LUNACY 1
「レニー‼︎ 聞こえているのでしょ⁉︎ さぁ、ここを開けてちょうだい!」
606号棟の扉の前まで辿り着いたウィルソンは、激しくノックしながら、ヒステリックに呼びかける。扉は、結界も解除したというのに、硬く閉ざされていた。ウィルソンの側近が、携帯端末からの操作で、扉の電子ロック開錠を試みるも、拒絶される。
電磁結界を失い、ひっそりと静まり返った606号棟。しかし、その周辺では、次第に時空間変動の予兆が現れ始めている。街路の照明は点滅し、空気の循環も淀み始めている。暗闇には薄らと光球のようなものが浮かび、人工の地面から、ありえない水の湧き出し現象がそこかしこに現れる。居住者らの奇声が増し、天蓋に覆われたセントラルブロックの空間のあちこちで不協和音を奏で出していた。
『博士……ほんとうに諦めの悪い人だ……』レニーは苦笑している。
「ここに入るつもりか? まずいぞ」周辺状況の分析に当たっていたアランは、顔を顰める。
『ずっと、貴方の帰りを待っていたのよ!』通信に入り込む、ウィルソンのヒステリックな声をそのままに、<アマテラス>の一同は、アランに耳を傾ける。
「次元コミュニケーターは、この606号棟をターゲットにして、ヘカテイアンの時空間情報をプロットしている。ここは、いわば現象化のホットスポットだ。防護服も無しに入ろうものなら、急性PSIシンドロームを発症……いや、そもそも肉体が時空変動に耐えられない!」
カミラは頷いて、ウィルソンに退避を勧告する。
『退避? バカなことを! 我々は待った! 待ち望んでいたのよ! この時を!』「博士‼︎」
『さぁ! ここを開けるのよ、レニー‼︎』ウィルソンは、一層、声を荒げ、扉を打つ。
奇妙な水の湧き出しは、すでに摺鉢構造になっている、セントラル・ブロックの一番底の方に溜まり、徐々に嵩を増している。その水のようなものは、セントラル・ブロックの中央シャフトを伝い、月面上へと昇っていく。その姿は、木に巻きつき昇っていく蛇のようにも見える。扉に夢中の彼女らは、その様子に気づくことはない。
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ルナ・フィリア上空で待機する<リーベルタース>もまた、<アマテラス>から次々と送信されてくる、次元コミュニケーター情報への対応と、現場状況の情報収集に追われていた。
「セントラルブロック全域で、未知の物性波動パターン、多数検知! 現象化率八十パーセントを突破! ルナ・フィリア中央に集まって……」「なんだ⁉︎ あれェ⁉︎」ケイトの報告を遮り、ダミアンが正面を指して叫ぶ。月面に突き出たルナ・フィリア、ステーションタワーの根元からブクブクと何かが湧き出していた。
「あれが……ヘカテイアン⁉︎」サラは驚きを隠せない。
<リーベルタース>クルーが、皆、呆然と目の前の怪現象に意識を奪われている間に、湧き出した水のようなモノは、陸に上がった津波のように、周辺へとあっという間に広がり、飲み込まれたステーションタワー、ルナ・フィリアの月面構造物は、その勢いに次々と倒壊、圧壊していく。
ハッと気を取り直し、マイケルが叫ぶ。
「これは……このまま、あれが広がったら! ケイト、至急、拡大予測を!」「ラジャー!」
集めたデータを基に、ケイトは一分も立たないうちに青ざめた顔をあげる。
「解析完了! まずいよ!」
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「ウィルソン博士! くっ!」
ウィルソンは、カミラの呼びかけに応じる気配はない。側近と共に、鍵の解除を試行錯誤している。
状況を見守るしかない<アマテラス>のブリッジで、アランは、これまでの状況解析結果をまとめていた。顔を上げたアランにカミラが気づく。
「なあ、カミラ……この状況……あの時と似ていないか?」「あの時?」
「こいつさ」アランは、手元コンソールモニターに出していた映像をサブモニターに出した。クルー一同の視線が、そちらに集まる。
暗く澱んだ淵から顔を出す、長い蛇体。頭には一つ目の他に眼球を思わせる翡翠色の塊。その蛇体の鱗は、よく見れば、かろうじて原形を止める人の身体のようなものが幾つも見てとれる。
「[レギオン]⁉︎」直人はハッとして声を上げた。忘れもしない、二ヶ月ほど前のミッションで、<アマテラス>を窮地に追い込んだ[エレメンタル]だ。
アランは解説する。
「奴は、現象界の強い意識場の集中にひかれ、現象界と繋がる<アマテラス>をゲートにして、次元ギャップを乗り越え、現象化しようとしていた」
「どういうこと?」カミラは、皆の疑問を投げかける。
「現象界側には<リーベルタース>のマイケル、そしてこの次元には<アマテラス>のティム。ヘカテイアンとなったレニーをよく知る二人が、次元ギャップを抜けるトンネルの出入り口。そして、超次元コミュニケーターは、そのトンネルそのもの、ということさ」
「えっ! じゃ、なに? このミッションは……」胡散臭さと気味の悪さに、サニは言いながら身震いしていた。
「クッソォ! おい、NUSAの所長さんよ! そういや、あんた……あの時、<イワクラ>にいたよな? もしや、あのオバさんにミッションの情報流したのは⁉︎」ティムは、通信モニターの向こうのマークに怒鳴りつける。
『な、何⁉︎』マークは身を仰け反らせ、動揺を隠せない。
『マーク、そうなのか?』見開いた藤川の両眼が、マークに追い打ちをかける。IMCの部下らの無言の視線も、マークを厳しく責め立てていた。
『ち、違う! これでも一支部を預かる者だ! 部外者に、ミッションの情報を流したりはしない!』ありったけの声で、マークは言い切った。
「じゃあ、この次元コミュニケーターはなんなんだよ!」
ティムのさらなる追求にマークは答えに窮する。そこにウィルソンの不快な笑い声が重なってくる。
『ふふふ、私に情報を売ったのは……その男でも、その女でもないわよ』開錠作業の手を止めないまま、ウィルソンは語り続ける。
『このルナ・フィリアはね……NUSA政府の直属機関……特にPSIシンドロームに関する最新情報は、いくらでも流れてくる。あなた方のミッションの情報も含めてね』
「なんだって……」驚きを隠せないのはティムだけではない。IN-PSIDの皆に動揺が走る。
「く……くくく……」その中で、ただ一人、苦笑を漏らすナターリアに、再び皆の注目が集まった。
「ふ……航宙科学局は、てんやわんやだったわよ。四週間前に<アマテラス>との共同ミッションが決まり、このミッションの鍵となる次元コミュニケーターの開発……いいように使ってくれたわね」
『ふふ、突貫作業だったにしては良い出来じゃないかい? ナターリアさん。けど、あんた、わかってたろ、これが私のアイディアだって。くく……あなた達がそこまでしてくれるとは、はてさて、どういう目論見なんだか』
通信モニターを挟んで、ナターリアとウィルソンは、互いに、瞬きもない冷徹な眼差しを突きつけ合う。