見えない壁
雨の日の音楽室での出来事は、私の中で淡い夢のように輝き続けていた。
あの日、先輩が見せてくれた弱さ。私だけが知っている彼の溜息。
それはまるで、二人だけの秘密の暗号を手に入れたような錯覚を私に抱かせた。
廊下ですれ違うたびに目が合えば、ほんの一瞬だけ柔らかく細められる彼の瞳。
その微かなサインだけで、私は自分が特別な存在になれたような気がして、胸の奥が甘く痺れた。
けれど、そんな浮ついた予感は、残酷なほどあっけなく打ち砕かれることになる。
それは、梅雨の気配が少しずつ遠のき、初夏の強い日差しが校舎を焼き始めた頃のことだった。
放課後のチャイムが鳴り響く。
私は今日もまた、誰よりも早く音楽室へ向かおうと教室を飛び出していた。
階段を駆け上がり、三階の渡り廊下へと足を踏み入れる。
視線の先に、見慣れた背中を見つけた。
結城先輩だ。
彼は窓際の手すりに寄りかかり、誰かと話をしていた。
いつもなら、私は迷わず「先輩!」と声をかけて駆け寄っていたかもしれない。
でも、その日は足がぴたりと止まってしまった。
先輩の隣に、一人の女子生徒が立っていたからだ。
同じ三年生を示す緑色のネクタイ。緩く巻かれた栗色の髪と、少し着崩した制服がお洒落な華やかな美人である。
クラスでも中心的な存在なのだろうと一目でわかる雰囲気を持っていた。
「――でさぁ、結城くん。昨日のあれ、マジで助かったよー」
「大袈裟だよ。ノート貸しただけじゃないか」
「いやいや、結城くんのまとめ方、神がかってるから! あ、ねえ、お礼にこれあげる」
彼女はそう言うと、持っていた包みを先輩に差し出した。
そして、あろうことか、先輩の腕を無造作に掴み、自分の身体を引き寄せるようにして笑ったのだ。
あまりにも、自然な動作だった。
そこには、私が先輩に近づくときに感じるような躊躇いや緊張、遠慮も何一つ存在しなかった。
まるで空気を吸うように当たり前に、彼女は先輩のパーソナルスペースに入り込んでいる。
先輩もまた、それを拒むことはなかった。
「ありがとう。……でも、そんなに気を使わなくていいのに」
「いーのいーの! あ、今度また勉強教えてよね?」
彼女は先輩の肩を、親しげにぱんと叩いた。
その乾いた音が、私の鼓膜をつんざくように響く。
私の中でどくん、と心臓が嫌な音を立てるのがわかった。
足元の床が抜け落ちたような感覚がする。
私は反射的にその場から逃げ出したくて、でも足が竦んで動けなくて、柱の陰に身を隠すことしかできなかった。
羨ましい。
喉の奥から、焼けるような感情が込み上げてくる。
彼女と先輩の間には、私がどんなに背伸びをしても届かない「共通の時間」がある。
同級生という対等な立場。敬語を使わずに話せる気楽さ。受験や進路という同じ悩みを共有できる連帯感。
私には、何一つないものばかりだ。
私は先輩に対して、常に「丁寧な後輩」でいなければならない。
敬語を崩すことも、気安く肩を叩くことも、ましてや腕に触れることなんて、許されていない。
……もしも。
もしも、あと二年早く生まれていたら。
私もあの場所にいられたのだろうか。
あんな風に、先輩の隣で屈託なく笑い、当たり前のように彼の視界を独占できたのだろうか。
「……っ」
鉄の味が広がるほど強く唇をきゅっと噛み締める。
私は柱の陰から、もう一度だけ二人を見た。
夕陽が二人を照らしキラキラと輝くその光景は、青春映画のワンシーンのように完璧で、私という異物が入る隙間なんて、最初からどこにもなかったのだと思い知らされるようだった。
先輩が、ふと彼女に向けて笑った。
それは私に見せてくれる「優しい笑顔」とは少し違う。もっと砕けた、気を許した男の子の顔。
見たことのない先輩の顔。
胸が張り裂けそうだった。
私は逃げるように踵を返し、近くのトイレに駆け込む。
鏡に映る自分の顔は、嫉妬で見苦しく歪んでいた。
ダメだ。こんな顔で先輩に会えない。
深呼吸をして、冷たい水で顔を洗う。
大丈夫。私は後輩。可愛い後輩。
そう自分に言い聞かせ、無理矢理に口角を上げて笑顔を作った。
仮面を被らなければ。
