文明イデア 6
昼下がりの執務室は、ブラインドが降ろされ、部屋中央のモニターのみが暗がりの中に煌々と灯っている。自席で腕を組んだまま、微動だにせず、ムサーイドは一人、モニターを見つめ続けていた。
文明——それは、この地、メソポタミアで興ったと言われる。紀元前九千年から一万有余年をかけて、人類が培ってきた、この文明の叡智が、間も無く……その膨大な時間の積み重ねが、瞬く間に失われるというのか?
モニターに映るEU支部IMCの一同は、<アマテラス>の動きを追う模式化されたフォログラムを皆、固唾を飲んで見守っている。そのEU支部IMCの全く同じ映像は、また別の、暗く閉ざされた何処かの空間に浮かび上がっていた。
「文明が失われる……おのれ……運命の輪…………我らもここまでか……」女の声は、明らかに動揺していた。
『……何を狼狽える……』
頭上から降り注ぐ、男とも女ともつかない声に、タロットカード『女司祭』が、そのまま形となったようなその女は、反応して振り向き仰ぐ。
闇の中空に、朧気に、人のような形が浮かび上がる。
伸ばした両手に短い杖のようなものを携えた、美しい曲線を描く女性のフォルム。蛇のように裸体に絡みつく羽衣を纏い、片膝を曲げ、軽やかに天空を舞い踊るかのような姿をした女らしき像が、金色の輝きを纏い、女司祭の頭上に現れた。
「ワールド様!」
女司祭は、片膝を落とし、首を垂れて畏まる。
『『運命の輪』が何をしようと、構うことはない』
動くことがない女の像の瞳だけが、言葉と共に明滅している。
「し、しかし……現文明が崩壊してしまえば……今、我らを支える……このテクノロジーも……ここも……」
『……何のための、このオービタルエデンか?』
女司祭は、ハッとしてやにわに顔をあげる。表情ひとつ変えることのない、女とも男とも見える顔の、『ワールド』の瞳が、じっと女司祭を見下ろしている。
「まさか……すでに……」
『彼らの兆候は、把握していた』
その声と共に、一つ、また一つと暗黒の周辺空間にウィンドウが開き、コマンドラインの羅列が駆け巡る。それに混じって、幾つもの画像データ、テキストデータ、音声、映像……ありとあらゆるデータで、空間は埋め尽くされていく。驚いた女司祭は、腰を浮かせ、それらを見回した。
****
NUSA新アメリカ合衆国ブロック深夜、IN-PSID NUSA支部——
「何が起こっている⁉︎」
部屋着にユニフォームジャケットを羽織っただけの姿で、マークはPSIクラフト、<リーベルタース>のメンテナンス制御室へと飛び込んでくる。制御室に居た当直の八名の作業員と、作業監督者ら三名は、寄り集まって制御モニターを見つめている。
NUSA支部技術部長を務める、五十代前半ほどの、がたいの良い黒人の男が、マークに気づいて振り向き、声をかけてきた。
「お休みのところ、すみません。整備中に突然……」
ガラス張りの窓越しではあるが、<リーベルタース>の機関駆動音が聞こえる。マークは、窓に寄り、眼下の<リーベルタース>を見下ろす。
上甲板の上、そして今は空の上部格納庫——あの忌まわしき重力子爆弾を積み込んでいた——には、整備機材がそのまま。機関の運転試験は予定されておらず、突然稼働を始めたため、万一に備え、整備作業を中断、作業員らも制御室に一時避難させたらしい。
「ワープ演算が稼働しているようです。ヴァーチャルネットの大量の情報を、どこかに次元転送しているところまでは……」
その場の皆が見つめる、制御モニターにマークも視線を移す。
「どこかとは?」マークは問いただす。
「それが……暗号化されていて……」技術部長は困惑気に答える。
「こんなこと……一日、二日でできやしねぇ!」
腰に手を当てた作業員の若い男が、苛立ちを露わに言い放つ。
「これもあの女の仕業じゃ……うわっ!」男は急に肩を後ろにグイと引かれ、驚いて振り向いた。
「言うな‼︎ 彼女はもう関係ない!」眉を吊り上げたマーク手が、肩に食い込み、男は顔を引き攣らせた。
「す、す……すんません……て、手を……」
マークは、掴んだ男の肩を無造作に突き放すと、黒人の技術部長に険しい顔を向ける。
「とにかく! この通信を特定しろ! いいな!」マークの命に、部長はひとつ頷き、その場の皆を直ちに解析作業に当たらせた。
****
『<リーベルタース>のワープ機関。あれが良い働きをしている……』
落ち着きはらったワールドの声音が、女司祭を包み込む。
「ヴァーチャルネットの全てのデータを……ここに?」
『……運命の輪が何をしようと……我らの『楽園』は磐石』
「それでは……」
女司祭は、表情ひとつ動かないワールドの顔を覗き込む。
『むしろ事が運び易くなるというもの……』
明滅するワールドの瞳に、女司祭は引き込まれていた。
『彼らの始末は、ジャッジメントに任せておけば良い。たとえこの世界がどうなろうとも』
『……ロザリア……其方がいれば、それで良い……』
「ワールド様……」
