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放課後の音楽室

また現在恋愛ものですが、前作より短いのでさくっと読めるはず?

 放課後の校舎には、特有の静寂と匂いがある。

 生徒たちが帰宅した後の少し埃っぽい廊下、遠くのグラウンドから響く野球部の金属バットの音、そして窓ガラスを震わせる吹奏楽部のチューニング。

 それらが混ざり合って溶けていく黄金色の時間を、私は息を潜めて歩いていた。

 上履きが床を擦るキュッという音が、自分の心臓の音のように大きく響く。

 南校舎の三階、一番奥にある部屋。重厚な防音扉の向こう側が、私の目指す場所だ。

 扉へ近づくにつれて、空気が変わるのがわかる。微かに、本当に微かに漏れ聞こえてくるピアノの旋律。

 それは水滴が水面に落ちて波紋を広げるように、私の鼓膜を優しく震わせ、胸の奥を甘く締めつける。

 私は扉の前で一度足を止め、深呼吸をした。

 制服のスカートを指先で整え、前髪が乱れていないか手櫛で確認する。

 これから会う人の前では、ほんの少しでも「綺麗な私」でいたいと思ってしまう。それは高校生になってから覚えた、私の密やかで切ない乙女心ゆえの習慣だった。

 意を決して、重たいレバーを引けば、扉がゆっくりと開いていく。


「――あ」


 視界が黄金色に染まる。

 西日が差し込む音楽室は、まるで古い映画のワンシーンのように輝いていた。

 空気中に舞う埃さえも金粉のように煌めき、グランドピアノの黒塗りのボディが、その光を艶やかに反射している。

 そして、その光の中心に、彼がいた。

 結城奏多先輩――。

 ピアノの椅子に腰掛け、鍵盤の上で指を滑らせているその姿は、この世のものとは思えないほど美しかった。

 窓から差し込む夕陽が、彼の色素の薄い茶色の髪を透かし、輪郭を柔らかく縁取っている。長い睫毛が落とす影、鼻筋の整ったライン、そして白く細長い指先。

 彼が奏でる音は、楽譜に書かれた既存の曲ではないようだった。ただ指の赴くまま、感情のままに紡がれる即興曲。優しくて、どこか寂しくて、触れたら壊れてしまいそうな硝子細工のような旋律。

 私は扉を開けた姿勢のまま、動けなくなってしまった。

 声をかければ、この完璧な絵画のような世界を壊してしまう気がしたからだ。

 けれど、私の気配に気づいたのか、流れるようなピアノの音がふわりと止む。

 余韻が空気中に溶けていく中、彼がゆっくりとこちらを振り向いた。


「……やあ、優愛ちゃん」


 その声は、ピアノの低音よりも心地よく、私の芯を震わせる。

 結城先輩は目を細め、いつも浮かべているあの柔らかい笑顔を私に向けた。

 

「こんにちは。今日は一番乗りだね」

「あ、あの……! こんにちは、結城先輩!」

 

 慌てて頭を下げると、背負っていたスクールバッグが肩からずり落ちそうになり、私は無様な格好でそれを抱え直した。思わず顔が熱くなるのがわかる。

 ああ、まただ。

 先輩の前に出ると、どうして私はこうも余裕がなくなってしまうんだろう。

 先輩はそんな私の様子を見て、ふふっと喉の奥で小さく笑った。馬鹿にするような響きではない。子供の失敗を微笑ましく見守るような、大人の余裕を含んだ笑い声だ。それがまた、私を惨めな気持ちにさせる。

 

「そんなに慌てなくていいよ。まだ他の部員も来ていないし、先生も会議中だからね」

「は、はい……すみません。早く練習したくて、つい急いでしまって」

「熱心だね。優愛ちゃんは偉いなぁ」

 