先輩が被っているような、完璧な仮面を、私だって被れるはずだ。
少し遅れて音楽室の扉を開けると、強烈な西日が目に突き刺さった。
今日の夕陽は一段と濃く、毒々しいほどのオレンジ色をしている気がする。
窓際のピアノには、もう先輩が座っていた。
「おや、優愛ちゃん。今日は一番乗りだね」
先輩がいつものように振り返り、柔らかく微笑む。
その笑顔を見た瞬間、さっき廊下で見た光景がフラッシュバックした。
あの女子生徒に向けられていた笑顔。その残像が重なり、胸の奥が抉られるように痛む。
「……はい。早く練習したくて」
声が震えないようにするのが精一杯だった。
私は先輩と目を合わせることができず、逃げるように譜面棚へと向かった。
視線を感じる。
先輩の、あのすべてを見透かすような静かな瞳が、私の背中に突き刺さっているのだ。
「優愛ちゃん、何かあった? 目が少し赤いよ」
ピアノの椅子から立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる気配と近づいてくる先輩の声。
どうして、そんなに優しいんですか。
その優しさが、今は残酷なほど私を追い詰めるのに。
誰にでも優しい先輩。私だけじゃなく、あの女子生徒にも、クラスのみんなにも、きっと同じように優しい。
それが彼の「仕様」なのだとわかっていても、独占したいと願ってしまう私の心は、その博愛主義に傷つけられていく。
「なんでも、ないです。西日がちょっと眩しかっただけで……」
苦しい言い訳だとは自分でもわかっていた。
本当の理由なんて、口が裂けても言えない。
『先輩が他の女の子と仲良くしているのが嫌でした』
そんなことを言ったら、重たい女だと思われる。後輩としての距離感をわきまえていないと、呆れられるかもしれない。
震えそうになる手を隠しながら、私は譜面台に楽譜を置いた。
そこに書かれた音符を睨むように目で追う。
何も頭に入ってこない。黒いオタマジャクシが、意味のない記号の羅列に見えた。
頭の中は、さっきの廊下の映像で埋め尽くされている。
先輩の肩に置かれた手。
楽しそうな笑い声。
私には決して超えられない、二年の壁。
以前、何気なく先輩に尋ねたことがあった。
『あの、結城先輩。先輩はどうしてそんなに優しいんですか?』
そのとき、彼は少し照れたように笑って、こう答えたのだ。
『優しい、かな。僕はただ、優愛ちゃんの頑張ってる姿を見るのが好きなだけだよ』
あの言葉は、私にとって宝物だった。
でも今は、その言葉さえも苦しく感じてしまう。
頑張っている姿を見るのが好き。
それは、「後輩として」の頑張りを見守るのが好き、という意味でしかないのだ。
男の人としての特別な感情なんて、一ミリも含まれていない。
「……そっか。確かに、今日の西日は一段と強いね」
先輩の声が、すぐ後ろから聞こえた。
その声音はいつもより少しだけ低く、温度が下がっているように感じる。
先輩の手が伸びてきて、譜面台の上の楽譜に触れた。
「……でも、優愛ちゃん。楽譜、上下逆だよ」
「えっ……!」
指摘されて、はっと顔を上げる。
譜面台に置かれた楽譜は、確かに上下が逆さまだ。
慌てて直そうと手を伸ばすが、先輩の手がそれを遮った。
白い指先が、楽譜の上で静止している。
逃げられない。
先輩の顔を見ると、そこにはいつもの微笑みはなかった。
真顔。
色素の薄い瞳が、私の心の奥底まで射抜くように、冷ややかに光っている。
「西日の所為じゃないことくらい、僕にだってわかるよ。……僕が他の人と話していたのが、そんなに嫌だった?」
心臓が止まるかと思った。
見られていた。
私が柱の陰から覗き見ていたことも、その時の醜い嫉妬の表情も、きっと全部。
恥ずかしさで耳まで熱が上るのがわかった。
穴があったら入りたい。いや、このまま消えてしまいたい。
胸に渦巻いているどろどろとした独占欲を、一番知られたくない相手に見透かされてしまった。
俯くことしかできない私に、先輩はもう一歩近づいてくる。
いつもなら安心する彼の匂いが、今は私を責め立てるように感じられた。
「……どうなの、優愛ちゃん」
問い詰めるような声。
