フル・アースの日に 4
「どう言うことだ……なぜ、私の身体が……レニーに届かないのだ……」
何度も何度も、ウィルソンは悔しげに、両腕をレニーの幻影に打ち付ける。しかし、その度にウィルソンの両腕は、何の抵抗もないまま、彼の体をすり抜けていた。
『はは……は! ウィル……ン! あ……たが、ヘ…………イアンと……一緒……なって、この世……らトンズラ……する腹づも…………のは、最初か……見通しよ!』
気付かぬうちに、掌に呑み込んでいた通信端末から声がする。声の主は、ナターリアだ。
ナターリアは、自席から立ち上がると、大型パネルの中で、ひきった顔を通信の乱れでさらにグニャグニャにした、ウィルソンに向かって勝ち誇ったような笑みを浮かべ、声を張る。
「残念だけど、ルナ・フィリア一帯は、レベル3よりこっち、<リーベルタース>のワープ機関の時空情報汲み上げ効果で、高次元から低次元への『ダウンロードストリーム』が生まれている。そのレニーが留まっている、高次元への逆行は、ヘカテイアンといえど無理!」
『……お、おお……れぇ……ナター……ア……そ……まで計算………くか』
「安心なさい。貴女の愛しのレニーも、そのうちこちら側へ引き摺り出される。二人仲良く、重力子爆弾に押し潰されるがいいわ。アンナの苦しみを味わいながらねぇ‼︎」
通信に向かい怒声を浴びせかけるナターリア。その鬼気迫る叫びは、周りにいるマークやスタッフらを凍りつかせていた。
「ぐっぅ……超えて……みせる……例え、次元の流れに逆らおうと……我は不滅のヘカテイアン・ハイブリッド……レニーィィイイイ‼︎」
叫びながらウィルソンは、流体化した自身の身体から支流を幾つも作り出し、触手のように伸ばすと、畝る空間の波間にその触手を放つ。二本の腕も触手に変形し、レニーの幻影に隈なく這い回す。ウィルソンの触手は、『ダウンロードストリーム』によって何度も押し返されるが、彼女は何度もリトライを繰り返す。
『また……形ある世界に戻される……か……僕は……結局、人の業が作り出す世界から、逃れることはできないみたいだ……』
ウィルソンの執念を醒め目で傍観しながら、レニーは呟く。
「レニー……お前は、それでいいのか?」ティムは問いかける。
時空間レベル4領域に留まるレニーには、まだウィルソンの触手は届かない。しかし、それも『時間』の問題なのだろう。
レニーは、両腕を持ち上げ、手を握ったり開いたりして、不思議そうに眺めている。まるで、産まれたての赤子が、自分の肉体の感覚を確かめるように。
「どうして……なぜ、出てきたんだ?」
『なぜ……?』
「お前達の次元から見れば、人の考える事も、やろうとしている事もお見通しだろ? こうなる事は、最初からわかっていたはずだ。違うか?」
束の間、レニーは俯き、顔を上げて微笑む。
『……そうだね。確かに……僕らには、いくとおりもの可能性が見える。けど……人は、いや……人の感情は、時にその予測を超える……一緒に走っていた時、僕はそれを何度も見た。キミたちに』
「人の感情……だと……」アランは、手元に展開した『レギオン』の資料を一瞥しながら呟いていた。
『合理を超えた感情……それが、予定調和の未来に、新たな可能性を開くんだ。だから、僕は……もう一度、会いたかった。キミたちに……僕の半身が……まだ、人間であるうちに……』
『僕は、キミたちに……ティム! マイケル!』
レニーの微かに震える声が、ティムの記憶を呼び起こす。
八年前、フル・ムーンカップ半月前——
「ちっきしょう‼︎」
スペースボートから飛び降りたティムは、その反動で身を浮かしながら、無造作にヘルメットを脱ぎ、大声で叫んだ。
地球上の六分の一の引力が、ゆっくりとティムの身体を引きおろす。その間に数人のメカニックらが、慣れた足取りで、ティムのマシンへと近づいてきた。
不慣れに着地しようとするティムを、メカニックの一人が、腕を伸ばして掴み、サポートしてくれた。
「惜しかったわね、ティム」着地をサポートした、女性メカニックが声をかけてくる。
「サ……サラ」「チェック、入るわ。さ、どいた、どいた」
「あ、ああ」 サラに身体を押し除けられた弾みで、また、ふわりと持ち上がりそうになるのを、ティムは駐機場の支柱に掴まって、何とか堪える。
「……あそこでドラフトが決まれば、兄貴にも……クソ……」支柱に拳を叩きつけ、歯軋りするティムを尻目に、サラはマシンの点検を始めた。
「んー、重力ジャイロの補正が効きすぎたかなぁ……ステアリングもキミにはちょっと軽すぎたみたい。ごめんね。すぐ直すから。いいよ、みんな、かかって!」サラの合図で、メカニック達が一斉に、整備作業に取り掛かり始める。
「いや、サ……サラの仕事は完璧だよ。オレの問題……」作業を進めるサラを、横目でチラッと見ながら、ティムは呟いた。
「そうだ。よくわかってるじゃないか」背後からかけられた声に、振り向く。
「兄貴……」
「お前のドラフトセンスは、悪くない。が……」
マイケルは、言いながらサラ達を何気なく眺める。視線に気付いてか、サラは、一度顔を上げたが、すぐに作業に戻った。
「お前は、それに頼りすぎだ。レースはドラフトだけで決まるもんじゃない」「んだとぉ! んなこと言われなくても!」