 先輩の言葉に私は熱くなった頬を隠すように俯きながら、部屋の隅にある棚へ向かった。

 高校一年生の私、平野優愛が、この合唱部に入部して一ヶ月が経つ。

 元々、歌うことは好きだった。けれど、それ以上に入部の決め手となったのは、新入生歓迎会で聴いた彼のピアノだった。

 体育館の壇上、合唱部の紹介で伴奏をしていた結城先輩。

 スポットライトを浴びた彼は、まるで王子様だった。

 いや、比喩ではない。校内でも彼は『王子様』と呼ばれている。

 高校三年生という最上級生。整いすぎている容姿に、穏やかで優しい性格。成績優秀で、誰に対しても丁寧に対応する物腰の柔らかさ。

 欠点なんて一つも見当たらない、雲の上の存在。

 そんな彼が、部員ではないけれど時々ピアノ伴奏を手伝ってくれていると知ったとき、私は迷わず入部届を提出していた。

 不純な動機だと言われても仕方がない。でも、十六歳の恋なんて、そんな些細なきっかけで始まるものだと思う。

 

「……優愛ちゃん? どうしたの、譜面棚の前で固まっちゃって」

「えっ、あ……い、いえ! どの曲から練習しようかなって迷っていただけです」

 

 先輩の声で現実に引き戻され、私は適当な楽譜を掴んで振り返った。

 その先では先輩がピアノに肘をつき、頬杖をついてこちらを見ている。その仕草一つとっても、雑誌の切り抜きのように様になっていた。

 

「そう。じゃあ、コンクールの課題曲にしようか。僕も指慣らしがしたいし」

「は、はい。お願いします」

 

 私は自分のパートの楽譜を抱え、ピアノのそばにある譜面台へと近づいた。

 近づくにつれて、先輩の匂いがする。

 香水ではない。柔軟剤の清潔な香りと紅茶のような落ち着いた香り。

 心臓が肋骨を内側から叩く音が、先輩に聞こえてしまわないか心配になるほどの距離の中、私は震える指で楽譜を開き、譜面台に置いた。

 

「……準備、いい?」

 

 先輩が鍵盤に手を置く。

 その横顔は、さっきまでの柔和なものから、演奏者としての真剣な眼差しに変わっていた。

 

「はい」

 

 私が短く答えると、先輩の指が鍵盤を叩いた。

 和音が音楽室の空気を一変させる。

 先輩のピアノは、魔法だ。

 力強いのに乱暴ではなく、繊細なのに弱々しくない。歌い手の呼吸を完璧に読み取り、背中をそっと押してくれるような伴奏。

 私はその音に導かれるように、息を吸い込んだ。


『――――』


 ソプラノの旋律を歌い出す。

 先輩の音が、私の声を下から支え、包み込んでくれる。まるで、二人で会話をしているみたいだ。

 言葉よりも雄弁に、音と音が重なり合う。

 クレッシェンドで感情を高めると、ピアノも呼応するように情熱的な音色に変わる。ブレスのために一瞬の間を置けば、ピアノも優しくその空白を待ってくれる。

 気持ちいい。

 歌うことが、こんなに心地良いものだったなんて、先輩の伴奏で歌うまでは知らなかった。

 一曲を歌い終えると、余韻の中で先輩が鍵盤から手を離した。

 

「うん。いい声だね、優愛ちゃん」

 

 先輩がこちらを見上げて、ふわりと笑う。


「高音がすごく綺麗に伸びてた。昨日の練習より、ずっと良くなってるよ」

「あ、ありがとうございます……! 先輩の伴奏が素敵すぎて、私、実力以上の声が出ちゃいました」

「あはは。褒め上手だなぁ、優愛ちゃんは」


 先輩は照れたように視線を逸らし、無造作に自分の髪をかき上げた。

 色素の薄い茶色の髪が、さらりと揺れる。その仕草に、また胸がときめいた。

 ああ、好きだなぁ。どうしようもなく、好きだ。

 けれど、同時に思う。

 この距離は、果てしなく遠いと。

 先輩は三年生で、私は一年生。二つという学年の差は、高校生にとっては永遠にも等しい壁だ。

 先輩は大人びていて、知識も豊富で、先生たちとも対等に話せるほどしっかりしている。

 それに比べて、私はどうだ。

 先輩の前で顔を赤くして、上手く喋ることもできない子供。

 先輩にとっての私は、数多くいる「後輩の一人」に過ぎない。

 名前を覚えてもらえただけで奇跡みたいなもので、それ以上の関係になれるなんて、想像することさえ烏滸がましい気がした。

 

