歩後ずさった。
「あ……。こんにちは、先輩」
西島くんが少し圧倒されたように挨拶をする。すると、先輩はいつもの完璧な「王子様」の笑顔を浮かべた。
口角を綺麗に上げ、目を細める、あの優しい笑顔。けれど、相変わらずその目は少しも笑っていない。
瞳の奥にあるのは、氷のような冷たさと、その下に隠された燃えるような何か。
「こんにちは。……彼が、さっき言っていた『仲良くなりたいクラスの子』?」
先輩の言葉に、私の心臓がどくん、と大きく跳ねた。わざわざそれを今、この場所で――西島くんの前で確認するなんて。
まるで、私を逃がさないように釘を刺すような言い方。
西島くんが「え? 何のこと?」と不思議そうな顔をして私と先輩を交互に見ている。
「いえ、あの、そうじゃなくて……!」
慌てて否定しようとした私を遮るように、先輩の大きな手がそっと私の肩に置かれた。
びくり、と体が震える。
服の上からでも分かる、熱い手のひら。
それは「頑張れ」という励ましではなく、何かを主張するような重く粘り気のある感触だった。
廊下の薄暗がりの中で、先輩の瞳が妖しく光った気がして、私は息を呑む。
私は知らなかった。
優しい王子様が、こんなにも恐ろしく、そしてこんなにも色っぽい顔をするなんて。
私のついた小さな嘘が、眠れる獅子を起こしてしまったのかもしれない。
そう予感させるには十分すぎるほどの、張り詰めた空気がそこにはあった。
西島くんは、明らかに戸惑っていた。
私の肩に置かれた先輩の手と、先輩の氷のような笑顔。その異様な空気を感じ取り、彼は一歩後ずさった。
先輩は決して声を荒らげたりはしない。ただ静かに、優雅に微笑んでいるだけだ。
それなのに、その全身から放たれる無言の圧力が、廊下の空気を支配していた。
私と先輩のやり取りに疑問符を浮かべながらも、西島くんは空気を読むように頭を下げた。
「えっと……、用事は済んだんで、俺は失礼します。じゃあな、平野。また明日」
西島くんは引きつった笑顔で私に手を振り、逃げるように踵を返した。
私は挨拶を返すこともできず、小さくなっていくクラスメイトの背中と、結城先輩の横顔の間で視線を彷徨わせる。
どうしよう。
西島くんに、変な誤解をさせてしまったかもしれない。
でも、今はそれどころではなかった。
西島くんの足音が遠ざかり、廊下の角を曲がって聞こえなくなるまで、そこには重苦しいほどの沈黙が流れていた。
静かすぎる。
聞こえるのは、窓の外の風の音だけ。
肩に置かれた先輩の手のひらから、どくどくと速い鼓動が伝わってくるような気がして、私は呼吸の仕方を忘れてしまいそうになった。
熱い。
服の上からでも火傷しそうなくらい、先輩の手が熱い。
それはいつもピアノを弾くときの軽やかな指先ではなく、獲物を捕らえた猛獣の爪のように私の肩に食い込んでいた。
「……先輩、あの、手が……」
恐る恐る口にすると、先輩ははっとしたように指先の力を緩め、それからゆっくりと手を離した。
ふわりと軽くなる肩。でも、離れたはずの距離は少しも遠くならず、むしろ先輩は一歩、私の方へ踏み込んできた。
おかげで私は、壁際へと追い詰められる形になる。
逃げ場がない。
見上げると、先輩は無表情のまま私を見下ろしていた。
その瞳は、暗い海の底のように光を吸い込み、底知れない感情を湛えている。
「……『また明日』、だって。仲が良いんだね」
彼の声は、音楽室で聞く優しくて甘い響きとは似ても似つかない、低くて、どこか突き放すような冷たさを帯びていた。
嫉妬?
まさか。あの完璧な王子様である先輩が、私なんかに?
