フル・アースの日に 3
「発射カウント、あと十分!」
「ルナ・フィリアの時空融合状況は⁉︎」「演算進捗からすると、およそ七〇パーセントくらいよ」
「ルナ・フィリアの中も……何だかヤバそうです……」
ホセは、ルナ・フィリアの監視映像をサブモニターに出す。ヘカテイアン感応者とされた患者らは皆、発狂したり、のたうちまわったりしている。心身に何らかの変調があるのは明らかだ。そして、セントラルブロックに充満しつつあるヘカテイアン流体は、人か何かの形をいくつも作り出し、ルナ・フィリア内を闊歩し始める。
あの黒人と、アジア人の職員カップルは、まだ無事のようだが、ヘカテイアン流体に囲まれ、身動きも取れずうずくまっている。
「キャ、キャプテン……ホントにヤるんかヨォ?」
施設に残る患者らを目の当たりにして、ダミアンは、口を戦慄かせる。
「皆、まとめて楽にしてやる……」
マイケルは、サブモニターを一瞥しただけで、重力子爆弾の発射と、その後の離脱のシミュレーションを黙々と繰り返す。
「マイケル……」
サラもマイケルの覚悟の前に、かける言葉がない。緊張と重圧の空気が、<リーベルタース>のブリッジに垂れ込める。
苦痛にもがく患者ら……既に月の南極一帯に広がり、居住区に迫るヘカテイアン流体の海……それらの映像を呆然と見つめるホセの身体が、だんだんと小刻みに震え出す。
「そ、そ、そうです……そうですよ!」
裏返った声を突然上げたかと思うと、ホセはひきつった不自然な笑顔で皆の方へ振り返る。
「ははは……ヘカ、ヘカ……ヘカテ……イアンはヨワルテ、テ……テクトリだったのだ……生贄を喰らう神……あ、あああ、アイツらは、侵略者を……おお……ゆ、ゆゆゆ、許さないの……だぁああ‼︎」自席から立ち上がり、身振り手振りで叫ぶ。
「ホセ!」立ち上がって声をかけるケイト。だが、彼女の声は届かない。
「や……奴らは……私の心臓を抉りとり……祭壇から突き落として……わ……私の肉を喰らう……恐ろしい……恐ろしい!」今度は跪き、胸を抑えて蹲る。
「おいおいおい⁉︎ また、いつもの前世発作かよゥ」
彼の動きをとめようと、一歩踏み出すダミアンだったが、ホセは、急にまた立ち上がって、ダミアンの足を止める。
ホセは、そのまま隊長席の前へと躍り出た。
「や、やるしかない! やや、やられる前に、やるしか! ないでしょう‼︎ 隊長‼︎」
両目を血走らせ、ホセはマイケルに訴える。
それをケイトが、肩を掴んで取り押さえた。
「落ち着け! ホセ!」「や、ややや、野蛮人は、み、みみみ皆殺しだぁああああ‼︎」
ケイトの拘束に抗い、ホセは身体を激しく揺する。だが、それを抑え込むケイトは、慣れたものだ。片手でホセの身体を締めると、ユニフォームに装備されたオーラキャンセラーを取り出して構え、マイケルに視線を送る。
「いいね?」「ああ、仕方ない」
「や、ややや、やめろぉおお! み……みんな死ぬ! みんな‼︎ ……」喚き散らすホセのコメカミに拳銃型のオーラキャンセラーを突きつけ、ケイトは容赦なくトリガーを引く。
「ぐぁ!」あっという間に白目をむいて、ホセはのけ反った。オーラキャンセラーの鎮静効果である。ケイトはそのまま、軽々と彼を自席に運び、座らせた。
「しばらく、寝てなさい」子供を叱る母親のような口調で、寝息を立て始めたホセに言葉を投げると、ケイトは自席に戻る。
「メカニックが……こんな時に……」ホセを睨め付け、マイケルは小さな舌打ちを鳴らしていた。
『な、なにをする気だ!』『ウィルソン博士! 危険です、それ以上は‼︎』
動揺混じりのティムとカミラの声に、<リーベルタース>の皆の視線が、通信モニターに戻る。
通信映像と並んで表示されている、<アマテラス>が捉えた、時空間融合が進む、ルナ・フィリア606号棟の映像。その中で、人の形、いや、ウィルソンと呼ばれた、そのモノの形をとるヘカテイアン流体がゆらゆらと歩き始めている。
それが向かう先が、606号棟のリビング中央、レニーが立つ場所であることは、一目でわかる。だが、レニーを中心に、激しく時空変動する空間が、高波のように脈打ち、そこへ踏み入れば、あの、哀れなウィルソンのアンドロイド達の二の舞になる事は、容易に想定できた。
だが、ウィルソンは、歩みを止めない。一歩、また一歩と、畝る時空の波間に、その足を踏み入れてゆく。
『うっく、感じる……漲っている……私のこの身体に……ヘカテイアンの血肉が……』
足を進めるたび、ウィルソンのヘカテイアン流体と同化した身体が、波打ち全身を震わせる。ミッションに携わるもの皆は、その様子を固唾を飲んで見守っていた。
『レニー……今行くわ……貴方の元へ……私を時空の高みへと……導いておくれ……』
ウィルソンの新たな肉体は、時空の畝りをも、その流体性で吸収し、その畝りの波長と同化しながら、崩壊することなく、確実にレニーへと近づいている。
「時空の畝りの中を……」「歩いている……」インナーノーツの皆は、唖然とする他ない。
『ははっ……はははははは! 出来た、出来た、出来た、出来た! 究極の身体が! これこそ、まさにヘカテイアン・ハイブリッド!』
ウィルソンは、時空の波間を乗り越えてレニーまであと数歩まで迫る。
『ああ、レニー! 喜んで! 私を祝福して! これで、これで私は貴方と、同じ時空の地平に! レニー‼︎』ブヨブヨと流体性を持つ身体を打ち震わせ、全身に歓喜の波動を撒き散らしながら、目の前のレニーへと、両の腕の形をした部位を大きく開く。レニーは、何一つ動じることなく、変容しきったウィルソンを静かに見つめ続ける。
ウィルソンの両腕がレニーの首へと巻き付いてゆく。
しかし——
ウィルソンの両腕は、虚しく中空を切る。
何度も同じように、ウィルソンは腕をレニーに巻き付けるが、その腕は目の前のレニーの姿をすり抜けてしまう。
「何故……どういう……こと?」
呟くウィルソンの身体に、まるで鳥肌のような細波が走っていた。