混淆 1
夜空に聳え立つ高層ビルの灯火が、星の瞬きを失った空に、星座を描き始めている。
『麗!』若い男の声だ。China支部で<アマテラス>からのミッション中継を見守る容は、胸の中で鼓動が一つ、波打つのを感じた。
『偉!』
『王さん……』『やあ、きみも一緒だったのか、雨桐』
『うっ……』
「アムネリア⁉︎」直人が振り向くと、アムネリアの光像が、胸のあたりを押さえ、背を丸めている。
『……この痛み……この熱は……喜び……それとも……哀しみ……?』
雨桐から流れ込む無意識の記憶に、アムネリアは、戸惑っているようだ。
『王、どう、雨桐は?』『優秀だよ。今すぐにでも、うちの局に来てもらいたいくらいだ』『だーめ、雨桐には、しっかり大学で勉強してもらうんだから。可愛いからって、手、出しちゃダメよ』『ハイハイ』
肩を叩き合い、自然に距離が縮まる二人の人影。そのお互いの手が触れ合う。笑い合う二人の声が上がるたび、アムネリアは、小さく身悶えていた。
「雨桐……あなた……まさか……王のこと……」容の呟きは、誰にも届かない。
『それじゃ、行こうか』『雨桐、ごめん。これから、私たち食事に行く約束で……』
『……』『付き合い始めたんだ、私たち』
『……うっ……くっ…………』アムネリアは、膝を折ってへたり込む。
『……そ、そう、なんだ……楽しんで……きて』
『うん、じゃ、悪いけど行くね! 偉!』『ああ、雨桐、月曜日、またゼミに顔出すよ。じゃ』
『うん…………』
連れ立って立ち去る男女の後ろ姿が、ビルの森の中へと溶け込み、一体となる。摩天楼が織りなす何色もの色素が混りあい、濁りきった汚水となり、シリンダーへと注ぎ込まれる。それと同時に<アマテラス>のモニターには、元の研究室の風景が戻ってきていた。
モニターの中央に温かな光を湛えた水で満たされたシリンダーが一つ浮かび上がる。
……王さん……
濁り水が、優しく語りかけてくる、幾つもの王の表情を見せる。その度に隣にある、父親の表情が浮かぶ濁った水を納めたシリンダーが、王が微笑むたびに震えていた。
だが、次第に王の表情の一つが、グネグネと形を変え始め、影法師の麗の姿を映し出す。他の王の表情も全て、影法師の麗に姿を変え、『付き合い始めた』の大合唱を始めた。
「そんな……私……何も……何も気づいてなかった……そんな……」身を固くしたまま項垂れる容。彼女の周囲のオペレーター達は、押し黙るほかなかった。
『売女の娘!』まだ澄んだままの水に満たされた、奥に位置するシリンダーには、母親の顔が浮かび上がり、罵声をあげている。
『……違う……麗ちゃんは……』
『売女!』
『お母さんだって……』澄んだ母親の水の中に、浅黒い人肌の色が混じり込む。母親の顔は、その色と混じり合う快楽に悦び悶える。
研究室の風景に、今度は、小雨の降る寒空が折り重なる。
どこかの施設のようだ。
『……さようなら、雨桐』
施設の職員の腕が、施設の中へと促す。
後ろ髪を引かれるように振り返った先に、母親の遠ざかっていく背中。施設の門の前で待つ人影。連れ立った男女の背中をいつまでも見送っていた。
<アマテラス>のブリッジの中央で蹲っていたアムネリアは、ゆっくりと立ち上がった。
「アムネリア……大丈夫か?」直人は声をかけずにいられなかった。
『……えぇ…………でも……』
顔を上げたアムネリアの視界に、直人の心配そうに見詰める瞳が飛び込む。その瞬間、<アマテラス>のモニターが、何者かのシェルエット
を映し出したが、気づくものはない。
アムネリアは、自身の魂が、もう一度疼き振るえる感覚を覚えていた。
「……"恋"ってのよ。その感覚」
立ち上がるも、まだ戸惑いにあるアムネリアに、サニは背中を向けたまま言い放つ。
『"こ……い"……?』