私は首を横に振った。
「違います、さっきも言おうとしたんですけど、担任の先生から伝言を頼まれただけで……」
「笑ってたじゃない」
先輩が、私の言葉を遮るように低く吐き捨てた。
「僕には見せたことのないような、あんなに屈託のない顔で」
先輩の言葉に、心臓が握りつぶされるような痛みを覚えた。
あんな顔。
そうかもしれない。西島くんの前では、私はただの「平野優愛」でいられた。緊張も背伸びも必要ない、等身大の私で。
でも、それは先輩の前ではできないことなのだ。
だって、好きだから。 好きすぎて、どうしようもなく余裕がなくなってしまうから、あんな風に笑うなんてできっこないのに。
それなのに、先輩は私を責めるような目で見てくる。
その理不尽さが、私の胸に燻っていた黒い感情に火をつけた。
部活前に見た光景。
先輩の肩に触れていた、あの綺麗な先輩。
私だって嫌だった。先輩が他の人と楽しそうにしているのを見て、胸が張り裂けそうだった。
私には何の権利もないけれど、でも、それなら先輩だって同じはずだ。
私たちは、ただの先輩と後輩なんだから。
「……先輩には、関係ないじゃないですか」
気づけば、可愛くない言葉が口をついて出ていた。
先輩の眉が、ぴくりと跳ねる。
でも、一度溢れ出した感情は止められなかった。
「王子様」としてみんなに愛され、隣に並ぶ同級生もいて、何でも持っている先輩。
そんな先輩に、私の小さな心の揺れを掻き乱されるのが、急に堪えられなくなったのだ。
「私はただの後輩で……先輩には、もっと親しい人がたくさんいて……。私がクラスの誰と話そうが、先輩には関係ないはずですっ……」
視界が滲む。
泣きたくないのに、涙が溢れそうになる。
私はそれを隠そうと、ぎゅっと唇を噛んで俯いた。
どんっ!
突然、私のすぐ横の壁に先輩の右手が叩きつけられる。
空気が震えるほどの強い音。 びくっとして顔を上げると、逃げ場を塞ぐように、先輩の体が私の上に影を落としていた。
「――関係、なくないよ」
低い声。
でも、そこには隠しきれない熱情が滲んでいた。
至近距離にある先輩の顔。 そこにはいつもの柔らかな微笑みは欠片もなく、ひどく傷ついたような、それでいて情熱を孕んだ瞳が私を見つめていた。
綺麗な顔が、苦痛に歪んでいる。
そんな顔をさせるのが私だなんて、到底信じられなかった。
「勝手に決めないで。僕がどれだけ、君のその『丁寧な敬語』に距離を感じて、もどかしい思いをしてるか……優愛ちゃんには、わからないでしょ?」
ゆっくりと紡がれる言葉。その中に、隠しきれない独占欲が見え隠れして、私の思考は真っ白に染まった。
先輩も、苦しかったの?
私と同じように、この距離にもどかしさを感じていたの?
信じられないような言葉の数々に、私は言葉を失い、ただ呆然と先輩を見つめ返すことしかできなかった。
「…………っ」
上手く呼吸ができなくて、喉がはりついたように声が出ない。
ただただ、初めて見る結城先輩の瞳の熱を見返していると、廊下の向こうから、数人の足音と話し声が聞こえてきた。
誰かがこちらへ向かってくる――。
その事実に、私の思考は一気に現実に引き戻された。
まずい。
こんなところを、しかもこんな体勢を見られたら。
「王子様」である先輩の評判に傷がつくかもしれない。
そう思った瞬間、あまりの至近距離に、先輩の吐息が前髪を揺らすのを感じて、私は慌てて目を閉じた。
足音がすぐそこまで迫り、心臓がうるさすぎて、外まで漏れてしまっているんじゃないかと思ったとき。
「――おっと」
先輩の手が壁から離れ、それと同時に私の肩をぐいっと抱き寄せた。
「えっ……⁉」
声が出る前に、私の顔は先輩の胸に埋もれていた。
そのままくるりと背中を向け、壁と自分の体の間に私を隠すようにして先輩の腕の中に、すっぽりと閉じ込められる。
硬い胸板。清潔なシャツの匂い。
そして、とく、とく、と私の耳元で鳴り響いている驚くほど速い鼓動。
先輩も、ドキドキしてる?
