精霊王の帰還 6
「ヘカテイアン……『ヘカテー』、月の女神か」藤川は呟いていた。
ギリシア神話に語られる、『ヘカテー』。「遠くへ矢を射る者」、「意思」を意味する古代ギリシア語『ヘカトス』がその語源であるという。月や多産、豊穣を司る女神と云われる一方、魔術、幻、幽霊など、夜と闇を司る冥府神でもあるとされる。
ところで、月の女神といえば、アルテミスが有名であろう。アルテミスは、三日月であり、満月へと「満ちてゆく月」を現し、ヘカテーは、その逆、「欠けてゆく月」を示す。また、ヘカテーは、三面三体の女神としても表現される。「新月」「半月」「満月」、「地下」「地上」「天上」、あるいは「処女」「婦人」「老婆」などの意味が考えられるが、その三相のうち、「光」や「現世」的属性の世界は、月光を表す「セレーネ」そして「アルテミス」、「闇」の属性は、ヘカテーに当て嵌められるという。
ヘカテーはやはり、冥府神としての側面が強い女神だ。その存在に与える名として、「アルテミス」や「セレーネ」ではなく、あえて「ヘカテー」の名が選ばれたのは、やはり、それ相応の意味があるのだろうと、藤川は考えずにはいられない。
「素晴らしいわ、レニー。思っていたとおり、彼は、完全にヘカテイアンと一体となっている! 彼の魂を保ったまま!」
IN-PSID側、各拠点との通信回線を開いたまま、ウィルソンは、高らかに発した。通信を受け取る皆は、眉を顰め、背筋に走る悪寒と、身体の内側に持ち上がる嫌悪感に、言葉を失っている。
「ここまで、うまくいくとは」ウィルソンの側近の一人は、敬愛する博士を賞賛する。博士を挟んで、反対側に座る、もう一人の側近も、頷いて、言葉を続ける。
「我々の呼びがけには、まるで答えなかったのに……やはりフロウラー兄弟でなければ……彼は……」そこまで言いかけて、側近は言葉を詰まらせた。彼女を血走る狼の瞳で睨みつけたウィルソンの左手が、彼女の喉元に食い込んでいた。彼女は、薄ら笑いを浮かべた表情のまま固まっている。
「違う‼︎」薄ら笑いの側近の頬をウィルソンの右の平手が容赦なく打ち付ける。
「違う……違う、違う、違う! 違う‼︎」
ウィルソンの平手が、何度も側近の両頬を往復する。その間、側近は、目を白黒させるだけで、表情は変わらない。
『やめろ! ウィルソン! 何をやっている‼︎』マイケルは、叫んだ。ウィルソンは、側近を乱暴に突き放すと、立ち上がってマイケルを睨め付けた。
「ふん、思い上がるな! アンタ達はただの道標。いいこと。帰って来たのよ! あの子は! この私の元に!」
<アマテラス>からの通信映像に映るレニーは、微笑み浮かべたまま、こちらを、いや、この私を見つめている。私だけを見つめている。ウィルソンにはそう見えていた。
「ああ、レニー! この日をどれだけ待ち侘びたことでしょう……」ウィルソンは、愛おしむように映像のレニーに向かって両腕を広げ、アンバーの瞳を少女のように輝かせて頬を緩める。
「今、迎えに行くわ」
そう呟くと、ウィルソンは、通信を遮断した。
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「ウィルソン博士! ウィルソン‼︎ くそっ!」
ルナ・フィリアに、通信の再接続を呼びかけるも、応答はない。マイケルは、苛立ちを拳に包み、シートのアームレストに叩きつける。
「マイケル! 博士達が! コントロールルームから出たわ!」ケイトが声を上げる。電磁結界が解除され、時空間レーダーによる建物内の透視が可能になっていた。ケイトは、レーダー盤の表示をブリッジのサブモニターと各拠点に共有した。
レーダー盤に、ウィルソンらと思われる五つの反応がある。居住区にも、三十ほどの反応が見て取れた。患者達であろう。電磁結界の檻から放たれた、そのうち、半数ほどの反応は、各部屋から抜け出し、ウロウロと動き出していた。
ウィルソンらは、その中を迷うことなく進む。彼女らの目指す先には、時空間変異、最警戒領域を示す、赤の色分布が広がっており、じわじわとその領域を拡大していた。
「やはり606号棟か⁉︎ 応答しろ、ウィルソン!」
再び通信にウィルソンが戻ってくる。彼女の持つ通信端末からだろう。背景が上下している。飛び跳ねるようにして、移動しているのが伺える。ルナ・フィリア自体の回転速度が低下している。どうやら、重力発生機構も結界と共に停止させたようだ。
『うるさいわねぇ、マイケル。貴方は、そこで黙って見てらっしゃい』
「な、何をする気だ! 結界を解除した反動で、606号棟の時空歪曲が、施設全体に広がりはじめている。あんた達の言う『ヘカテイアン』とやらも、このままだと現象界へ出てくるぞ! どんな危害が及ぶか!」
マイケルの警告に、ウィルソンは薄気味悪い、含み笑いを小さく立てる。
『それが狙いよ』「何⁉︎」
『あなた方に送ったプレゼント、よくご覧になって』
「プレゼント?」「なんのこと……」マイケルとサラは眉を顰める。
「そういえば……」ホセが、惚けているのか、ぼんやりしているのか、相変わらずマイペースな口調で呟き始めた。
「超次元コミュミケーター……あの装置は、ついこの間、どっかから……えっと……どこだっけなぁ……」ホセは、顎を手で摩りながら、中空に目を泳がせている。
「それだ! <アマテラス>!」マイケルは、すぐに呼びかけた。カミラが通信に出る。緊迫した様子で、副長アランといくつか言葉を交わしていた。
「次元コミュニケーターは⁉︎」
『……ええ、たった今、突然、何かのスイッチが入って……今確認している! ここの膨大な時空間情報をそちらへ送信しているみたいよ!』
カミラの連絡を受け、サラは即座に次元コミュミケーターの演算データを確認する。
「こ、これは……」
「どうした?」「ワープ演算システムが! 次元コミュミケーターの信号を受けて、勝手に反応しているわ⁉︎」
「なんなんだ、このシステムは⁉︎ ホセ!」マイケルは怒鳴りつけた。
「し、し……知りませんよ! <アマテラス>のワープ精度を補正する為の装置としか……」ホセは、マイケルの怒声に身を硬くして答える。
一方、<イワクラ>ミッションブリッジでも、装置を取り付けたアルベルトと技術部員らが<アマテラス>から受信した装置のログを展開し、調査を開始していた。
『あらぁ、私からのプレゼントだって……知らなかったの?』ウィルソンの上から小馬鹿にするような、悦にいった不快な声に、ミッションに関わる皆は、一様に顔を顰めた。
『それは残念。尤も私は、NUSA政府にアイディアを提供しただけだったけど。思った以上に、私の意図を汲んでくれたようね?』
『……ナターリアさん』
NUSA支部 IMCの自席で、じっと息を潜め、通信モニターに向かうナターリアに、IMCの皆、そして通信で繋ぐ各拠点の皆の視線が一斉に集まる。