「……先輩は」

 

 気づけば、口が勝手に動いていた。

 

「先輩は、どうしてそんなに優しいんですか?」

 

 聞いてしまってから、変な質問をしてしまったと後悔する。

 だが、先輩は嫌な顔一つせず、きょとんと目を丸くしたあと、困ったように眉を下げて笑った。

 

「優しい、かな。僕はただ、優愛ちゃんの頑張ってる姿を見るのが好きなだけだよ」

 

 どくん、と心臓が跳ねる。

 期待しちゃダメだ。

 これは誰にでも言う、社交辞令のようなもの。

 『頑張ってる後輩』を応援するのは、先輩として当たり前のことだから。

 それでも、「好き」という単語が彼の口から出ただけで、私の脳内はパニックを起こしそうになる。

 

「そ、そうですか……。あはは、私、もっと頑張りますね」

 

 引きつった笑顔でそう返すのが精一杯だった。

 本当はもっと聞きたいことがある。

 

 私のこと、どう思ってますか?

 ただの後輩ですか?

 卒業したら、もう会えなくなっちゃうんですか?

 

 喉元まで出かかった言葉を、私は必死に飲み込んだ。

 今のこの、ピアノの椅子と譜面台の距離。

 手を伸ばせば触れられるけれど、決して縮まることのない数十センチ。

 この距離感が、今の私に許された全てなのだ。


 そのとき、廊下の方から賑やかな話し声が近づいてくるのが聞こえた。

 

「――でさぁ、マジでウケるんだけど!」

「ちょ、静かにしなよー。音楽室聞こえちゃうって」

 

 他の部員たちがやってきたのだ。

 二人だけの魔法の時間が終わる合図。

 先輩はすっと立ち上がると、いつもの「完璧な合唱部の先輩」の顔に戻っていた。

 

「おや、みんな来たみたいだね。……優愛ちゃん、今日の自主練はここまでにしようか」

「……はい。ありがとうございました」

 

 私は名残惜しさを押し殺して、深く頭を下げた。

 扉が開き、部員たちがどやどやと入ってくる。

 

「あ、結城先輩! 今日も早いですねー!」

「先輩、課題曲のここ、教えてくださいよー」

「こらこら、まずは発声練習からだっていつも言ってるだろ?」

 

 先輩はすぐに部員たちの輪に囲まれる。

 男子部員とも女子部員とも、分け隔てなく笑顔で接する先輩。

 その中心で輝く彼は、さっきまで私だけに見せてくれていた表情とは全く違っていた。

 太陽のような、みんなの王子様。

 私はその輪から少し離れた場所で、楽譜を胸に抱き締めたまま、その光景を眺めていた。

 遠い。

 さっきまで二人きりだったのに、今は何光年も離れた星を見上げているような気分だ。

 結城先輩は、誰にでも優しい。

 私に向けられた優しさも、あの笑顔も、きっとこの大勢に向けられるものと同じ成分でできている。

 私だけが特別なんてことは、ありえない。

 わかっているのに、胸の奥がちくりと痛んだ。


 練習が始まると、私はアルトパートの友人、美咲の隣に並んだ。

 

「優愛、顔赤いけど大丈夫? 熱?」

 

 美咲が小声で耳打ちしてくる。

 

「ううん、大丈夫。……ちょっと、西日が眩しかっただけ」

「ふーん? まあ、西日強いもんねー。……あ、見て見て。結城先輩、今日もイケメン」

 

 美咲の視線の先には、ピアノに向かう先輩の姿。

 その横顔は、真剣そのもので、近寄りがたいほどのオーラを放っている。

 

「……うん。そうだね」

 

