LUNACY 3
八年。主を失い、閉ざされたままにされた部屋の扉が、開いてゆく。この部屋の主が、『この世を去って』間もなく、この部屋で、幾度も時空間異常が確認され、完全封鎖を余儀なくされた。
それは、ウィルソンに、『ヘカテイアン・ハイブリッド』へと進化したレニーが、『この世』と『あの世』を行き来している可能性を示唆し、ウィルソンは何度も接触を試みた。
だが、それは遂に成し遂げられなかった——今のこの時まで。
扉が開き切る。
畝々と歪む、床、壁。部屋の中のあらゆるモノが、時間と場所の中で揺らぐように、出現と消滅を繰り返す。
その中心で、くっきりと浮かび上がる人影が、この世に現れ始めている。
「ああ……見える、見えるわ! 貴方が。聞こえる、貴方の声が! レニー……会いたかった」
部屋の中へと踏み出そうとするウィルソンを遮り、二人の側近が表情一つ変えず、異常空間と化した部屋へと分け入っていく。
「お、お前達⁉︎」ウィルソンの声に、二人は振り向き、微笑を浮かべたが最後、二人は空間のうねりの中で、引き伸ばされ、捻じ曲げられ、ひしゃげ、四肢が引きちぎられていく。断末魔の代わりに、金属が擦れ合う甲高い音と、血液の代わりに潤滑オイルらしき黄ばんだ液体をぶちまけながら……
「……最後まで……馬鹿な、お前達……これで私も、とうとう一人ぼっちね……」俯き、ウィルソンは一人、呟く。その言葉は、誰にも届かない。
『それ以上、寄らない方がいいですよ。僕のいる場所を中心に時間と空間が畝りあっている。ヘカテイアンの恩寵もない貴方の肉体では、とても耐えきれない』
にべもないレニーの声に、ウィルソンは顔を上げた。時空も空気も、入り乱れているのに声はよく通る。声は自分の左手に展開されたままの通信モニターを通しているのに気づく。姿が見えているが、二人を隔てる時間と空間の溝はまだ深いのだ。
「え、ええ。わかっているわ。いいわ、ここで、待って……えっ⁉︎」
ウィルソンが言い終わるのを待たず、床から盛り上がったスライム状のものが、ウィルソンの手足に絡みつく。
『おやおや、皆せっかちだなぁ……』
ウィルソンの手足の自由が奪われていく様を、レニーは冷ややかな笑みで見守る。
さらにウィルソンの背後で、もはや腰を抜かして立ち上がることもできない、黒人とアジア人職員のカップルの周りにも、スライム状のモノが現れ、戸愚呂を巻きながら、取り囲んでいる。彼らは悲鳴の一つもあげることができず、口をパクパクとさせているだけだった。
「な、何⁉︎ 何をしようというの⁉︎」
『何って……あなたの望んだことだよ』焦りを露わにするウィルソンに、レニーは淡々と言う。その一言に、ウィルソンのアンバーの瞳が見開かれた。
「へ……ヘカテイアン⁉︎」
ウィルソンは、悟った。遂に、遂に待ち望んでいた瞬間が訪れたのだ。
『そうさ……けど、こうも僕たちの時空間と隣接してしまっては、僕らの、この世界への『物質化』も相当さ』
次第に、人影の顔形がはっきりとしてくる。間違いない。レニーだ。八年前、忽然とこの世から姿を消した、あの時のまま。ウィルソンは両の目を輝かせて刮目する。
『それを体内に取り込む意味……わかるよね』
レニーは、感情の抑揚一つない言葉を投げかける。ウィルソンは、背筋にぞわりと走る悪寒を感じながらも、レニーとの再会、そして、これから自身の身に起こる期待の興奮を抑えきれない。
「ふふ……はははははは‼︎ えぇ、望むところよ! この私はヘカテイアンとの和合を望むもの! その資格を有するもの!」
「脆弱な人の器を脱ぎ捨て、永劫の時を生きる、新たなる人類の母とならん! さあ、やっておくれ、レニー!」
恐怖と歓喜を興奮で化粧したかのような、ウィルソンの顔は、醜悪そのものだ。
『良い覚悟ですね、博士…………皆、もういいよ』