「おい、ティム!」マイケルに殴りかかりそうなティムは、途端にその腕を掴み取られる。視界に入っていなかった、チームメイト達が、いつの間にか、ティムを取り巻いていた。
「フル・ムーンカップのチーム……今のままなら、お前は抜きだ」ティムを見下ろしたまま、マイケルは冷たく言い渡す。
「そそ、そーゆこと」「オレたち、栄えあるフロウラーチームに、お前みたいなアマちゃんはいらねぇっつってんだよ」「おとなしく、客席で見てな。親父殿に頼めば、これから一席くらい捻じ込めっからよ。はははははは」チームメイトらは面白がって囃し立てる。
チームメイトの兄らに囲まれるティムを放って、マイケルは、言う事は済んだとばかりに、自機の方へと足を向ける。
「チッ……待て、待てよ、兄貴!」
「……来週、もう一回だけ見てやる。それがラストチャンスだ。いいな、ティム」「あ、ああ」
「おい、サラ! オレのマシーン、チェック頼む!」自機の方へ向かいながら、マイケルは、よく通る声をサラに投げつけた。
「はぁ⁉︎ だって、これからティムの……」
「そんなのは後回しでいい。エンジンとスラスター周りだ。全然、なってねぇぞ」
「マイケル! それは貴方の扱いが!」「いいから。早くしろ。もう一周、出るからな」
そう言うマイケルに追従して、ティムを囲んでいたチームメイトらも、次々とマシンの点検をサラに申し込む。
「ちょ、ちょっと……もぉう‼︎ 何なの! こっちは奴隷じゃないっての! ったく……皆、ごめん。こっち頼むわ」「はぁーい」
ティムのマシン調整を、彼女の仲間達に任せ、サラは、マイケルのマシン調整に向かう。
「ごめんね、ティム」「あ、ああ。いいよ、早く行けって」
「うん……あっ」
サラは、踵を返してティムによると、すっと彼の片耳に、自分の口元を寄せる。ティムは、反射的に身を硬くし、胸の鼓動が俄かに速まるのを感じていた。
サラは、ティムの耳元で囁く。
「マイケル、アレでティムのこと、褒めてんのよ。私も良い走りだったと思う。もうちょっと、チューンナップしておくから、気を落とさないで」
「サラ‼︎」「はいよ‼︎ ……じゃ、あとでね」軽く手振りして、踏み切る。彼女は、ちょうどマイケルの機体の傍に降りていった。
その後ろ姿を見送るティムは、サラの吐息の熱が残る耳に、しばし惚け顔を晒している。
「ふふ……辛いねぇ。恋するあのコは、ライバルに夢中……か」「レ、レ、レニー! い、いいつの間に⁉︎」
スペースボートの昇降デッキの下から、ひょっこりと笑顔を覗かせたレニーは、軽い足取りで、デッキに登ってくると、ティムにぴたりと身体を寄せる。
焦って身を退けるティムを、レニーは上目遣いで見上げた。
「ふふ。ボートも恋も……全部、キミの兄さんには敵わない。もどかしくて、自分がやるせなくて……はは。良いねぇ、これぞアオハル」
レニーは、ぷぷぷと口を押さえて笑い出す。
「笑うな! て、天才のお前に、何がわかる⁉︎ そ、そ、それに、サラは……その……」
逃げるように背を向けるティムの正面に、レニーはすかさず回り込む。
「ね、女の人を好きになるって……どんな気分?」「いや、それは……だから」
そんなやりとりをしているうちに、駐機場は、俄かにざわめき始めた。
「あ、嘘、レニー! 皆、レニーよ!」駐機場にまで押しかけているファン、他チームのレーサー、駐機場のスタッフやメカニック達。その女性達が皆、色めきだって黄色い声をあげ、こちらへ向かってくる。
「……モテモテなこって」ティムは、仕返しとばかりに、嫌味ったらしく言う。
「はぁ……ここは一つ一つ」悪戯な笑みをチラッと見せたかと思うと、レニーはティムの腕を掴み、昇降デッキで跳ねる。
「な、おい! ちょっと!」二人の身体がフワリと舞い上がる。整備中のティムのボートを軽く蹴って飛び越え、反対側へと降りると、レニーの追っかけらは、二人を見失ったのか、レニー、レニーと呼びかける声が騒がしく聞こえていた。
「逃げるよ!」レニーはそのままティムの手を引き、軽いステップで、踏み出した。
そのまま二人は駐機場の奥へと入っていく。
「ったく……んだよ。オレまで」
「いいじゃん。たまにはキミと二人っきりになってみたかったし」「えっ⁉︎」
「僕……女は苦手だ……女は……僕から奪いとろうとするばかり……」「はぁ?」
「ティム……」レニーはまたそっと、身体を寄せてくる。
「ちょ……ちょっと! ちょっと待て! オレは!」
男とわかっていても、少女とも見間違いかねない、中性的な美しい顔で、物憂げな上目遣いで見つめられれば、ドキりともしてしまう。
「ぷっ……ははは! ジョーダンだよ、ジョーダン。ティムはサラ一筋だもんね」「違っ……」「違うの?」「それは……いや……そうじゃなくて!」
ティムは口を尖らせて、そっぽを向く。
「ははは。可愛いな、ティムは」「ば、馬鹿にしやがって……」
気づけば、駐機場の最奥まで来ている。
「ねえ、こっち、おいでよ」レニーは、薄暗い一角に進み、手招きした。
「な、何だよ」「いいから」
「へ……変なこと、するなよ」
こんなところに誘い込んで……やっぱり、さっきのは冗談ではなかったのか……ティムは、露骨に警戒しながら、レニーの方へと進む。
「ふふ、違うって。上手くなりたいんだろ?」「えっ……?」