その事実に気づいた瞬間、身体中の血液が沸騰したみたいに熱くなった。
「お疲れ様です、結城先輩! まだ残ってたんですか?」
通りかかったのは運動部の男子数人だった。彼らは先輩の背中に向かって明るく声をかける。
先輩の広い背中が完璧に私を隠してくれているから、私の姿は見えていないはずだ。
「ああ、うん。ちょっと忘れ物。……ごめん、今、女の子がコンタクト落としちゃって一緒に探してるんだ。悪いけど、先に行ってくれるかな?」
頭上から降ってきた先輩の声は、いつもの落ち着いた、柔らかなトーンに戻っていた。
完璧な嘘。完璧な王子様の演技。
さっきまでの、狂ったような激情はどこにもない。
でも、私を抱きしめる腕の力は、痛いほど強かった。
そして、直に伝わってくる心臓の音だけが、彼の本当の感情を叫んでいる。
「あ、そうなんすね! お邪魔しましたー!」
「気をつけて帰れよー」
足音が遠ざかり、再び廊下に静寂が訪れる。
完全に気配がなくなるまで、先輩は私を離そうとしなかった。
私も、身動き一つできなかった。
この時間が永遠に続けばいいのに。
そんな不謹慎な願いが頭を過るほど、先輩の腕の中は甘く、そして苦しい場所だった。
「……優愛ちゃん、怖がらせてごめん」
耳元で、少し掠れた声が響く。
ゆっくりと腕の力が緩められ、私はようやく解放された。
見上げると先輩は少し赤い顔をして、でもどこか吹っ切れたような表情で私を見ていた。
さっきの「王子様」の仮面の下にある、剥き出しの感情。
それをもう、隠そうとはしていなかった。
「でも、今の僕は……君が思うような、優しいだけの『先輩』じゃいられそうにないんだ」
先輩の手が、私の頬に触れた。西日の名残のような、熱を持った指先。
その熱が、私の冷え切っていた心を溶かしていく。
「僕は、君が他の男の子と笑っているのが嫌だ。……君の笑顔も、視線も、全部僕だけのものにしたい」
それは、告白に近い言葉だった。
でも、まだ「好き」という言葉ではない。
もっと原始的で、もっと切実な、所有の願い。
先輩の親指が、私の唇の端をそっとなぞる。
「……次は、ちゃんと僕のことも、名前で呼んでくれる?」
それは、命令でもお願いでもない、どこか祈るような響きだった。
先輩にとって、私はもう「ただの後輩」ではなくなっていたのだと、そのとき初めて、痛いほどの熱量で私は知る。
名前。
下の名前で呼ぶということ。
それは、ただの呼称の変化ではない。
「結城先輩」という記号化された関係を壊し、一人の男性として彼を受け入れるということだ。
思考が熱に溶かされて、私は彼の言葉を脳内でなぞる。
名前を、呼ぶ……?