 私は小さく同意して、楽譜に視線を落とした。

 そこに書かれた音符たちが、なぜか滲んで見える。

 憧れと、劣等感。

 好きという気持ちと、叶わないという諦め。

 相反する感情が胸の中で渦を巻いて、私は上手く息ができなくなりそうだった。


 その日の部活は、コンクールに向けたパート練習が中心だった。

 私はソプラノのリーダーから何度か音程のズレを指摘され、恥ずかしさと情けなさの海に沈んでいた。

 先輩のピアノに聴き惚れていたわけではないけれど、どこか集中できていなかったのは事実だ。

 

「はい、今日はここまで。解散!」

 

 部長の号令で、練習が終わる。外はもうすっかり日が暮れて、窓の外には夜の色が広がっていた。

 片付けをしながら、私はちらりとピアノの方を見る。

 先輩はまだ残って、部長と何やら打ち合わせをしていた。

 真面目な顔で楽譜を指差しながら話す横顔は、知的で、大人びていて、やっぱり私なんかとは住む世界が違うように見える。

 

「優愛、帰ろー?」

「あ、うん。待って、今準備する」

 

 私はスクールバッグを手に取り、美咲たちと一緒に音楽室を出ようとした。


「優愛ちゃん」

 

 背後から名前を呼ばれて、心臓が止まるかと思った。

 振り返ると、先輩がこちらを見て微笑んでいる。


「楽譜、忘れてるよ」

 

 先輩の手には、私がさっき譜面台に置き忘れたままの楽譜があった。

 

「あ……、すみません!」

 

 私は楽譜を受け取ろうと慌てて駆け寄り、その勢いで先輩の指先に手が触れた。

 ひやりとした、でも確かな体温を感じさせる指先。一瞬、時が止まったように感じた。

 

「……気をつけてね。大事な商売道具なんだから」

 

 先輩は低く、甘い声でそう囁くと、私の目を見て悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。

 

「明日も、楽しみにしてるよ」

 

 その一言で、今日の落ち込んでいた気持ちが全て吹き飛んでしまう。

 単純だ、と自分でも思が、その一言があるだけで私は明日もまた頑張れる。

 

「はい! さようなら、結城先輩!」

 

 私は深々と頭を下げ、逃げるように音楽室を飛び出した。

 廊下に出ても、手の甲に残る先輩の指の感触が消えない。自分の顔が茹で蛸のように赤いのがわかる。

 美咲が「え、今の何? 王子様スマイルいただきましたー⁉」と騒いでいるけれど、その声も耳に入らないくらい、私の頭の中は先輩でいっぱいだった。



 

 その日以来、私の視界はまるでカメラのレンズが勝手にピントを合わせるように、無意識のうちに彼を探すようになってしまった。

 三階の渡り廊下で擦れ違うとき。中庭のベンチで、彼が紅茶のパックを片手に友人と談笑しているとき。

 全校集会で、整列した生徒たちの中に彼の後頭部を見つけたとき。

 どんなに遠くにいても、どんなに人混みに紛れていても、結城先輩の姿だけが切り取られたように鮮明に映る。

 

 数日後の昼休み。

 私は図書委員の当番で、返却された本の整理をしていた。

 図書室は北校舎の二階にあって、窓からは中庭が一望できる。春の陽気が心地よいこの時期、中庭は生徒たちの憩いの場になっていた。

 

「平野さーん、そっちの棚、終わった?」

「あ、はい。今終わりました」

 

 先輩委員に声をかけられ、私は手元の本を棚に押し込んだ。

 ふと、僅かに開かれた窓の外に視線を向ける。

 桜はもう散ってしまったけれど、新緑の葉が風に揺れて、キラキラと光の粒を撒き散らしていた。

 その緑の波の向こうに、見慣れた人の姿を見つける。

 結城先輩だ。

 彼は中庭の大きな木の下にあるベンチへ座り、文庫本を読んでいた。

 周りには、同じ三年生の女子たちが数人、楽しそうに取り囲んでいる。

 

「ねえ結城くん、こないだの模試、また学年トップだったんでしょ?」

「すごいよねー、部活もやってるのに」

「何か秘訣とかあるの? 教えてよー」

 

