宿命の船出 1
球体の全周モニターは、船内システム回路を示す網の目模様を描き、その上を信号伝達を示す光の筋が高速で行き交い、各モジュールを示すパネル表示は、信号が通過するたびに、明滅を繰り返す。
『……<ノルン>メインフレームへアクセス……カーネル接続良好……』『……PSI-Link……機体制御情報……現時空間情報……取得開始……』
<ノルン>ブリッジ前列、左舷側にウルズ、右舷側にスクルドが、前方を向き立ち並ぶ。ガイノイドにシートは不要であり、二人の受け持つ席(ガイノイド・ポートと称される)は、簡素なコンソール、転倒防止の固定具、アームレストから成っており、ミッションの間、基本、立ったままオペレーティングを行う。
ブリッジ中央を大きく占めるフォログラム投影機を挟んで、その後ろは一段高くなっており、そこにソフィアのキャプテンシート、その左前側にベルザンディ用のガイノイド・ポート、右前側に、この数日で急拵えされた、アランの席が設けられていた。
『……タイムロスは現在、プラス八四〇セコンド。……原点時間同期補正、開始……』全周モニターに表示された、刻一刻と刻まれるデジタルタイマーを見つめながらウルズがコンソールに手を翳し、情報を入力していく。
スクルドもまた、同様に作業しながら口を開いた。
『……ソフィア……余計な手間を……運命は寸分の狂いを嫌うというのに……』
『問題ない……厳格にして、絶対……それこそ運命……』
『<ノルン>全システム、正常起動を確認。いよいよです。スクルド』
『ええ……わかってるわ。ウルズ姉さん』
『我らを生みし文明に……永遠の栄光と繁栄を……新たなる秩序を!』
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湿気を帯びたプラチナゴールドの髪は、流れるシルクのようだ。ベルザンディが、ソフィアのこの髪に、『美しい』という感覚を認識したのはいつだったか? メモリーを遡ってもはっきりしない。その感覚がどこから来るのかも……
ベルザンディは、ブラシでその髪を丁寧に解かしながら、ドライヤーを当てていく。
「ベルちゃん……そこはもうちょっと、ボリュームつけて……Nn〜〜Nn〜〜」
シャワールームの鼻歌をまだ続けながら、ソフィアは、メイクを整えている。
『ソフィア、こんな事してる時間は……また、あの二人に怒られますわ』
それには答えず、ご機嫌にアイシャドウを塗りながら、鏡を覗きこむ。
「Nn〜いい感じよ。ベルちゃん、だいぶ上手になったんじゃない?」『こういうのは、私の仕事ではないのですが……』
「いいじゃん、いいじゃん。びちゃびちゃのままじゃ、出ていけないんだし……humm〜〜」ソフィアの鼻歌が、盛り上がる。
『……また、その歌を……』「トリスタンとイゾルデ、『愛の死』。ワーグナーの最高傑作! まさしく至高の、愛の歌よぉ〜!」
ソフィアの鼻歌をベルザンディはしょっちゅう耳にしているが、そのタイトルを聞いたのは、初めてかもしれない。
『……ヴァーチャルネットのデータによれば、トリスタンと共に死にゆく、イゾルデが歌う最期の歌……ミッション前に……不吉ですわ』
「ふふ、ベルちゃん、わかってないなぁ〜。死は永遠の始まり。結ばれる事が許されない二人が、永遠の愛に満たされていくの。嗚呼、これぞ肉体を超えた魂の結婚!」
ソフィアは、手振りで髪型の追加注文をして、自分はまつ毛に取り掛かった。
「……一度だけ、アランと観に行った楽劇でさ。すんごいハマっちゃって……nm〜〜……ま、そのあとすぐ、別れちゃったんだけどね……」ビューラーでまつ毛を整え終え、ソフィアは手を置く。
「……カミラさん……綺麗な人だったなぁ……アランがあの人、選んだのも無理ない……っか……それでもワタシは……」
共感回路が、微熱を発していることを認識し、ベルザンディも手を止めた。だが、どんな言葉をかければいいのか……ベルザンディの学習メモリーは、その答えを示さない。
「……ああ、ワタシは、許されぬ愛に翻弄される、まるでイゾルデ!」自分の身体を抱くように腕を回し、身悶えするソフィア。ベルザンディの共感回路は、一気に熱を失い、代わって『イゾルデ』なる言葉と、その物語のデータが、ベルザンディのワークメモリーに流れ込む。ヘアセットの手を再び動かしながら、分析結果を言語化して出力する。
『……配役を吟味しますと……夫となるマルケ王と、トリスタンに挟まれるイゾルデは、むしろアランさんの方かと……』「うっ……こ、細かい事はいいの! 気分の問題よ、気分!」唇を尖らせ、その上にリップを走らせた。
「……アランとは、……ミッションが終わったら、もう……それっきりなんだから…………ちょっとくらい……気分上げてっても……いいでしょ?」
リップを塗り終えたソフィアは、唇をすり合わせて馴染ませ、鏡で出来を確認する。
『はいはい……こんな具合でいかが?』
鏡を見ながら、軽く髪に触れて、ソフィアは満足気に微笑んだ。
「うん、いいね! ……ベルちゃんは、やっはり侍女のブランゲーネ……かなぁ?」メイク用品を片付けながらソフィアは呟く。
『毒薬を媚薬にすり替えてしまう、大切な役ですわね』
「ええ! ……媚薬は二人の秘めた想いを解き放つの」そう言うと、ソフィアは鏡台に肘をついて顎を乗せ、鏡に映る自分を、前屈みで覗き込んで、物思いに耽る。
「あ〜あ。あんな媚薬があったらなぁ〜。アランに飲ませて……むふ……むふふ」
『……共感回路に異常検知……思考セイフティ、ロック……』突き放すようにベルザンディが発音している間に、ソフィアのアームカバーの通信端末がコールを鳴らす。ソフィアはすぐに応答した。
『ソフィア!』「あ、アラン!」
カバー表面のディスプレイ映るアランは、厳しい表情を浮かべている。アランは、すでに<ノルン>のブリッジに入っているようだ。
『まだかかるのか?』「あれ? あれれ?? げっ、もうこんな時間??」ディスプレイの端に表示された時計は、ミッション開始予定時刻から、とうに十二分過ぎている。
『ベル姉さん⁉︎ せっかく呼びに行かせたのに‼︎』アランの前面に割り込んだスクルドが眉を吊り上げている。
『面目ありません……』『いいから! 早くして!』
スクルドの擬似感情プログラムは、三体の中でも完成度が高い。特にソフィアに向けられる、『苛立ち』の感情表現は、もう人間のそれと同等だと、ソフィアは思う。
「もう、せっかちさんなんだから……あっ! アランにエサ……」『ソォ〜フィ〜アァアア⁉︎』
「は、はいはいぃ〜、い、行きましょ、ベル!」
『……はい』極めて人間に近いガイノイドに、ため息という仕草が溢れていたのを、ベルザンディ自身、認識してはいなかった。