ずっと呼んでみたいと思っていた。
夢の中で何度も呼んだ、甘い響き。
私は震える唇を開いた。
「……かなた、せんぱい?」
私の口からこぼれた、初めての「名前」。
「かなた」という音が、空気に触れた瞬間に魔法へと変わったような気がした。
世界の色が変わる。
灰色の廊下が、鮮やかな色彩を取り戻していく。
それを聞いた瞬間、先輩の目元がわずかに細められ、今まで見たこともないような――子供っぽさと色っぽさが混ざり合った、切ない表情が浮かんだ。
まるで、ずっと欲しかった宝物を手に入れた子供のような。
それでいて、もっと深い場所まで欲しがる男の人のような。
「……うん。もう一度、呼んで」
先輩の指が、私の頬から髪へと滑り、そのまま耳元をくすぐる。
ぞくぞくするような甘い感覚。
「かなた、先輩」
「……うん」
「かなた先輩」と呼ぶたびに、二人の間にある「二年の壁」が少しずつ崩れていくような感覚がした。
あんなに遠く感じていた背中が、今は手を伸ばせば届くどころか、私のすべてを包み込んでしまいそうなほど近くにある。
でも、ここは学校だ。
もし誰かに聞かれたら。もし先生に見つかったら。
私の不安を察したのか、先輩は悪戯っぽく唇に人差し指を当てた。
「……でも、皆の前では、まだ内緒だよ?」
「え……?」
「わかってるよ。二人だけの時、だけでいい」
先輩は満足そうに、でも少しだけ名残惜しそうに、ようやく私を解放してくれた。
少し離れた場所から見る先輩の顔は、いつもの「柔らかい王子様」に戻りつつあったけれど、その瞳の奥にはまだ、私を射抜いたあの熱い光が残っている。
二人だけの秘密。
それは、公認の関係になるよりも、もっと濃密で背徳的な響きを持っていた。
校内では「結城先輩」。
でも、二人きりのときだけは「奏多先輩」。
その使い分けが、私たちを共犯者にする。
「さあ、もう暗くなるから。駅まで送っていくよ」
先輩は私の手から、重たそうに持っていた楽譜の束と鞄をひょいと取り上げた。
「あ、自分で持ちます!」
「いいから。……女の子に重いもの持たせられないよ」
そのさりげない「男らしさ」に、また胸がぎゅっとなる。
今日の先輩は、いつもの何倍も「男の人」だった。
並んで歩き出すと、二人の歩幅は全然違うのに、先輩は何度も私の歩調を確かめるように、ゆっくりと、本当にゆっくりと歩いてくれた。
手は繋いでいないけれど、肩が触れ合う距離。
鞄を持つ先輩の手と、私の空いた手が、歩くたびに微かに触れ合う。
(あと二年、早く生まれていたら……なんて、もう思わない)
先輩の後ろをついていくだけだった昨日までの私。
あんなに嫉妬して、苦しくて、自分を卑下していた私。
けれど、今、隣を歩く先輩の指先が、時折私の手に触れそうで触れない、そのもどかしい距離さえも――今の私にとっては、甘くて少しだけ苦い、宝物のような時間になった。
駅の改札の前。
いつもなら、あっさりと別れるはずの場所。
でも今日は、先輩が立ち止まって私に向き直った。
「優愛ちゃん、明日の合唱の練習、楽しみにしてるよ」
そう言って、先輩はまた私の頭を優しく撫でた。
その手つきは、今までと同じようで、決定的に違っていた。
今のその手には、子供をあやすような余裕ではなく、一人の女の子を愛おしむような、確かな体温が宿っていたから。
「……はい。私も、楽しみです。……奏多先輩」
最後に小さく、二人だけの秘密の名前を呼ぶ。
先輩は驚いたように目を見開き、それから破顔した。
それは誰にも見せたことのないような、無防備で、最高に幸せそうな笑顔だった。
「……おやすみ、優愛ちゃん」
改札を抜けていく先輩の背中を見送りながら、私は自分の胸を押さえた。
心臓が、まだ痛いほど鳴っている。
これが、恋が進展する音なんだ。
ゆっくりと、でも確実に。
もう、後戻りできない場所へと足を踏み入れてしまっている。
夜の駅のホームで、私は一人、口元を緩ませながら次の電車を待った。
明日、学校で会ったら、どんな顔をすればいいんだろう。
「結城先輩」と呼ぶたびに、今日の「奏多先輩」の記憶が蘇って、顔が赤くなってしまうかもしれない。
でも、それが私たちの「秘密」なのだと思うと、その苦しささえも愛おしかった。