 距離があるため、はっきりとした会話は聞こえないけれど、彼女たちの身振り手振りや、甘えるような表情から内容はなんとなく想像がついた。

 先輩は本から顔を上げ、嫌な顔一つせずに微笑んで何かを返している。

 その笑顔は、音楽室で私に向けてくれるものと同じ、「優しい笑顔」だ。

 でも、ここから見ると、それはまるで精巧に作られた仮面のようにも見えた。

 誰にでも優しくて、誰のことも拒まない。完璧な王子様。

 女子の一人が、親しげに先輩の肩を叩く。先輩は苦笑しながら、叩かれた肩を大袈裟に竦めて見せた。

 その仕草に、周囲の女子たちがまた黄色い声を上げて笑う。

 ずきん、と胸の奥が痛んだ。

 痛い。

 ただ見ているだけなのに。私には何の関係もない日常の一コマなのに。

 あの中に入れない自分が、酷くちっぽけで、惨めな存在に思えてくる。

 私は一年生で、彼は三年生。

 私はただの後輩で、彼女たちは同級生。

 その「二年」という時間の壁が、物理的な距離以上に重くのしかかる。

 彼女たちは、私の知らない先輩の顔をたくさん知っているのだろう。

 教室での彼、修学旅行での彼、体育祭で汗を流す彼。

 私がどんなに背伸びをしても、その「共有してきた時間」には敵わない。

 

「……はぁ」

 

 無意識に溜息が漏れた。

 私は窓を閉じて鍵を少し乱暴に閉めると、逃げるようにその場を離れた。

 見なければよかった。知らなければよかった。

 こんなに胸が苦しくなるなら、ただの「合唱部の先輩」として、遠くから眺めているだけで満足しておけばよかったのに。

 でも、一度知ってしまった「特別」な時間の味は、麻薬のように私を蝕んでいく。

 

 音楽室の、あの黄金色の静寂。

 私だけに向けられた言葉。私のためだけに弾いてくれたピアノ。

 あそこだけが、私が彼と対等でいられる唯一の場所。

 だから私は、今日もまた、放課後が来るのを待ちわびてしまうのだ。



 

 その日の放課後は、朝からの予報通り、どんよりとした曇り空だった。

 湿度を含んだ生温い風が、雨の予感を運んでくる。

 部活動はいつも通り行われたけれど、コンクール前のピリピリとした空気のせいか、先輩と個人的に話す時間はなかった。

 先輩は顧問の先生と曲の解釈について長く話し込んでいたし、休憩時間もパートリーダーたちへの指示出しに追われていた。

 私はといえば、自分の未熟な発声を修正するのに必死で、先輩の背中を見る余裕さえなかった。

 

「よし、今日はここまで。下校時刻が近いから、速やかに帰るように」

 

 先生の声で、練習が終わる。皆が安堵の息を漏らしながら、楽譜を片付け始めた。


「優愛、一緒に帰ろ?」


  友人の美咲が声をかけてくる。


「あ、ごめん。私、日誌の当番だから。職員室に出してから帰る」

「えー、またぁ? 優愛ってば真面目すぎ。じゃあ先帰るねー」

「うん、また明日」


 手を振って出ていく美咲を見送り、私は部活動日誌を広げた。

 今日の練習内容、欠席者、顧問からの連絡事項。

 丁寧に文字を埋めていく。ボールペンのインクが紙に染み込む黒い線を眺めながら、私は耳を澄ませていた。

 部員たちが帰り支度を済ませ、それぞれ教室を出ていく音。

 ざわめきが少しずつ遠ざかり、静寂が満ちていく。私は書き終えた日誌を閉じると、大きく伸びをした。


 ふと、部屋の奥を見る。

 グランドピアノの前。そこにまだ、彼が残っていた。

 部員はもう、私と彼以外、誰もいない。

 先輩はピアノの蓋を閉めることもなく、鍵盤の上に両手を置いたまま、俯いていた。

 弾かない。ただ、じっと白と黒の羅列を見つめている。

 その背中が、酷く小さく思えた。

 

