フル・アースの日に 2
「いいわねぇ。実にいい……。怒り……憎しみ……それこそが人間の活力であり、行動原理。見事な配役よ、ムサーイド」
苦渋と覚悟の混じり合うマイケル、その兄の覚悟に、呆然と言葉を失うティム、組んだ両手で口元の表情を押し隠す、ナターリアの冷徹な瞳、そして彼らの葛藤をも糧にして、永遠の若さを取り戻しつつあるウィルソン。レトロな映画館の銀幕の中に浮かび上がる、役者達の芝居に『女司祭』は、満足気に微笑み、ティーカップを傾けた。
「ありがとうございます」
シアターの中央にただ一人優雅に寛ぎ、古めかしい映写機の映し出す、IN-PSIDのインナーミッションに悦に入る女司祭。その後ろに控える、『愚者』は、深々と首を垂れる。
「<アマテラス>に載せた次元コミュミケーターも、良い働きをしてくれているわね。あれも貴方のアイディアだったかしら?」
女司祭が差し出す空になったティーカップに、愚者、ムサーイドは、ダージリンティーを注ぐ。
「ウィルソン博士ですよ。私はヒントを提供したに過ぎません」
甘い、華やかな香りがふわりと花開く。
その香りは、肉体が感じる香りではない。その味も、このシアターも全て、インナースペースの中に構成されたヴァーチャル空間が作り出す情報世界の現実なのだ。
IN-PSIDの通信網に侵入し、今、目の前に見ているレニーは、異次元のヘカテイアンという存在だという。だが、ヴァーチャル空間という異空間で、自在に存在する、目の前のこの者たちはいったい何なのか……ヘカテイアンと、そう変わらないように思えてくるムサーイドは、苦笑する。
ヴァーチャル空間は、『人間』が作り出した世界。そこにいる限り、彼らもまた、現象界のどこかに肉体を置く、人間に違いない。
ムサーイドは、己の真の飼い主、[ノヴス・ドミヌス]と称する彼らの正体を何も知らない。知ることは許されないのだ。
唯一つ、確かな事は、彼らはヴァーチャルネットが構築された時、既に存在していた。いや、前世紀のインターネットの時代にも、既に……
「ヒント?」女司祭は、視線だけを後ろに向け、聞き返してくる。ハッとなって、ムサーイドは顔を上げた。
「え……ええ……これを」
場内の時代設定に合わせてか、ムサーイドが差し出した情報媒体は、紙の新聞の体裁となっている。紙面の中で、ムサーイドが二ヶ月ほど前に立ち合い、隠し撮りした<アマテラス>のインナーミッションの動画が、写真枠の中で動き出し、彼がまとめたレポートが記事として浮かび上がる。
「何かしら?」
「先月、日本で立ち会ったミッションの記録です。同じものをウィルソンにも提供しました。彼女はことの他、興味を持ちましてね」
女司祭は、その記事の中の一単語に目を留める。その記事の隣りで、凶々しい蛇のようなものが蠢いている。よく見れば、それは幾人もの人のようなモノでできており、全体的にはどこか女性的な雰囲気を纏っていた。
「レギオン? ……これは、まさか」
「お察しの通りです。尤も、其奴は、かつてその地にいた、とある古代の姫の怨念を核としていましたがね」
「ほう……」
「レギオンはより強大な情報場『ヤマタノオロチ』の一部でした。ドクターフジカワは、この地霊共から地球PSI情報場仮説の確かさを確信したようでした」
新聞記事の紙面を切り替え、資料を示しながらムサーイドは続ける。
「彼は、それをこう呼んでいます。『ガイアソウル』と」
「ガイアソウル……」
女司祭は、受け皿にティーカップを戻すと、ムサーイドにそれを下げさせる。彼が、ティーポットとカップを置く動作をすると、それらは瞬時にこの空間からふっと、消え去った。
「神か、悪魔か……」女司祭は、足を組み、シートに深く身を預ける。
「……認めたくないものね、そんな存在は」
「は?」
「この宇宙は、我々だけで充分……そうは思わない? ムサーイド?」
振り向くことなく、そう問いかける女司祭に、ムサーイドはもう一度、恭しく頭を下げていた。
****
同刻——IN-PSIDオセアニア支部IMC。
ここ連日、<クナピピ>、シドレアの最終調整に協力するファビオは、対人インナーミッション保護カプセルの中で、苦悶に顔を顰める。
「ファビオ⁉︎」「どうしたの、ファビオ⁉︎」
支部長ティアナ、そして立ち合いを許されているロワナの顔に焦りが浮かぶ。このところ調整は、順調に進んでいただけに、不安が募る。
「あ、ぅ……ディ……ジュ……」カプセルの中で、手を伸ばしロワナに何かを求める。