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「頭!」
夢見堂へと戻った夢見頭を、高齢の尼とその配下の者達が慌ただしく迎える。
「盈月? いかがした?」「夢見子達が……」
夢見堂は、栄螺堂となっている。螺旋状に昇る廊下、その並びに設けられた夢見子らの部屋から、幾つもの奇妙なうわ言が聞こえる。皆、何か同じ夢からのメッセージを受け取っているようだと、盈月は言う。
「小夜は……」言いかけて、夢見頭は言葉を切った。盈月は小さく首を振っている。
「そうであったな……水瓶を用意せよ。私も見よう。盈月、介助を」「は……」
盈月は配下を伴い、さっそく準備に取りかかる。
「小夜……」
堂の最上階の部屋を小夜にあてがっている。夢見頭が見上げる最上へと誘う螺旋の闇が、どこまでも果てしなく続いていた。
「小夜……小夜!」
太子の若き熱情と火照る身体に、小夜は身を委ねながら、変容した意識が広がりゆくのを感じていた。タントラ密教の流れを汲む『夢見』の秘術を叩き込まれた身体は、自ずと彼女の魂を肉体から解き放つ。今だけは……太子の手と組み重ねた両の手を握り締める。
見上げた天井は歪み、暗がりの闇が迫る。部屋の柱は次第に杉の大木へと姿を変え、身を横たえる布団も畳も、綿とい草の姿を取り戻し、やがて朽ち果て、草花、木々の肥やしとなっていく。
気づけば、あたりは原生林のような様相を見せていた。草花の根、蔓が伸び、もはや感覚も薄らいだ自らの身体に這い回り、蝕み始めた。
知覚する全てが闇に溶けてゆく。その中で、最後まで残ったのは、重ねた手の温もりだけだった。
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「……ノヴス・ドミヌス……いや、『運命の輪』! とうとう人類に見切りをつける……というのか、おもしろい」風辰は、モニターを睨め付けたまま呟く。
ムサーイドの義眼が映し取った映像は、先程からミッション経過を模式的に描いた図表のみ。異界船<アマテラス>からの通信も遮断され、覗き見るIN-PSIDのスタッフらも、しばらく声を上げることもない。
文明が滅びる、とIN-PSIDの者達は言った。だが、この場に集う黒服のリーダー格の男、闘にはそれがどういうことなのか、理解が及ばない。
「ふ、風辰様……いったいこれは……文明が……滅びるとは……どういう……」思わず、風辰に問いかける。彼の部下達も、風辰を窺い見た。
「うるさいぞ、闘」億劫そうに風辰は、徐ろに立ち上がる。パチリと閉じた扇子で、モニターに映る、動く三角形のマークを指し示す。
「良いか。あれはかの神子を宿し船。神子ある限り、この世は保たれよう。今、我らは見守る事しかできぬ。我らの命運、刮目して見届けよ!」
「は、はい‼︎」十数名の黒服の男達が、一斉にモニターへと視線を戻す。
……ふん……あの船に、よもや、現世の命運を預けることになろうとは……
憮然としたまま、風辰は扇で自分の肩を軽く二、三度叩いていた。
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……世界を司る大木の根……果てなく深い……
魂は深きところへ、更に深きところへ。その根を伝って。
……人が現世に創りしもの……時を超え……栄え……滅び……また栄え……
バベルの塔の内側に溢れ出るは、人の記憶……幾多の文明の記憶。
……破壊と創造……流転を繰り返す世の理……
……我は幾度も、幾度も……見てきた……
……いや……我は……
ユグドラシルの根の先に青白く仄かに光が見える。泉のようだ。
知っている……アムネリアの魂の記憶は、その場を知っている……そこは現世文明の源。
泉の中央に人のような影がひとつ。アムネリアの魂に惹かれるように、その者は、見上げる。
太陽の如く茜色に輝く髪、紺碧の海を映し取った瞳。天と地の狭間に立ち、万物を見通すという『神子』。
…………見ている? ……我は……
アムネリアの魂とその者の瞳が重なる。
……我は……其方……其方は……我か……
……我はまた、人と……
周りを覆い隠すバベルの塔の闇が次第に消え、泉が拡大する。同時に、その者の、茜色の髪は、艶やかな白銀へと変わり、生命の灯火を消し、微塵も動くことのない人形へと変わっていた。
アムネリアは、その動かなくなってしまった人形の頬に触れ、そっと持ち上げる。
……たとえ、それが過ちだとしても……
少女の形をした人形の口へ、そっと、自らの魂の息吹を吹き込む。
……何度でも……
人形の瞳に少しずつ、光が戻ってくる。
……私に呼びかける……貴女は誰……
アムネリアの魂と、人によって形作られた、その人形の基本人格プログラムが混じり合っていく。
……我は……アムネリア……
……私は……ベル……ベルザンディ……運命を決するもの……
……我は……人を解き放つ! 共に生きる為! ……