旅立ち 4
「ふぅ〜〜〜〜」ぱんぱんに張り詰めた腕と胸の筋肉を緩め、ティムはチェストプレスから腰を上げる。
朝方の雨模様が嘘のように晴れ上がった昼下がり。トレーニングジムの、いつもの蒸した汗の匂いにも、なんとも言えぬ懐かしさを感じ、ティムは苦笑して、ドリンクを口に含む。
大切な友人と過ごした、六時間弱のミッションは、あたかも、永遠の時のようにティムの胸にしっかりと刻み込まれている。思い返せばいつでも、レニーはそこに居て、走り続けている……そう思うと、小さな笑みが溢れた。
「お疲れ。精が出るわねぇ」
あのガタイのいい女装……いや、『女性』コーチが、よく冷えたタオルを差し出して微笑んでいる。
「コーチ……ありがとう」
ティムは、彼女の差し出したタオルを快く受け取ると、火照った顔に押しつけた。頬に突き刺さるような冷たさが、気持ち良い。
そのまま、身体の汗をさっと拭き取って、コーチが差し出す回収箱にタオルを投げ込み、ティムは感謝の笑みを浮かべて見せた。
「あら、どうしたの? イヤに爽やかね。何かいいことでもあった?」少し上目遣いで、見つめてくるコーチも、今日は少し、女っぽく見える。本当に心は女性なのだろうと、ティムは納得する。
「ん……ま、まぁ……ね。わかる?」
「えぇ。これでもワタシ、貴方のコーチよ」「はは、違いねぇ」
二人から自然な笑いが溢れていた。
「マスミコーチ! 他にもお客さんいるんだから! 長話しない!」受付カウンターの方から、若い細面の男が目を吊り上げてこちらへ近づいてきた。以前、退室する時に、何故か睨んできたあの青年だと、ティムはすぐに気づく。
レニーとまではいかないが、なかなかの美青年ではある。
「長くないわよ。もぅ、妬かないの」マスミと呼ばれたコーチは、少し腰をくねらせて、甘えたような口調で言い返す。
「や……や……妬いてなんか!」「ふふ、紹介するわ。マネージャーのタクミくん。実は、ワタシたち……付き合い始めたの。結婚を前提に……ね」マスミは、そう言いながら、その青年に肩を寄せる。並べば、マスミは、頭ひとつ分くらい、その青年より背が高い。
「ええっ⁉︎」ティムは、驚きに身を退け反らせていた。
「ちょ……ちょっと、マスミ‼︎」タクミと呼ばれたマネージャーの色白の顔が、すぐに真っ赤に染まる。
「いいじゃない、いずれ皆にもわかる事だし」マスミは、デレデレとそんなタクミの肩に身を擦り付け始めた。タクミは、全身を真っ赤にして、身体を硬直させる。
「ふふ……」「何? アレ、そんな顔して。もしかしてワタシのこと……」マスミの悪戯な瞳が、ティムを覗き込んだ。
「悪ぃ! 流石にそれはない」
臆面もなく顔の前で手を振って言うティムに、マスミは吹き出す。
「だよねぇ〜〜。ティムさんは、根っからのストレート。知ってたわよ」マスミは微笑む。ほんの少し、俯きながら……
タクミのほうは、その言葉を聞くや否や、顔の強張りが解けていく。
「そ、そ、そうなんだ……よかった……はは。ティムさん、どうぞ、ごゆっくり〜〜」ふわふわと、浮き立つ足取りで、タクミは受付カウンターへと戻っていった。
ティムは、堪えきれず笑いを溢す。
「けど……そういうのも、アリなんだよな」
「何それ」マスミは怪訝気に聞き返す。
受付カウンターで、タクミがにこやかに接客を始めている。
「幸せの形は、みんなそれぞれって事。ようやくわかった気がする」穏やかにタクミを見つめるティムに、マスミは、小さく頷いていた。
「どう、もう一本。やってく? 見ててあげるわよ」「ああ、頼むぜ」
****
……彼らは……我々の宇宙を知りたいと願った……
……その意志が……やがて現象化し、意志の入れ物……身体を創り出した……それが生命……
……そして……我らもまた……
………我らは、種を見極める……その種が……生まれ変わる、新たな大地に和す存在なのか……
……されど……我ら……人に宿し神子は……過ちを……幾度も…………
……我らは……願う……我らは……人と……
……我は、人間……ですか? ……なおと……
「……風間くん……風間くん」
水面の上から聞こえてくるような声に、直人の意識はすっと引き寄せられる。肩を軽く叩かれる感覚が、視界を開かせた。
「ん……ん……あ、あれ……ま……藤川……さん……」
腰を屈めた真世が覗き込んでいる。長期療養棟に付随するICU区画の待合所で、寝落ちしていたらしい。
「オレ……寝ちゃってた……今、何時?」「そろそろ四時よ」
「二時間近くここで……」
「朝早くからミッションだったもんね。無理も無いよ」
「そうだ……アムネ……亜夢は?」「うん……あの娘もさっき目を……」
扉の開く音がして、直人と真世はそちらに顔を向ける。
「あっ……」貴美子に付き添われて、眠そうな目を擦りながら、亜夢が検査室から出てくるのが見えた。
亜夢は、直人に気づいくと大きな瞳を見開き、一瞬、笑顔を作りかけて顔を伏せる。
「ICUに運ばれたって聞いて……」直人が、声をかけながら近づくと、退いて貴美子の影に隠れるようにして、目を合わせない。
「えっ……あ、だ……大丈夫?」
「う……うん……」
俯く亜夢の顔が、薄っすら上気している。が、直人は、まるで気づいていない。いつもと様子の異なる亜夢に戸惑いながら、更に声をかける。
「ご、ごめん……オレたちがキミに頼り過ぎてたから……こんな……」
「……」亜夢は無言のまま、ますます貴美子の後ろへと、赤く染まった頬の顔を隠す。
「直人くん、違うのよ」貴美子が、亜夢に代わって応える。
「えっ……どういう……」貴美子、真世を交互に見れば、二人はなんとも複雑な表情を浮かべている。状況がまるで飲み込めない……
「直人くん、まだ、ゆっくり休ませないと。今日のところは……」
「あ、はい……なんか、ごめん。また……見舞いに来るよ」
貴美子の陰で、亜夢は小さく頷く。貴美子に促され、付き添われて、亜夢は療養棟の自室へと戻っていく。
「亜夢……」直人は、呆然と二人の後ろ姿を見送る。
「大丈夫……風間くんが心配するような事じゃないから」そう言う真世の口ぶりから、亜夢の容態がそう悪いわけではないことは、直人も理解した。……じゃ……一体、何なんだ?……
亜夢の体調の変化に関して、詳しい話を直人はまだ聞かされていない。隊長、副長には話があったようだが……
「……私も行くよ。亜夢ちゃんの面倒、見てあげないと……」「う、うん」
真世はそう言うと、貴美子と亜夢の方へと足を進める。
「……藤川さん」「んっ」直人に呼び止められ、真世は振り返った。
「亜夢を……頼む……」「…………」
「ええ、もちろん」
真世は、小さく手を振って笑顔を見せると、小走りに二人を追いかけた。