 いつもの自信に満ち溢れた「王子様」のオーラは消え失せ、そこにはただの疲れ切った一人の男の子がいるように見える。

 窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。

 しとしとと静かに窓ガラスを叩く雨音が、音楽室の静けさをより一層際立たせる。

 

 私は声をかけるべきか迷った。

 邪魔をしてはいけない。そう思う理性の裏で、放っておけないという感情が騒ぐ。

 

「……あの、先輩」

 

 恐る恐る声をかけると、先輩の肩がびくりと跳ねた。ゆっくりと、本当にゆっくりと彼が振り返る。

 

「……ああ。優愛ちゃんか」

 

 その声は、驚くほど低く、掠れていた。

 そして、私に向けられた瞳。いつもならすぐに細められるはずの目が、今は大きく見開かれ、どこか虚ろな光を宿している。

 焦点が合っていないような、深い湖の底を覗き込んだような色。深い疲労と孤独の色。

 

「まだ、残っていたんだね」

 

 先輩がふっと息を吐き、いつもの笑顔を作ろうとして――失敗したように、口元を歪めた。

 

「……ごめんね。ちょっと、ぼーっとしてた」

「いえ、その……お疲れですか?」

 

 近づいてみると、先輩の顔色は青白く、目の下には薄く隈が浮いていた。色素の薄い肌が、今日はより一層透明に近い色に見える。

 

「疲れ……かな。うん、そうかもしれない」

 

 先輩は独り言のように呟くと、ピアノの椅子に深く座り直し、天井を仰いだ。

 

「王子様ってさ、疲れるんだよね」

「え?」

 

 唐突な言葉に、私は耳を疑った。先輩は天井を見上げたまま、力のない声で続ける。

 

「みんなが期待する『結城奏多』でいること。優しくて、完璧で、何でもできて……誰も傷つけず、誰からも嫌われない。そんなの、ただの偶像なのにね」

 

 雨音が強くなる。先輩の言葉が、雨音に混ざって溶けていきそうだった。

 見てはいけないものを見てしまったような気がする。

 あの完璧な笑顔の下に、こんなにも重たいものを隠していたなんて――。

 昼間、中庭で見たあの笑顔。あれはやっぱり、仮面だったんだ。

 

「……先輩は、完璧じゃなきゃダメなんですか?」

 

 私は勇気を振り絞って尋ねた。先輩が視線をゆっくりと下ろし、私を見る。

 その瞳に、初めて「結城奏多」という人間の、生々しい感情が灯った気がした。

 

「ダメじゃないよ。……でも、期待されると応えたくなっちゃうんだ。それが僕の、悪い癖」

 

 先輩は自嘲気味に笑うと、鍵盤の上で指を遊ばせた。

 ポロン、と不協和音が鳴る。

 

「でもね、優愛ちゃん」

 

 先輩の声が、少しだけ熱を帯びる。

 

「君の前だと、不思議と力が抜けるんだ」

「……え?」

「君は、僕に『完璧』を求めてこないからかな。……それとも、君が一生懸命すぎるから、僕が繕う隙がないのかな」

 

 先輩は立ち上がると、私の方へ一歩近づいてきた。身長差があるせいで、先輩に見下ろされる形となる。

 でも、威圧感はない。むしろ、雨に濡れた子犬が身を寄せようとしているような、脆い気配を感じた。

 

「……もう少しだけ、ここにいてくれる?」

 

 それは、命令ではなく、懇願だった。

 いつも「後輩」として私を導いてくれる先輩が、初めて私に「弱さ」を見せてくれた瞬間。

 

「ピアノ、弾きたいんだ。でも、一人じゃ寂しくて」

 

 先輩の手が伸びてきて、私の制服の袖をちょんと摘んだ。

 まるで、行かないでと縋る子供のような仕草。その指先の震えが、布越しに伝わってくる。

 胸が、押し潰されそうだった。

 好きだ。

 完璧な王子様の先輩も好きだけど、この弱くて人間臭くて、寂しがり屋な先輩のことが、もっともっと好きだ。

 

