領主なんて責任の重い仕事、オギャらないとやってられね〜〜!
伯爵位を継いでからというもの、私の胃は常に悲鳴を上げている。
前世では経営シミュレーションゲームが好きで、都市開発や資源管理をして一晩中遊んでいた。数字を並べて最適解を導くのは楽しく、頭の体操のようなものだったのだ。
だが、当然のことながら現実の領地経営は全然違う。
あの頃は、飢えようが凍えようが、それは意思も心もないデータ上の数字の話でしかなく、たとえミスしてもリセットボタンひとつでやり直せた。
今は、違う。
農民が凶作に泣けば、それはそのまま飢え死にに直結する。賦役を軽くすれば財政は赤字に傾き、重くすれば反乱の芽が育つ。兵を養わねば外野に搾取され、兵を増やせば領民の生活が圧迫される。
すべてが細い綱渡りで、私の采配一つで数百、数千の人間の運命が揺れるのだ。
「ぉえ"っ……むり……やめたい……」
机に積まれた報告書を前に、思わず情けない声が漏れる。
羊毛の相場が下がったとか、麦の収穫が昨年比で減ったとか、井戸が枯れそうだとか。どれも軽く見えて、実際には命綱そのものだ。
民衆の生活が、子どもたちの食事が、兵士たちの命が、この一筆の署名や一つの決定にかかっている。セーブもロードもない。失敗したら、普通に人が死ぬ。視察に赴くと遠くから手を振ってくれる、彼ら彼女らの話だ。
「う"……吐きそ……命が重い……勘弁してくれぇ……」
私はマホガニーによく似た美しい木材で出来た執務机にぐったりと突っ伏した。しかし資料からは目を離さず、横目で数字を確認する。書類の紙の匂いさえ最近は冷や汗を誘った。
それでも、逃げられない。
三年前の冬、十四歳の時分に馬車事故で両親を同時に亡くしたせいで、若過ぎはするが幼過ぎはしない私が伯爵位を継ぐしかなかったのだ。
父方の親族は仲が悪すぎてとっくの昔に絶縁しているらしく、母方の親族……叔父一族は子爵位だ。何かと気にかけてくれてはいるが、伯爵領の経営に手を出せる立場にない。唯一の肉親は二つ下の妹のみ。
元より長女たる私が伯爵位を継ぐ予定ではあったのだが、それはもっと勉強して、父の補佐をしながら引き継ぎをし、私の子に継がせるまでの中継ぎのような形を想定したものだ。こんな突然、全権を負わねばならないとは。
歴代当主たちが育ててきた優秀な家臣たちのお陰でどうにかこうにかやっていけているが、じゃあ私じゃなくて良くない?? その辺の犬とか鳥とか連れてきて座らせといたら良くない???? だめ? そっか……。
ハフハフと喘ぎながら書類にサインをし、領主印を押し付ける。
「印章が重いよぉ……投げ捨てたいよぉ……だれかかわりにおしてよぉ……」
「領主以外に領主印を渡したり盗られたりすると首が飛びますよ」
「ヴヴ……」
「因みにそれを造るのに伯爵領の年間予算は吹っ飛びますから、投げて壊したりなどしないように」
「イ"──ッ」
優秀な家臣筆頭、先々代から仕える執事長のヴァルニスの忠告に、手にしていた金の印章をそっと置いて、不要になった付箋をペッッ!と放り捨てる。
八つ当たりされた付箋ははらりと机の上に落ち、ヴァルニスの孫である執事のアスリオに拾われ、処分する書類を纏めた書箱に重ねられた。
「働きたくないでござる! 働きたくないでござる! 人の人生を背負える度量なぞない甘ちゃんなんだぞ私は! 甘やかせ! おぎゃーッ!」
「ルナヴィア様は今日も生きてて偉いですね〜。上手に呼吸出来てますよ〜」
「バブーッ!」
アスリオによちよちされて幼児退行しながら、書類にサインを入れ付箋に『資料庫D-25の資料参照』と書き付け貼り付け差し戻しの書箱に重ね書類にサインを入れ印章を押し計算違いにチェックを入れ書類にサインを入れた。
アスリオは肩ほどまで伸ばした艶のある黒髪ををきっちりと後ろで纏めた、同い年の美少年だ。見慣れた髪色には親近感を抱かせる。
私は次期伯爵、彼は次期執事長という立場で産まれ、幼い頃からセットのように扱われてきたこともあり、きょうだいのような存在である。昔は転生者たる精神年齢の違いにより何かと世話を焼き弟のように可愛がっていたのだが、近年は立場が逆転している気がしないでもない。
私のことをよく理解しているアスリオは執務に関して褒めると『プレッシャーになるから仕事の出来で褒めるのはヤメテッ! イヤッ!!』と我儘を言われることが分かっているので、全然別の低いところでよちよちしてくれる。
が、ヴァルニスはそう甘くない。
「ルナヴィア様はよくやっておられるのですから、もっと自信をお持ちになってください」
「プレッシャーになるから仕事の出来で褒めるのはヤメテッ! イヤッ!!」
「伯爵位を継いでからも領政は安定しており、財政も同様。試算では上向きの想定でしょう」
「試算は試算ぢゃん……人生何が起きるかわかんないぢゃん……」
領地を発展させるにはお金がかかり、お金を稼ぐには領地を発展させねばならない。とんだ無理ゲーである。
