かいわれ大根
しばらく無職の期間が続いて、ほどなくして貯金残高も残り僅かとなった。柿崎ワタルの前職はそれほど給料の高い仕事ではなかったが十八の時からおよそ十年間休むことなく出勤していた。特に仕事ができる方ではなかったが、仕事ができないという訳でもなかった。ようするにいてもいなくてもあまり変わらない存在だった。いてくれれば助かるしいなければ他で間に合う。困った時に声をかけられて、それが済むとそれっきり彼の存在はなかったものとなる。いくら誰かに貢献したところで、叱り方の癖の強い歌謡曲大好き人間の上司、シゴデキ風で実際には大したことをしていない同僚、入社して日の浅いムードメーカーの後輩などが社内の注目をすべて掻っ攫うのだった。そしていずれはその後輩にすら無視されるようになる。
そんな世界で暮らしていたある日の午後、柿崎は辞表を提出した。突然のことだった。周りは驚いていたがすぐに考え直すよう彼に勧めた。全く認識されない存在として働いてきた彼が、辞める直前だけはスポットライトを浴びていた。「確かに君はパッとしない。けれどもいてくれた方が我々としても助かる」。だがそれ以上、部長が柿崎を説得することはなかった。そこまで彼に興味がなかったのだ。いや思い出がなかったのだ。柿崎?そんな社員いたっけ?恐らく一週間も経てば十年間の実績も彼らの意識の中からは消え失せてしまうだろう。柿崎はお辞儀した。目立たないのは慣れっこだった。
何度通い詰めたか分からない近所のスーパーに足を運んだ。貯金残高から考えるとここから一ヶ月以内に次の職を見つけなければ一人暮らしの家賃も水道光熱費も払えないまま柿崎ワタルは餓死することになる。それでも彼は案外平気だった。まるで目に見えない社会的なプレッシャーすら彼をスルーしているようだった。糠に釘。暖簾に腕押し。いつものように買い物カゴを左手に持って決められた商品を右手で掴み機械的に投入していく。納豆、えのき茸、白菜、豆腐......。食料品でぜいたくをすることはほとんどなかった。安くて、体に良さそうなものしか買わない。それは貯蓄のためというよりは本能的に彼が自分の体に合ったものを摂取しているということにすぎなかった。エネルギッシュで派手な人間はやはりエネルギッシュで派手な食事を好むものであり、彼のような人間は非常に質素な食材を好んで食べるのだった。
目をつぶっても歩けるぐらい精通した通り道を無表情で通り過ぎると再び野菜コーナーに入った。先程まで貼られていなかった値引きシールが貼られてある。柿崎は一個百円の白菜を棚に戻して【30%OFF】と書かれた別の白菜をカゴに入れた。まるで柿崎と同じようなオーラをまとった白菜だった。少し色が悪いし萎びているが問題ない。えのき茸の値引きがあるかを探していると、ふいにとある野菜が視界に入った。
かいわれ大根だった。柿崎はその場で立ち尽くす。そう言えばこの十年間、一度も食べなかったかもしれない。値段も九十八円と大変お買い得である。毎日のように同じ商品しか変わなかったからか、かいわれ大根などという小さな緑色のもやしのような存在にはほとんど目もくれなかったのだ。手に取ると非常に軽かった。中身はスカスカである。別にあってもなくても良さそうな食材だ。カゴの中のラインナップを見てもかいわれ大根と合うような食材はない。買う必要もないが買っておいても問題はない。あってもなくても良い。とにかく安いからという理由でカゴへ放り込んだ。
するとそのタイミングを見計らったかのようにパートのおばさんがかいわれ大根に値引きシールを貼った。柿崎はしばらくフロアを旋回した後、再び野菜コーナーに戻った。なんとかいわれ大根が一個一円だった。今日で賞味期限が切れてしまうということで一円でも良いから買ってほしいということなのだろう。柿崎は九十八円のかいわれ大根と一円のかいわれ大根を素早く入れ替えた。カゴの中に埋め尽くされたかいわれ大根を見て顔馴染みのレジの店員がほんの少しだけ顔を歪めていた。「これ食べるんですか?」という表情と共に。
帰宅して早速調理に取り掛かる。冴えない無職の人間にとって自炊はマストである。待望のかいわれ大根を触ってみると思いの外ぬるぬるしていた。未だかつてかいわれ大根を食べたことのない柿崎はほんの少し興奮していた。今日は人生で最初の一口目となる。かいわれ大根を二十パック購入したのだが、どれもぬるぬるしていた。腐りかけているのかもしれないが、かいわれ初体験の柿崎にとってはあまり関係のないことだった。安くてたくさん食べられたらそれで良いのだ。それ以上、それ以下もない。今日はいつもと違ったメニューになるだけだ。
ボウルに盛られたかいわれ大根の山からは異臭が漂っていた。ドレッシングをかければ誤魔化せるだろう。そう思ってかけたドレッシングからもまた異臭がした。賞味期限は先月であった。構うもんか。俺は柿崎ワタル。これぐらいの危ない橋くらい渡らなきゃ名前も廃ってしまう。どちらにしてもお前はいてもいなくてもいい人間なんだ。気にするな。そう自分に言いきかせて口の中へ一気にかき込んだ。
激しい腹痛と薄れ行く意識の中で柿崎は思った。このまま死ねたらいい。その方がラクだと思った。かいわれ大根と賞味期限の切れたドレッシングを食べて食中毒で死んだ二十代後半の成人男性。ニュースにもならないかもしれない。いや、あるいは死をもって彼の名声は最大値に到達して世の中に【かいわれで死んだ男】として広く認知されるかもしれない。朦朧とした意識の中で柿崎は体の感覚がなくなっていくことに気づいた。その内、痛みも消えて体もすっかり軽くなっていた。上下左右前後。いつもと変わらない景色がある。かいわれ大根の入ったボウルも目の前に転がっていた。そこには何も変わらない日常があった。
それから柿崎がどうなったかは分からない。けれども一応、彼のことは実家の人達が何とかしたようだった。当の本人はというと相変わらず誰も気づかないような薄いオーラをまとって生きていた。今となっては食事も睡眠も必要なかった。貯金残高や次の仕事で頭を悩ます必要もない。柿崎はただ行きたいところに行くだけだった。どこへ行っても何をしても、彼のことを気にする人間など誰一人として現れなかった。
けれども柿崎ワタルは幸せだった。何の制約もない空間の中を、何も気にすることなく、ただひたすら、永遠に、いつまでも漂っていた。