アムネリアの無垢な視線から、直人は逃げるように俯く。
「そっ……」サニは、わざとらしく自身のコンソールを操作しながら続けた。
「人という種が、繁殖のために生み出した、非合理な"システム"。バッカみたいでしよ。時には自分に痛みすら与えて、より有利な遺伝子を求めるように駆り立てる。くっだらない生殖競争の名残よ」独り言のように吐き出されるサニの言葉を、アムネリアはただただ受け入れていた。
「ま、『メルジーネ』の、魂だけの存在の貴女に、わかるのかどうか知らないけどね」
「サニ!」言葉の棘を隠そうともせず言い放つサニに、直人は思わず噛み付く。
「……時間パラメーター、再変動! 約八年前! 感度補正、赤一五!」サニは、直人を無視して淡々と作業を進める。モニターのビジュアルが再構成される。
『容支局長! 仙水プロジェクトの今後の展望は?』『はい、我々の開発しました時空置換濾過法は、安全性を最も重視し……』
研究室の脇に置かれたテレビモニターが、煌々と灯る。
『本年の全中華PSIプロダクトデザイン大賞は、中国仙界開発局が開発した、PSI合成水、仙水! 開発チーム代表、容麗氏、ご登壇ください!』
スポットライトの当たる壇上で、マスコミの質問に意気揚々と答える容。そのモニターに向くことなく、黙々と端末に向かう丸まった背中が、モニターの放つ光を受けて、ぼんやりと浮かび上がった。
『……民間の水道に! ……待って、麗ちゃん……仙水は……まだ……』『大丈夫! 賞も受賞したし、国からの認可も降りた。ノープロブレムよ』テレビの音声をかき消すように、何処からともなく雨桐と容の会話が、<アマテラス>のブリッジに流れ込む。
『汚れた人間は、他人も汚す』丸まった背中が、呟いていた。彼女が手にしたビーカーに、濁ったシリンダーから流れ落ちた、毒々しく色づいた水が注がれていく。
「雨桐……ダメ、ダメよ……」
容がモニターの背中に声をかけたところで、届くはずもない。丸まった背中は、ゆっくりとその"毒"を呷り始めた。
『だめ……まだサンプルは少ないけど……仙水は物質として不安定……時空間ボイドが……分子構造内に……どんな影響が出るか……』『雨桐! すでに政府も動き出している。国連機関IN-PSIDにも後盾になってもらえそうなの。今はとにかく、進む事だけを考えて!』
"毒の水"をひたすら呷る雨桐に重なって、いつか交わした会話が音声変換されていた。容は両耳を塞いで首を振る。
そうしている間に、雨桐の丸まった背中が突如、盛り上がりを見せ始める。
『……そういう……わけには……仙水は……』
背中だけではない。雨桐が、一口、また一口と"毒の水"を飲み込むたび、脚にも、腕にも瘤のような盛り上がりが浮かび上がってきた。
『私たちで作り上げた水じゃない! 自信を持ちなさい、雨桐!』
「いや……」容は、耳を両手で塞ぎ、頭を抱えた。
『私たち……?』ビーカーから口を離し、雨桐はその中に残る穢れた水を覗き込む。その水面に浮かび上がるのは、影法師のままの容。
「いや……いや……やめて……雨桐」
『そう、私と貴女……』
ビーカーの中に浮ぶ容の影法師は、真っ赤なルージュの唇で笑みを形作っている。雨桐は、そのビーカーに再び口元へゆっくりと運ぶ。
『……これが私たちが作り出した水……』
呟きながら、モニターの中の雨桐は、容の姿をしたその水を飲み込む。ひたすら"毒の水"を自らの身体に注ぎ込む雨桐の身体中に、浮腫が広がり、彼女の白衣を引き裂いて次々と表出した。彼女の身体は、みるみるうちに積み重ねられた饅頭のようになっていく。
「もうやめてぇぇぇええええ‼︎」
容の絶叫に呼応して、モニターの中でぶくぶくに膨れ上がった浮腫の実が、一斉に張り裂け、穢れた大量の水を盛大にぶちまける。