私のチートである前世知識の利用……といっても、それには技術と時間とお金がかかる。
今は無色一辺倒だった紙に色付けや装飾を入れたりとか付箋を作ったりとか燻製に香り付けのレパートリーを増やすとかオセロ作るとか、"今ある技術に軽いプラスアルファ"をして小金を稼いで真似されたら即撤退、を繰り返している。
そして稼いだ小金で災害対策をしたり社会保障を見直したり教育機関の計画を立てたり街道建設や井戸を手押しポンプに置き換えるなどインフラを整備したり前世の技術をちょっとずつ研究させたり。
そうするとどんどんお金が消えていって……。でもこれはマイナスを防いだり長期的なプラスを狙っていくものだから……そう自分に言い聞かせるものの胃はしくしくと泣いている。
怖いヨォ……無課税で5000兆円欲しいヨォ…………通貨円じゃなかったわ。
アスリオは「ルナヴィア様は領民にも評判ですよ」と励ましてくるが、それは『若ぇお嬢さんがまぁ良うやっとるわ』という社交辞令であり、『優秀な家来がおるんやろなぁ。そいつらに任せて要らんことせんだけ偉いもんだわ』くらいに思っているのだろう。え? ただの事実じゃん。
ぐずぐず言いながら書類を捲っていると、積み上がった紙の山の残量を確認して、ちらと時計を見遣ったヴァルニスが再び口を開く。
「そろそろ時間ですね。私とアスリオは一時下がらせていただきます」
「ヤダーッ! ヴァルニスもアスリオもここに居て! 私がひたすら自分の名前を書くのを見守ってて! 見て! "ヴィア"の綴りが上手に書けたの!」
「代わりにミレイラを寄越します。それでは」
「失礼いたします」
「エェーン……」
無情にも二人の執事は執務室を出て行ってしまった。
最近、アスリオはヴァルニスの個人授業を受けているらしい。そろそろ本格的に筆頭執事としての仕事を引き継いでいくのだろうか。既に結構しっかり執事業をこなしていると思うのだけど。
アスリオの教育も本来はもっとゆっくり進める予定だったのだろうが、私が当主を継いだことで相当急いだようだ。この授業もその一環だと思うと少しばかり申し訳ない。
「ヴァ──! わかんない! あたち5歳児だから! 7桁の計算なんてできない!」
「ルナヴィア様は5歳の頃、既に四則演算を使いこなしておられましたよ」
「迂闊な転生者がよォ! 調子に乗りやがって!」
二人と入れ替わりにやってきた私の専属侍女であるミレイアが、ガリガリと数字を書き連ねて確かめ算をする私の口元にクッキーを運びながら笑う。
執務室に入れるような立場の家臣団には転生のことを告げてある。前世知識に基づく提案をする際、一々言い訳を考えるのが面倒だったので……。
それまでは一応家臣たちも幼い当主に気を遣って遠慮していた節があったのだが、前世のことを話した途端『ほなええか』と言わんばかりに本格的に執務を任せだしたのを思い出す。迂闊な転生者が調子に乗りやがって。苦労するのは明日以降の自分だというのに……。
それからというもの、日々プレッシャーに押し潰され泣き喚きながら領政に励んでいる。
面倒な主をよちよちしながら仕事をしなければならない家臣たちには大変申し訳なく思っているが、仕事自体はきちんとしているので許して欲しいところである。こんな仕事金払いがよくなきゃやってらんないよな。
「ミレイアは優しいね……お賃金上げようね……」
「去年屋敷の給与体系を見直して全体的に昇給なさったばかりでしょう。いりません」
「課金させろッ。生き甲斐を奪うなッ」
ミレイアにオギャりながら仕事を進めていると、執務室の扉がノックされる。
「失礼いたします。ルナヴィア様、よろしいですか?」
「いいよ〜。どしたの?」
入室許可を得て入ってきたのは妹の侍女だった。
「ライゼル様がいらしております。今は応接室でお待ちに」
「えぇ? またアポなしで来たの? 放っといていいかな」
「それが、ルナヴィア様にお話があるそうです」
「ライゼルが? ……なら余計にアポを取れではある」
ライゼルは子爵家の三男坊であり、婿入り予定の私の婚約者だ。
十歳の頃からの仲だが、完全なる政略結婚の相手であり、互いに興味関心がない。
政略、といっても事業提携などの話があるわけではなく、継承する爵位のない三男の行き場を探していた子爵家と余計な口出しのしてこない家からの婿が欲しかった我が家、という利害の一致程度の話ではあるが。
以前は婚約者の体裁として最低限のやり取りは交わしていたが、私が当主を継いで忙しくなり『今余裕ないからちょっと待って』とやったら、『ほなええか』と言わんばかりにほぼほぼ没交渉にされていた。
それ自体は構わないのだが、最近、彼はアポなしで屋敷にやって来て、仕事中の私が構えず放っておくと暫くして帰る、という奇行を繰り返している。
私と歩み寄ろうとしているのかとも思ったがしかし、それなら事前に連絡して私の予定を空けさせておくべきだし、待っている間に「少しでいいから顔が見たい」などの要求もない。