「あ、待ってて!」預かっていたファビオのディジュリドゥを抱えティアナの許可を得ると、ロワナは保護カプセルへと向かった。
「ファビオ、大丈夫?」カプセルを開放し、ディジュリドゥを渡しながらロワナは夫に問う。
「あ……ああ……伝え……たい……」
ディジュリドゥを奏で始めると、ファビオは落ち着きを取り戻し始めた。
『イメージトレース! シドレア‼︎』
ファビオの魂領域、インナースペースで調整ミッションにあたる<クナピピ>キャプテン、ライラがシドレアに命じる。
『……イメージトレース……データバンクより構築します……』
ファビオの奏でるディジュリドゥの音と共に、<クナピピ>ブリッジの天球モニターいっぱいに、巨大な銀の円盤が出現してくる。
「あれは……」<クナピピ>クルーの一同は、モニターを見上げ、息を呑む。
「満月……いや……ワンジナ⁉︎」
クリバヤシは、その銀盤が、先日のミッションで見たあの月影だと、すぐに気づく。人の顔のような、ワンジナの姿が、ぼんやりと形を見せ始める。
「そういえば、この間のミッションでは有耶無耶に消えたけど……」ミアは、そのワンジナの顔形に小さく身震いしながら言った。
「月か……」「そういえば、<アマテラス>、今頃は」「ああ……NUSAの<リーベルタース>と月のミッションに向かった……」マヤとエリックは、心配気な表情を滲ませ、ワンジナを見つめる。
「虹蛇は月……いやワンジナを、ワンジナは虹蛇を求めていた……まるで、潮の満ち引きと月のように」クリバヤシは、先日のミッションの記録を自席のモニターに出して、確認しながら呟く。
「それがどうしたってのさ?」耳聡くクリバヤシの呟きを聞き取り、マヤはとぼけたように聞いた。
「……虹蛇が、本部長の言う『ガイアソウル』の顕れ……だとしたら、月のワンジナは……あるいは……」
クリバヤシは、もう一度、モニターのワンジナを見つめる。その顔形は、感情をもたないまま、ただ『微笑み』という形を作っているかのように、クリバヤシには見えた。
****
……ねぇねぇ……見た? ……あっちの世界……
…………すっごく面白いんだ! ……
……なりたいものになれるよ! …………
…………もの?? ……
……ものってなぁに? …………
……別々ってことさ……キミとぼく……あなたとわたし……
……えーなにそれ……わかーんなーい……
…………いいから、いいから! ……
……さあ、想像して! ……
…………キミは、キミがなりたいものになる……
……キミは……
……うーん……亜夢は……亜夢だよ……
……わかった……キミは亜夢……
……亜夢はどうしたいんだい……
……亜夢は……亜夢は……
…………生きたいの…………人になって、生きてみたいの……
……亜夢は……
……我は……
……束の間でもいい……人と……同じ時を……そう……願ってしまった……
……それで……いいと思うよ……
……⁉︎ ……咲磨⁉︎ …………
真世に呼ばれた貴美子の処置で、亜夢は落ち着いて、眠りについたようだ。胸を撫で下ろし、真世は処置の後片付けにかかる貴美子に問う。
「アムネリア……あ、亜夢ちゃん……どうなの、おばあちゃん?」
貴美子は、タブレットに、ここ数日の検査データを真世に示しながら説明する。やはり、通常の倍近い身体的成長が進んでいる。それが身体に強い負荷となっており、治療はその成長の反動を軽減し、身体へのダメージを最小限に抑える事くらいだと貴美子は言う。
「……この子の……凍り付いていた時が……動き始めている……」タブレットに視線を落としたまま、貴美子は呟いた。
ベッドで安らかな寝息を立てる亜夢に、ふと視線を戻した真世は、薄手の肌掛けが、ジワジワと赤く染まってきているのに気づく。
「あ、あれ! 血‼︎ た、大変!」
貴美子はすぐに肌掛けをとり、状況を確認する。出血は亜夢の下半身一帯に広がっている。
出血の出所を確かめる貴美子。その様子を真世は、身体を硬くして見守る。
ふと貴美子は、緊張した顔を緩めた。
「……大丈夫。貴女もあるでしょ? アレよ。この娘にとっては、おそらく初めてのね……」
「えっ……」「看護婦さん達を呼んでちょうだい」「は、はい!」
真世はすぐにナースコールで、看護師を呼び出す。
……クク……神子も……現世では所詮……女……
さぁてどう転ぶもんか……見ものよのぉ……
真世の心の奥に巣食う彩女は、宿主に気づかれる事なく、一人ほくそ笑んでいた。