「……はい。私でよければ、いくらでも聴きます」

 

 私が答えると、先輩はようやく心からの笑顔を見せた。

 それはいつもの輝くような笑顔ではなく、もっと控えめで柔らかくて、泣き出しそうな笑顔だった。

 

「ありがとう」

 

 先輩は再びピアノに向かうと、静かに弾き始めた。

 楽譜通りではない。先輩のアレンジが加えられた、より切なく、より重たい旋律。

 単調に繰り返されるリズムが、窓を打つ雨音とシンクロする。

 私はピアノの縁に寄りかかり、その音に身を委ねた。

 薄暗い音楽室。外の世界から切り離された、雨の檻の中には、ピアノの音と私と先輩だけがいた。

 先輩の横顔を見やれば、長い睫毛が伏せられ、薄い唇が微かに開いている。

 その表情は、恍惚としているようでもあり、苦しんでいるようでもあった。

 

 触れたい。

 

 その頬に触れて、その寂しさを拭い去ってあげたい。

 でも、私の手は動かなかった。今の私には、ただ彼の音楽を聴くことしか許されていない。

 それが、彼が私に求めた役割だから。

 「観客」と「演奏者」。

 その関係性が今の私たちを繋ぐ唯一の糸であり、同時に、超えられない壁でもあった。

 一曲が終わると、長い沈黙が落ちる。

 余韻が消えたあと、彼は小さく息を吸い込んで私の方を向いた。

 

「……少し、楽になったよ」

 

 その顔色は、さっきよりも少しだけ血色が戻っていた。

 

「よかった……です」

「優愛ちゃんは、いい聴き手だね。……君がいてくれて、よかった」

 

 先輩が手を伸ばし、私の頭をぽん、と撫でた。

 その手つきは優しかったけれど、やっぱりどこか「子供扱い」するような響きを含んでいた。

 私は嬉しいのと同時に、少しだけ悔しく思う。

 先輩の「癒やし」にはなれても、「対等なパートナー」にはなれないのだろうか。

 雨宿りをする軒先のような、一時的な安らぎの場所に過ぎないのだろうか、と。

 

「さあ、もう遅い。帰ろうか。送っていくよ」

 

 先輩は立ち上がり、いつものしっかりした顔に戻っていた。

 先程見せた弱さは、もうどこにもない。

 まるで、幻だったかのようだ。

 けれど、幻でもいいから、あの弱い先輩をもう少しだけ見ていたかったと思う。

 私だけが知っている、結城奏多。その秘密を、もっとたくさん集めたい。

 独占したい。

 そんな黒い感情が、雨音と共に胸の奥で芽吹き始めていた。

 

 帰り道、先輩は私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれた。

 一つの傘に入るような関係ではないから、それぞれ自分の傘を差して並んで歩く。

 ビニール傘を叩く雨音のせいで、会話はほとんどなかった。時折、先輩の肩が私の傘にぶつかる。

 そのたびに、「ごめん」と短く謝る先輩の声が、雨の中に溶けていった。

 

 駅の改札前で、私たちは立ち止まる。

 

「じゃあ、僕はこっちだから。気をつけて帰るんだよ」

「はい。先輩も、お気をつけて」

 

 先輩は改札の向こう側、私とは違う路線のホームへと消えていく。

 その背中は、いつもの凛とした広い背中だった。

 たくさんの生徒たちに囲まれ、期待され、完璧を演じ続ける背中。

 私はその背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。

 遠い。やっぱり、遠い。

 さっき音楽室で、ほんの一瞬だけ近づいたと思った距離は、改札一つ隔てただけで、また永遠のように広がってしまった。

 私は濡れた傘を握りしめたまま、小さく呟く。

 

「……かなた、先輩」

 

 雑踏にかき消されたその名前は、誰にも届くことなく、湿った空気の中に消えていった。

 憧れだけでは届かない。

 優しさだけでは埋まらない。

 このもどかしい距離を縮めるには、私はどうすればいいのだろう。

 雨はまだ、止みそうになかった。


 

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