何がしたいのかさっぱりわからなかったのだが、今日判明するのだろうか。
「じゃあまぁ行くかぁ……」
「お召し替えなさいますか?」
「うーん、別にいいんじゃない? 髪だけやって〜」
「かしこまりました」
ミレイアが背後に立ち、慣れた手つきで私の髪に櫛を入れた。執務中は下ろしている薄紫色の髪が整えられていき、照明の光をまろやかに反射する。
「……今日も少し乱れていらっしゃいますね」
「だって書類とにらめっこしてたら、手でわしゃわしゃするじゃん。現実逃避ってやつ」
「女伯爵らしからぬご説明ですね」
呆れを隠さない声色ながらも、ミレイアの手つきはとても丁寧だ。梳かれるたびに髪の根元から肩へと心地よい音が走り、こわばっていた頭皮の緊張が少しずつ解けていく。
ミレイアの指が器用に髪を編み込み、きゅっとリボンを結ぶ音がして、完成を告げられる。
「……よし」
私は立ち上がり、ぐっと背筋を伸ばす。
「お嬢様モード、オン!」
「はい、では笑顔もお忘れなく」
「笑顔? ……ひきつってない?」
「……五割くらいは大丈夫です」
五割かよ、と心の中で突っ込みつつ、私は婚約者の待つ応接室へと歩き出した。
「ルナヴィア。君との婚約を破棄する」
「……はあ」
応接室には壁際に侍女が数人としれっと居るヴァルニスとアスリオ。そして向かい合った二脚のソファに私と、そして正面に座るライゼルと妹のエリフィア。
「……理由を伺っても?」
問うと、ライゼルは隣のエリフィアへちらりと視線を流した。エリフィアもそれに気付き、二人の視線が一瞬交わる。
ライゼルは水面をすくい取ったような淡い水色の髪をしており、その色合いは柔らかくも美しく、光を受けて冷ややかな輝きを放っている。
妹であるエリフィアは私と同じ薄紫の髪色だが、私はどちらかというと青寄り、彼女は赤寄りのピンクっぽい色合いだ。
そして同じようにどちらの顔も母似だというのに、エリフィアは奇跡のバランスでもって素晴らしく愛らしい顔立ちをしている美少女。
それなりにイケメンであるライゼルと並ぶと、表面的にはお似合いにも見える。
「私は……エリフィアを愛してしまった」
ライゼルは、大義名分を掲げるような口調で言った。
「君は確かに賢く、若くして立派に領主として務めている。だが、私の心は彼女に奪われたのだ。……婚約を続けることは、互いのためにならないだろう」
まるで英雄的な決断でも下したかのように言い切るライゼル。
「ごめんなさい、お姉様。私が……」
「エリフィア、君は何も悪くない! 愛してはいけないと知りながらも、どうしても心が惹かれてしまった……罪深いのは私だ! 君はただ、私の想いに巻き込まれてしまっただけなんだ!」
「ライゼル様……」
エリフィアが私に向けて困ったように微笑んで言いかけたのを遮って、ライゼルが身を乗り出す。
ライゼルがこんなに喋ってるの、初めて見たな。
「どうか理解してほしい。私は君を傷つけるためにこうしているのではない。だが、心を偽ってまで婚約を続けるのは君を欺くことになる。それだけはしたくないんだ、ルナヴィア!」
「わかりました。それでは破棄で」
「えっ。……良いのか?」
「? えぇ」
今は亡き両親が繋いだ縁を絶ってしまうのは少しばかり心が痛むが、二人が遺してくれたもの、守っていくべきものはまだ他にもたくさんある。婚約の一つくらい無くなっても構わないだろう。
私は壁際に控えるヴァルニスに視線を向ける。彼はさっと近寄ってきて、書類を数枚差し出してきた。
一束は婚約締結時に交わした条件や宣誓を記した契約書。もう一枚は婚約破棄の届。
届には既にライゼル側の有責である旨やそれに伴う賠償についても記入されており、あとは私と彼のサインを入れるだけで済むようになっている。……用意のいいことで。
内容を確認し頷くと、同じものがライゼルの前に置かれる。
紙面に目を走らせたライゼルの表情が一瞬凍り付くも、沈痛な面持ちで首を振り「仕方がない。婚約者がありながら真に愛すべき者に出会ってしまった私が悪いのだから……」とサインした。
本来なら婚約破棄は互いの両親の許可を得なければならないことだが、私の婚約に関する権限は現当主である私自身が有している。……もし万が一ライゼルの両親に話が通っていないとしたら、それは彼の責任だ。
届にお互いの署名が間違いなく記されたのを確認し、ヴァルニスに預ける。
書類が王城で承認を受けるまで手続きは未完了だが、これで私たちは婚約者ではなくなった。
……危なかった〜。
正直な話、仕事に託けて放置していた旨を理由に破棄を求められたら分が悪かった。せいぜい『お互い様』に持っていって白紙、或いは解消で終わっただろう。
そうなったら一銭も貰えなかった。
自分から心変わりを宣言してくれて有り難い話だ。お金はいくらあっても足りないので。
私が内心で息を吐くと同時に、ライゼルも長年の鎖から解き放たれたように、ふっと息を吐いた。
そして私から視線を外し、すっとエリフィアの方へ体を向ける。自然な流れのように、しかし明確な意図をもって。