もし、ここで正直に『嫌だった』と告げたら、どうなるのだろう。
彼は笑って許してくれるだろうか。それとも、『後輩のくせに生意気だ』と突き放すだろうか。
そんな淡い期待と恐怖を、私は必死に胸の奥へと押し込んだ。
言えるわけがない。
そんな権利、私にはないのだから。
私はただの後輩。合唱部の、ただの一年生。
そんなに簡単なことじゃない。
ふう、と小さく息を吐いて、私は重ねられた先輩の手の下から、自分の手をそっと引き抜いた。
嘘をつこう。
私のプライドと、この関係を守るための、精一杯の嘘を。
「……先輩たちが話す姿が、とても自然だったから」
声が震えないように、お腹に力を入れる。
「私も、クラスの男の子とそんなふうに話せる日がくるのかな、って考えてただけです……」
口から出た言葉は、自分でも驚くほどスラスラと紡がれた。
それは、半分は本当で、半分は私の臆病さがついた嘘。
「クラスの男の子」なんて、今は一人も頭に浮かんでいないのに。
ただ、先輩に私の独占欲を知られるのが怖くて、必死に自分を「ただの後輩」の枠に押し戻そうとしたのだ。
これなら、辻褄が合う。
私が落ち込んでいたのは、先輩への嫉妬ではなく、自分自身のコミュニケーション能力への悩みだったということにできる。
そうすれば、先輩も「なんだ、そんなことか」と笑ってくれるはずだ。
後輩の可愛い悩み相談として、処理してくれるはずだ。
けれど、音楽室に落ちたのは、重苦しい沈黙。
先輩は、笑わなかった。
「……クラスの男の子、か」
先輩が、私の言葉をなぞるように低く呟く。
その声には、感情の色が一切乗っていなかった。
ただ事実を確認するような、無機質な響き。
背筋に冷たいものが走る。
顔を上げると、先輩は無表情のまま、じっと私を見下ろしていた。
夕陽の逆光で表情がよく見えない。けれど、その瞳の奥に、今まで見たことのない暗い光が揺らめいているような気がした。
「優愛ちゃんは、クラスの男の子と仲良くなりたいの?」
静かな問いかけ。
でも、そこには拒絶とも威圧とも取れる、不思議な圧力が含まれていた。
私は息を呑み、視線を泳がせた。
「え……。ええと、その、いつまでも緊張してばかりじゃダメだなって……」
私が俯いたまま答えると、先輩はふいっと視線を外し、ピアノの椅子に座り直した。
その動作は、どこか突き放すように冷たく感じられた。
背中を向けられたような、見えない壁を作られたような感覚。
「……そっか。そうだよね。優愛ちゃんには、優愛ちゃんの毎日があるもんね」
先輩の指が、鍵盤の上を音もなく滑る。
その言い方が、なんだか酷く他人行儀で、私の心臓を冷たい手で鷲掴みにされたように痛んだ。
私が嘘をついたから?
それとも、「クラスの男の子と仲良くしたい」なんて言ったことが、先輩を呆れさせてしまったのだろうか。
慌てて顔を上げる。
でも、そこにいたのは、いつも通りの「優しい結城先輩」の笑顔だった。
くるりと椅子を回転させ、私に向き直った先輩は、目を細めて微笑んでいた。
「でも、あんまり他の男の子と仲良くされちゃうと、僕の練習相手がいなくなっちゃうかな」
冗談めかした口調。
でも、その笑顔は、どこか能面のように張りついているように見えた。
優しい笑顔の裏側にある、読み取れない感情。
先輩はそう言って、いつものように私の頭を軽く撫でた。
その手のひらの温もりは、いつもと同じはずなのに、今日はなぜか氷のように冷たく感じられた。
先輩にとって、私は「いつかクラスの男の子と恋をする、可愛い後輩」に過ぎないのだろうか。
それとも、「自分の手元から離れていこうとする玩具」を引き留めようとしているだけなのだろうか。
どちらにしても、先輩の心の内は霧の中だ。
私がついた嘘は、先輩との間に見えない亀裂を入れてしまったのかもしれない。
「……さあ、他の部員も来る頃だ。今日の練習、始めようか」
先輩はパンと手を叩き、空気を切り替えた。
その切り替えの早さが、今は恨めしい。
私は取り残されたような気持ちのまま、ぐちゃぐちゃになった感情を必死に押し殺して、「はい」と短く返事をした。