すると、ウィルソンの体に纏わりついていた、スライム状のモノは、モゾモゾと形を変え、幾つもの人の顔らしき形を作る。
その顔達が、蛇の鎌首の様にして持ち上がり、一斉にウィルソンを見下ろす。
「ふ……ふふふふ……覚えているわ……あなた達……くくくっ……良いわねぇ……肉体を捨てた……その……うぐっ!」
ウィルソンの片耳の穴目掛けて、一つの顔が飛び込んでいた。それを見ていた、他の顔達も飛びかかろうと身構える。
『皆、急がないで。ゆっくりと味わうんだ。人間の身体は脆いのだから……』レニーの一言で、顔達は再び流体へと戻り、獲物をじわじわ締め上げる蛇の様になって、ウィルソンの身体に巻き付きながら、彼女の身体への侵入口を探る。
一つの流体が、ウィルソンの眼前でピタリと止まり、大きな眼球を形作る。綺麗な瞳だ。ウィルソンは、その瞳に見覚えがある。
「……お、お前は……うぎっ!」
目玉は、ウィルソンの右目を目掛けて躊躇なく飛び込んでくる。ああ、忘れもしない。この瞳は……あの子。最初の子……
「あぁああ‼︎ 目が、目がぁ……『見えない……暗いよ……怖いよ……』……がは……『痛いよ……やめて……もう……』ぎゎ……ぐっは‼︎」
目玉の飛び込みを皮切りに、流体は次から次へとウィルソンの身体へと侵入する。口、目、鼻にはすでに滔々とヘカテイアンの流体が流れ込み、皮膚の毛穴、肛門、陰部に至るまで、ウィルソンの身体の穴という穴全てがヘカテイアンに侵される。
目の前で繰り広げられる地獄絵図に、黒人、アジア人のカップルは悲鳴すらあげられない。
『動かないで……あなた達には……何もしないから』
レニーの言葉どおり、ヘカテイアンは、彼らに襲いかかることはないようだ。
一方で、ヘカテイアンに弄ばれるウィルソンの姿は、<アマテラス>の超次元カメラでハッキリと捉えられ、通信を繋ぐ各拠点にも共有されていた。あまりに凄惨な映像を誰一人として直視できない。
「な、何をするんだ! レニー! いくら何でも、こんなことは!」たまらず、ティムが叫ぶ。
『僕らの望みではないさ……僕らが飲み込んだ、記憶の痛みが……苦しみが……僕らを突き動かすんだ』
<アマテラス>のブリッジモニターに、誰かの、何かの記憶の断片のような映像が、幾つものフラッシュの中に立ち現れてくる。
何かを投与される場面、手や足が異様に変形していく様。得体の知れない蠢くモノを移植される恐怖……その全てのフラッシュの中に、冷徹にじっと見つめるアンバーの瞳が輝いている……
「な、なんなの……これ……」サニは、込み上げる吐き気に両手で口を覆い、モニターから顔を背ける。
「ヘカテイアンに残った記憶が、波動収束フィールドに干渉しているのか?」アランが解析データを確認しながら呟いた。
『そ……そう……はぁ……はぁ……』口がようやく動かせるようになった、ウィルソンが何かを言っている。アランは、通信から聞こえる声音の音量を上げ、皆はその声に耳を傾ける。
『……ヘカテ……あぅ! ……イアン……は、人の……本能……そして……感情……に、興味を持っていた……うぐっ……それに気づいた……私は……がぁああ……』
『本能に直結する感情……すなわち、生きること……そして死ぬこと。それを意識する感情を昂らせ、ヘカテイアンを招き入れるため……博士は……』しゃべるのもやっとのウィルソンに変わって、レニーが博士の話を引き継ぐ。
ウィルソンの体内で、ヘカテイアンが蠢き、彼女の身体は、裡側から激しく脈打つ。関節は、あり得ない方向に捻じ曲げられ、操り人形のようになったウィルソンは、奇妙なダンスを強いられる。
「ふぎゃ……ぐきゃああ……ふふ……いい……いいわ! 感じる! ……へ……ヘカテ……イアンが、……私の中で……私の……恐怖……興奮……
今……我らは一つに……ああぁあぁああああ‼︎』
だが、ウィルソンは、自らの肉体がヘカテイアンに侵されるほど、何度も恍惚の絶頂に達しているかのようだった。