「エリフィア。私は今、自由の身となった」
その瞳には真剣さと陶酔が入り混じり、水色の髪を揺らしながら彼女へと身を傾ける。
「この先の未来を、共に歩んでくれないか? 君だけを愛し、君を守り抜くと誓おう。どうか、私と結婚してほしい!」
「? いいえ」
エリフィアは小首を傾げ、あっさりと、むしろ不思議そうに即答した。
「……えっ」
「ライゼル様とは結婚しませんわ」
「……え、な、なぜ、」
エリフィアは「何故って……」と困ったように小さく眉を寄せた。
困惑するライゼルが目を瞬かせ、口をぱくぱくと開閉する。自信に満ち溢れていた声は、次の瞬間には頼りなく震え始めていた。
「だって、それでは……私と君は、互いに惹かれあって……」
「え? 貴方が勝手に私を好きだっただけでしょう?」
先ほどまで芝居がかった余裕の笑みを浮かべていた唇が、引き攣った。
「そ、そんなはずはない! だって、君はいつも私に微笑んで、」
「淑女の礼儀として笑っているだけですわ」
「こ、この前、庭園で花を差し出してくれた!」
「部屋に飾るために摘んだ花を持っていたら、ライゼル様に遠回しにねだられたので」
ライゼルは次々と"愛の証"を探し出しては口にするが、そのたびにエリフィアがさらりと切り捨てる。
彼の顔が見る間に赤くなり、額に汗が浮かんだ。
「わ、私の気持ちに……気づいていたはずだ! 視線を交わしただろう、微笑んでくれただろう!」
「誰にでもすることではないですか。……まさか、それだけで両想いだと勘違いなさっていたのですか?」
顔を見合わせて絶句するライゼルとエリフィア。
私は紅茶を啜りながら、必死に吹き出しそうになるのを堪えていた。
……果たしていつの何がきっかけだったかは知らないが。ライゼルが最近屋敷にやって来ていたのは、エリフィアに会うためだったらしい。
私が仕事で放置しているとはいえ、婚約者でありお客様であるライゼルを屋敷に一人で野放しにしておくわけにはいかない。私の代わりに彼の対応をしていたのがエリフィアだった。
とはいえ、二人が私の目を盗んで愛を育んでいたという事実はない。
二人のやりとりはきちんと侍女から報告を受けている。ライゼルはそれとなくさりげないアピールをしていたようだが、エリフィアは至って常識的な振る舞いしかしていなかった。何故両想いだと思ったのか、私にもわからない。
けどまぁ、接客用の愛想を勘違いするお客とかも存在するわけだしなぁ……。
「大体、私と結婚って……。ライゼル様は爵位をお持ちでないでしょう? 平民になるのですか?」
エリフィアはまるで算数の問題でも問うように、淡々と問いかけた。
その声音に皮肉めいた響きはなく、ただ当然の疑問として発せられたことが、むしろ容赦なくライゼルの胸を刺す。
「い、いや、私と結婚して、君がこの家を継げば──」
その瞬間、エリフィアが雨上がりの地面をのたうつミミズを見るかのような視線を彼に向けた。
「……何故、幼少の頃より領主教育を受け、才も器も兼ね備えたお姉様を、他家に嫁ぐための教育しか受けていない私が蹴落とさねばならないのですか」
前半は兎も角、才と器はないよ……。
あればこんなに毎日悶え苦しんでないよ……。
でもそれを他家の者の前で口にできるわけもなく……。
「それに、万一それが通ったとして。家臣たちの大半はお姉様を追って家を出ますよ。そして外で力を蓄え、お姉様を担ぎ上げて私を追い落としに来ます。そして私は無抵抗で領主の座を明け渡しますわ」
「まさか、そんな……」
エリフィアの未来予想に、使用人ズが小さくコクコクと頷いた。嘘だよね……? 私が領主業の重圧から解放されたことを、共に喜んではくれないのか……?? ドウシテ……。
「そもそも、貴方の何処に魅力を感じればいいのです? 爵位もない。学もない。気遣いもない。貴方に嫁いで何の得があるのですか」
「エリフィア」
思わず口から漏れたのは、姉としての小さな制止だった。言い過ぎじゃない……? ライゼルがあまりにも哀れだろう。
「まあ、お姉様が当主として"嫁げ"とおっしゃるのであれば、隣国だろうが平民だろうが輿入れますが」
「貴女が望むのであれば隣国だろうが平民の男性だろうが輿入れを許可するけれど、貴女が嫌なのなら王族だろうが許可しません」
「ではやはり無しですね」
結論をさらりと下すエリフィア。
私はそのやり取りにまた一つタスクを思い出して内心頭を抱えた。そうだ……。エリフィアの婚約者探しもしなくては……。
彼女の縁談は我が家の政治的にも大きな意味を持つ。しかし私としては本人が幸せになれる選択をしてほしいと思っているし、そう伝えてもいる。
けれど当の本人は「お姉様が家のためになる縁談を選んで。私はどこでもいいわ」と信頼と放任をないまぜにしたような笑顔で言ってのけるのである。
見る目はあるんだからもう自分で見つけてきてほしい……。でも放っておいたら「これなら間違いなく役に立つでしょう!」と公爵だの王族だの捕まえてきそうで怖い。
脳内で貴族名鑑を捲っていると、最早エリフィアに何を言っても響かないと察したのか、ライゼルが苛立ちを隠さず、怒りの表情でこちらを振り返った。その目は混乱と焦燥で濁り、視線は明確に私へと矛先を向けてくる。
「っそもそも! 君が私を放っておいたのが悪いんだろう! 忙しい忙しいと会いもせず、婚約者として尊重された記憶が無い!」
私はその言葉に驚き、ぱちりと目を見開いた。
「えっ。自我のある人間として扱って欲しかったんですか? それならそれらしい振る舞いをしていただかないと……。私はてっきり、貴方は"自我のないお人形さん"として婿にくるつもりなのだと……」
「は……?」
──嫁だろうが婿だろうが、婚家から求められるものは変わらない。
まず第一に次代をもうけること。これは大前提。
その次に大切なこと。それは"婚家に不利益を齎さないこと"だ。
婚家に利益を齎してくれるのはありがたい。
社交で人脈を築く。使用人を掌握しモチベーションを保つ。執務を手伝って負担を減らす。商会を設立して金銭を得る。大変良い。助かる。神。
そういった目に見える利益を作り出す能力がなかったとしても、精神的に当主を支える、癒しを与えるという役割もある。
もちろん、人間は完璧ではない。利益を齎す側の"自我のある人間"たちも失敗することはある。
しかしリカバー可能な範囲の失敗であれば許されるものだ。それは、培ってきた信頼と実績あってのこと。
だが、『利益を得ようと下手に動いて多大な不利益を齎すくらいなら、居てもいなくても変わらない存在でいてくれた方が百万倍マシ』、というのが貴族の家の共通認識だ。
ただ、女当主はどうしても妊娠出産の時期に動けなくなったり、そのまま儚くなってしまう危険もある。婿は最低限当主代理が務まるくらいであって欲しいのだが、ライゼルは……。
婿入りに備えて我が家の領政について勉強するために屋敷に来るように、と指示しても『当主であり執務をするのはルナヴィアだから』と断っていた。
まぁそれは言い換えれば『弁えている』とも言えたし、一番困るのは代理を務めている間に欲を出しはっちゃけることなので、家臣たちに丸投げしてもらった方がマシ、ということもある。
やはり"自我のないお人形さん"として徹底した姿勢、と受け取っていたのだ。
そう言うと、ライゼルは愕然とした表情で私を見つめた。
「……お人形、だと……」
呟きは、呻きのようで。信じられないという色が濃く滲んでいる。
だが私は淡々と続けた。
自我のある人間として扱って欲しいのなら、それ相応の振る舞いというものがある。
お人形さん扱いの所以に卵が先か鶏が先かの話をするなら、間違いなくライゼルが先だ。
きちんと口頭で確認しなかった私も悪いといえば悪いが。私なら喜んでその立場になるので、すんなり『そっか〜』と納得してしまったのだ。
勉強に関してもそうだし、メッセージや手紙のやり取りもそう。
ライゼルと婚約したばかりの頃、こちらから手紙を送ったら、手書きの返事が来た。それに返信すると、その返事は代筆だった。
それ以降、季節の手紙も誕生日プレゼントに添えられたメッセージカードも、全て代筆。
だけどそれ自体は別に構わなかった。その時点で"そう"したいんだな、と判断して、私も途中で代筆に切り替えたし。
「"自我のないお人形さん"でも、人間である以上、食事や睡眠が必要でしょう? 貴族にとって、体裁を保つ、という姿勢はその延長線上にある、必要最低限のことです。夜会に揃いの衣装でエスコートしたり、夫婦仲をよく見せたり。そういうのが必要だということはわかりますよね?」
必要なのは、『婚約者としてやり取りをしている』という事実であり、体裁。
プレゼントも文面も使用人任せだろうが、名義さえお互いであれば成立しているのだから。
しかしここ二年、ライゼルからは誕生日プレゼントすら届いていなかった。
私は一応、使用人に任せて例年通り届けていたが、流石に使用人が指示も無しに勝手に手配できるものでもない。本当に放置していたのはライゼルの方だ。
「贈り物もない。手紙もない。会話もない。ですから、貴方は"何もしたくない"タイプなのかと。きちんとした関係を結びたかったのなら、何故私と話をしようとしなかったんです?」
「そ、それは……。君が、領主として……常に忙しいのを知っていたから……」
声はかすれていた。言葉を紡ぐごとに、自分の中の言い訳を手探りで引っ張り出しているのがわかる。
「それなら、体調を気遣う手紙の一枚、伝言の一つでも出せばよかったではないですか。そうすれば私も、貴方に"人間として扱われている"と感じたでしょうに」
執務や仕事がしたくないのなら、それでも良い。それなら精神的な支えになってくれるのかといえば、会話もなく、纏った衣装に対して一言褒められたことすらもない。
夫という役のお人形さんをする以外に、ライゼルに何か存在価値があるのか?
「ですが、最近は少し感心していたんですよ? 説明がないので困惑していましたが、『婚約者の家に通う』のは立派な交遊の形ですから。その実態がなかったとしても、外からは分かりませんしね」
「お、俺は……!」
ライゼルは必死に声を絞り出す。しかし続く言葉は何もなく、ただ喉の奥でかすれた音を繰り返すばかりだった。両手を膝の上で握り締め、額には薄い汗が浮かんでいる。
ああ、この人は、何も考えていなかったのだ。
婚約という重みも、家を繋ぐ責任も、伴侶を得るという現実も。
子爵家の三男坊という立場ながら、早くに進路が決まっている余裕もあったのか。しかし領政を執る立場でもない、ただの婚約者という肩書きに胡座をかき、そこで思考を止めていたのだろう。
そして今ようやく、突きつけられた現実に直面し、遅すぎる戸惑いに苛まれている。
「まぁでも、このタイミングで良かったですね。結婚はもう少し先の予定でしたし……」
私たちの結婚は十八歳の成人後、つまり一年ほど先の予定だった。
現実を知った今のライゼルが相応に努力すれば、白紙になった進路もどうにか決まるだろう。
「貴方もまだ成人前でお若いですから、もしかしたら別の婿入り先を見つけられるかもしれませんし、就職先を探す時間もあります。今回のことを糧に頑張ってくださいね」
私の言葉は努めて柔らかくしたつもりだった。
だが、それが彼にとっては突き放す宣告にしか響かなかったのだろう。
ライゼルは俯いたまま指先を震わせ、声を押し殺すように搾り出した。
「ま、待ってくれ……。その……やっぱり、取り消さないか?」
「はい? 何を?」
わざと問い返すと、彼は縋るように顔を上げた。その双眸には涙が滲み、かつて見たことのない必死さが宿っている。
「こ、婚約の破棄を……」
口ごもる彼の声音は、惨めさそのものだった。
一度切った縁を、そんな言葉で繋ぎ直せると思っているのだろうか。私は小さく息を吐く。
それにびくりと肩を震わせたライゼルが必死になって言い募った。
「いや、その、お願いだ、ルナヴィア! 謝るから……」
「無理です」
「努力する! 手紙も、会話も、執務の補佐も、いや。"何もしない"でも良い! ただ置いてくれるだけでも……!」
「無理です」
断言するたびに、彼の表情が痛ましいほどに歪む。握りしめた拳は震え、目には焦燥の色が濃く滲んでいた。
先ほどまでの自信は完全に消え失せ、ただ必死にしがみつこうとする姿だけがそこにある。
「っ何故だ! 『居てもいなくてもいい存在』だったのだから、これからも居て構わないだろう!」
「貴方が婚約破棄を宣言した時点で、貴方は『居てもいなくてもいい存在』から『居たら害を齎すかもしれない存在』になったんですよ」
彼は愕然とした顔を浮かべた。口を開き、すぐに閉じ、再び口を開く。
「二度と、二度と不利益になるようなことはしない! だから……」
「信用できません」
彼の声は震え、必死さが伝わる。だが、私は首を横に振った。
「貴族の婚約はきちんと書面を交わし、誓約した"契約"です。貴方はその契約の破棄を一方的に宣言した。そんな方の"口約束"に、どれほどの信用がありますか」
「きちんと契約書を交わす! 次は決して破らない!」
「ですから、その宣誓に信用がおけない、という話です」
必死に縋りつく言葉。しかし、彼がどれだけ強く叫んでも、過去は消せない。
淡々と返すと、ライゼルは一瞬何かを言い返そうと口を開いたが、声は出なかった。沈黙の中で、彼の喉が上下する。
焦りと後悔が渦巻き、しかし打つ手は何も残されていない──それを理解している顔だ。
「私には伯爵家当主として、守るべきものがたくさんあります。領地、領民、家門、家臣や家族。先ほどまではそこに、婚約者であった貴方も一応含まれていました。ですが……他の守るべきものに害を与えかねない存在を、抱え込んではいられません」
悔しさか、不透明な未来への恐怖か、あるいは喪失の痛みか。
そのどれもが入り混じったライゼルの青褪めた顔を見つめながら、噛んで含めるように語って聞かせた。
領民、家臣、家族。守るべき彼らが、罪を犯すこともあるだろう。その時、私は当主であり領主として、その者以外を守るため、その者を罰し、切り捨てなければならない。
例外はない。それがたとえエリフィアであったとしても、だ。
今回はそれがライゼルだった、というだけの話。
罪と呼ぶほどのことではないが、これを許せるほどの信頼と実績は、彼に無い。
やがて私は小さくため息をつき、最後の言葉を口にした。
「ライゼル様。どうか、これ以上私を困らせないでください。貴方に残された時間を、別の未来のために使ってください」
部屋の外に向けて「ライゼル様がお帰りです」と声をかけると、扉が開いて伯爵家の騎士が一人、入室してきた。
大柄な彼は騎士団の副団長であり、ヴァルニスの息子、アスリオの父だ。代々執事の家系に根っからの武闘派として生まれ育った突然変異種である。
今年十歳になるアスリオの弟は「お祖父様のような執事になる!」と言っているらしいので、やはり完全な変異体だ。
副団長が恭しく一礼し、私のわずかな頷きを受け取ると、躊躇なくライゼルの傍らに立った。
「ライゼル様。お出口までご案内いたします」
低く響く声に、ライゼルはびくりと肩を揺らした。軽く促され、ライゼルは立ち上がる。
意気消沈した彼の横顔は、先ほどまで見せていた必死の形相からさらに崩れ落ち、ただ生気の抜けた仮面のようだった。鮮やかな水色の髪が乱れ、眼差しは床へと落ちて動かない。
やがてその姿は副団長の大きな背に遮られ、視界から消える。
扉が閉ざされる音が、静かな応接室に小さく響いた。
「エリフィアの婚約どうしよ……」
「この状況で出てくる第一声がそっち?」
執務室の椅子に沈み込み、書類の山を前に天を仰いでぐったりと吐き出した私に、ついて来たエリフィアが休憩用のソファに腰かけながら即座に突っ込みを入れてきた。
「お姉様の新しいお相手を探す方が先でしょう」
「いや家付き娘を狙ってる次男三男なんていくらでもいるし、私はずっとこの家にいるわけだけどさぁ……やっぱり嫁入りともなるとお相手との相性も重要になってくるわけで……」
「お姉様の判断を信用してるわ〜」
「ン"ィ〜〜〜〜」
アスリオが机の上に並べてくれた便箋にライゼルの両親宛の報告を書き付けながら唇を噛む。信頼が重い……。
ペンを走らせる手を止め、思わず独り言が漏れる。
「とはいえ私の婚約もどうにかする必要があるのも事実……」
こちらも同様に、身分よりも相手の人柄が重要になってくる。
だが正直なところ……あまり交友関係に自信がなく、当てがない。この三年は視察のついでに領内貴族との交流はあったが、外のお茶会なんかにはとんと出ていない。ちょうど今年の社交シーズン辺りから、ライゼルを伴っていくつか出席しようと思っていたのだが……。
こうなってはエリフィアの友人関係を当てにする他ない。が、ぶっちゃけその辺りはエリフィア目当ての人間ばかりだからなぁ……。本腰を入れて探せば一人くらいは私でもいいと言ってくれる人がいるかもしれないが。
「お姉様なら頭の良い、仕事のできる男性がいいのではなくて? 探してみましょうか」
「う〜〜ん、でもなぁ……」
私は椅子の背にもたれかかり、天井を見上げて唸った。白漆喰の天井には小さめのシャンデリアが吊るされており、まぶしい、というより目に刺さる。
「そういう男性って"自分のやり方"があるでしょ……プライド高そう……。もちろん相談はするけど、結局裁量権は私にあるわけで……。相手を立てながら調整するなんて人間力の高いスキルは持ち合わせてないんだよなぁ……」
私の声には、愚痴とも弱音ともつかない響きが混ざっていた。領主として振る舞う時の毅然とした調子からはかけ離れた、素の私の声。
エリフィアはそれを受け入れるように、特に驚いた風もなく頷く。
「まぁ確かに、新たなストレス源を抱え込む必要はないわね」
「ね〜」
エリフィアと同意し合ったその時、後ろに控えていたヴァルニスが低く咳払いをして、「失礼ながら」と口を挟んだ。
「そのことですが、ルナヴィア様」
「うん?」
「うちの孫は如何でしょう」
「うん??」
耳を疑うような言葉に、思わず声が裏返った。
ヴァルニスの孫、というと。
ちらりと視線を横へ向けると、そこにはきちんと背筋を伸ばしたアスリオがいた。彼は私の目を真っ直ぐに見て、静かに頷く。
「祖父より領主補佐として執務の代行に適うよう、教えを受けて参りました」
「未だ足りぬところもありますが、既に半年程度であれば問題なく代理が熟せるくらいには仕込みましたので」
「最近の授業って、それかい……」
唖然と二人を見遣った。どうやら私が気付かないところで、着々と次期婚約者候補として仕込まれていたらしい。
近い内に"こう"なると予想していたのか、はたまた頼りにならないライゼルのフォローをするつもりだったのか。
「いつから想定してたかは知らんけど……なんか手間をかけさせて申し訳ない」
「いえ。私が自ら望んだことですので」
「ええ??」
そうなん?とヴァルニスを見ると、彼はこくりと頷いた。ええ……物好き……。
だがアスリオは揺るぎなく、むしろ『最初からそのつもりだった』と言わんばかりだ。
「執事としてお仕えするのも、夫としてお支えするのもそう変わりませんので。しかし夫としてルナヴィア様のお傍に置いていただけるなら、これ以上のことはございません」
アスリオは穏やかな声音で言った。真剣さを押し付けるでもなく、淡々と事実を述べるかのように。
けれど嘘は一つもない。それくらいは長年の付き合いで分かる。
いや、でもさぁ……。今までアスリオのこと、そんな風に意識したことなんてなかったわけで……。
「いいじゃない。アスリオなら信用できるし、お姉様と仲もよろしいし」
エリフィアがさらっと賛成の意を示す。まるで昼食の献立を決めるくらいの軽さで言うものだから、こっちは余計に動揺する。
「えぇ〜〜、でもぉ…………」
「あら、嫌なの? 身内から身内になるだけじゃない。お姉様もアスリオになら甘えられるでしょう?」
「嫌なわけじゃないけど〜〜……それはなんか照れ臭いっていうか……」
「普段あれだけの醜態を晒しておいて……?」
エリフィアが心底困惑した顔で眉をひそめる。何が違うのか理解できない、と顔に書いてある。
けど、やっぱり執事としてきょうだいとして甘えるのと、夫として甘えるのは違うっていうか、わかんないっていうか……。
……そこまで考えて気付いた。そもそも旦那さんに甘えるという発想が今までなかったのだ。ライゼルはアレだったし。だから上手く想像できないのだ。
「ほら、アスリオももっと説得なさい」
腕を組んで身体を傾けて唸る私を見て、エリフィアが片眉を上げて挑発するように言った。からかい半分、本気半分といったところか。
彼女の煽るような視線を受けたアスリオは、ふむ、と短く息を吐き、一拍考えると、いつもの落ち着いた声音で口を開いた。
「他の男と結婚したら、流石に俺がよしよしすることは出来なくなるね」
「それは死活問題だわ。結婚しよう、アスリオ」
口から出たのは半ば本能的な叫びであった。
アスリオがにこりと柔らかく笑って、「よろこんで」と即答する。
今は身内のこととして内輪ルールでゴリ押しているが、流石に結婚までしたら異性との距離は徹底しなければならない。今までのような気安いやり取りは許されなくなる。
アスリオからのよちよちが無くなるのは確かに致命的な問題だ。結婚するしかない。
エリフィアとヴァルニスが呆れたように同時に息を吐いた。
「まぁ話が纏まったならそれでいいわ」
「ルナヴィア様、サインを」
ヴァルニスが机に紙を滑らせる。婚約届だ。既にアスリオの名前は記入されている。……用意のいいことで。
有って無いような条件にもざっと目を通し、自分の名前を書き入れる。さらさらと流れるように筆跡を残し、最後の一画を書き終えると、ヴァルニスは速やかにそれを回収した。
そして「じゃああとはお任せね」と手を振るエリフィアと一緒に出て行った。ライゼルとの婚約を破棄する届と同時に、あの書類も王城に着くことになるのだろう。
扉が閉まり、執務室に残ったのは私とアスリオだけ。急に静かになった空間に、どっと疲れが押し寄せてくる。
「髪解いて〜」
「はいはい」
気安い態度で応えたアスリオが背後に立ち、ミレイアが編んでくれた髪を器用な指先で解していった。婚約者になったのだから、これくらいの接触は許される。柔らかく滑る髪を梳く感触は、思わず肩の力を抜かせた。
この後もまだ執務は続く。婚約破棄と婚約締結騒動の疲れなど、領民には関係のない話だ。時間は止まらないし、即ち領政も止まらない。
「ヴ──ッ! づがれだッ! でも一日で解決して助かったッ!」
背後のアスリオの鳩尾にゴスッと後頭部を押し付けて伸びをする。彼は軽く肩をすくめて耐えてくれたが、その顔には微かな苦笑が浮かぶ。執事として立つ普段ならば決して見せない、素の反応だ。
「よしよし、お名前書くのが上手なルナヴィア様、こっちの書類を片付けましょうね〜」
「おぎゃ……」
アスリオはまるで幼児をあやすかのように手際よく、私の背後から軽く背中を押して、目の前に書類の束を山のように積み上げた。
だが、背後でアスリオが静かに寄り添ってくれていることを思うと、不思議と心は軽く、次の一歩を踏み出す勇気が湧く。
自分の領地、家臣、そしてこれからの未来を背負いながら、こうして支えてくれる存在が隣にいること。改めてそれがありがたいと実感する。
疲労と安堵、少しの甘えと温もりが混ざった感覚に、私はそっと目を閉じ……「やってられるか〜〜!」と喚きながらペンを執るのだった。
「ごめんなさい、お姉様。私が(あまりに可愛いばかりに阿呆が阿呆なことを言い出して)……」
「エリフィア、君は何も悪くない! ~中略~ 君はただ、私の想いに巻き込まれてしまっただけなんだ!」
「ライゼル様……(えぇ。だからそう言ってるんですよ)」
(なるほどな〜〜(完全理解))
お飾りにされそうな側のお話をたくさん読んでいただけたのでお飾りにしそうな側のお話を書きました。
お付き合いいただきありがとうございました。