精霊王の帰還 1
ウィルソンの弓形の眉が高く持ち上がり、見開いた両眼の、二つの琥珀が鈍く光っている。その鷲鼻は、各拠点のモニターを突き破って飛び出してきそうなくらいだ。
その面持ちは、まさにかつて、人々が思い描いた、中世の魔女のそれである。
「何を言っている? ウィルソン博士は……マーク⁉︎」ミッション開始当初から感じていた違和感が、今、目の前で『現象化』しつつあることを、藤川は具に実感していた。
『し……知らん! 私は……私はただ……』
狼狽し、後退りするマーク。ナターリアは、よろけた彼を背後からそっと支える。
「いいのよ……これで」
表情ひとつ変えず、ナターリアは、マークの耳元で囁く。
「あの女?」モニターの向こう、マークの背後に立つナターリアの、じっと見つめる静かな瞳に、ウィルソンは気づく。
「ふふふ、そういう事……けど、そう思いどおりに行くかしら?」
『な、なんだ‼︎』『どうした、<アマテラス>⁉︎ ティム‼︎』俄かに動揺が走る、<アマテラス>、そして<リーベルタース>のブリッジ。<アマテラス>との通信映像が乱れている。
「時空変動⁉︎」「船を現時空でキープ! 量子スタビライザー起動! 錨入れ‼︎」
カミラは素早く命じた。しかし、ティムの対応が遅い。
「ティム! 何してるの! 早く‼︎」
『どうしたんだい……僕だよ、ティム……』
音声変換された、やや高めの少年の声が、語りかけている。
『おいでよ……
……さあ、走ろう……一緒に……』
フォトフレームの中の美少年が突如、コマ送りのように動き出し、背景の駐機場の方へとその消えていく。
『ティム‼︎』マイケルの呼びかけにも、硬直したティムは反応しない。
「第三PSIバリア、周辺時空と共鳴! 偏向開始!」緊迫したアランの声がブリッジに響く。
「引き摺り込もうというの? 同調率、下げ!」「やっている!」
『おいでよ……こっちだよ……』
フォトフレームが拡大し、<アマテラス>を包み込む。写真のマイケル、ティムの間を抜け、背景になっていた駐機場を抜ける。前方に見えてきた大型ドームハッチ内には、既にスタート位置に並んだ、数十台の宇宙船。ハッチが開きスペースボートレースが、今、まさに開始されようとしている。
「くそ! やっぱり、お前なのか、レニー‼︎」
スタートシグナルの点灯が、カウントダウンを始めている。
『どうしたんだい? ……君の走りが好きなんだ……一緒に……さぁ!』
ティムは、操縦桿を何度も握り直し、開いたハッチ向こうの時空が重なり合う畝りを見せる月面と、その行き先の見えない空間の歪みへと続く、サーキットのコースを睨む。
「そんなに来いってなら‼︎」
「ティム‼︎」「待て! 今、船を動かしたら‼︎」直人とアランの制止に構うことなく、ティムは意を決したとばかりに、操縦桿を握り込む。
『ティム! 早まるな、ティム‼︎』『テメェ! 勝手に突っ走んじゃねぇヨゥ!』モニター向こうのマイケルらの呼びかけも最早耳に入らない。
シグナルがスタートを告げる。各機、一斉に飛び出し<アマテラス>の傍をすり抜けてゆく。
「行ってやるさ‼︎」ティムは、反射的に操縦桿を引き倒していた。
『ティム‼︎』
<アマテラス>は、一気に加速、他のスペースボートを瞬く間に追い抜き、コースの先に現れる、時空の歪みへと飛び込んでいく。
その一部始終を、ウィルソンは不敵な笑みを浮かべたまま、静観していた。
「ふふふ。これで、整いましたね。さぁ、儀式を始めましょう」
****
「……んん……」再び床に着いていた真世は、窓辺の気配に立つ、人の気配に目を覚ます。
「亜夢ちゃん?」
真世の呼びかけに答える事なく、亜夢は、茫然としたような表情で、雨雲の東の空を見上げている。
「アム……ネリア……」彼女の纏う雰囲気から、アムネリアの意識が目覚めている事を、真世は感じ取っていた。
「……来る……彼らは来る……青き星の光に照らされて……彼らは……」
真世は、立ち尽くしたアムネリアに恐る恐る近付き、もう一度、声をかける。一向に気づく様子のない彼女の肩に、真世が手を差し伸ばした瞬間。
部屋と外の雨雲が、混じり合う。
アムネリアの見つめる先を見上げれば、白く輝く銀盤が見える。
……月⁉︎ ……
真世が、そう認識した瞬間、雨雲が幾つもの、丸みを帯びた、顔のようなものを形づくり、重力とは真逆に、天空の月へと首を伸ばす。
それに呼応する銀盤にもまた、同じ顔のようなものが浮き上がり、雲の群れと月は引きつけ合う。
先日、オセアニアのミッションで見た光景が重なる。
彼らは……雨と雲気の精霊といったか……
……あれは…………
真世が、その名を思い出しかけた、その時。
「我……我は……うっ……」
膝を折って屈み込むアムネリア。辺りに見えていた光景は、無かった事のように消え去っている。
アムネリアは、腹を抱え、その場に倒れ伏す。
「アムネリア!」真世は、声をかけながら、すぐに身につけている端末で、電話をかけ始めた。
「うっうう……痛い……これは……何……」
アムネリアは、足を屈折させ、体を捩り亜夢の肉体の苦しみを一身に感じている。真世は、その背を摩って、励ますくらいしかできない。
そうしている間に、電話相手が応答した。
「お、おばあちゃん! すぐに来て! アムネリアが‼︎」
****
「<アマテラス>、ルナ・フィリア余剰次元観測領域から離脱!」
<リーベルタース>では、次元コミュミケーターからの信号を限界いっぱいで追跡していたケイトが、緊迫した声を上げていた。
「何⁉︎ どこへ向かっている⁉︎」
現象界の月のマップに、<アマテラス>の時空間位置情報を比定し、プロットしていくと、ルナ・フィリアのエリアの北、南極圏居住区の縁編部に重なっていく。それが何を意味するか、マイケルはすぐに察した。
「やはり……サーキットだ!」
<アマテラス>との通信は、先程から既に遮断されている。その上、ルナ・フィリア隣接次元領域から離れた、<アマテラス>の信号は、次第に弱まってきていた。このままでは、<アマテラス>を見失うのは明白だ。
「くそっ! 錨、上げ‼︎ 転進左120度。こちらも移動するぞ!」
****
「船を停めなさい! ティム‼︎」
命令無視を続けるティムに苛立ちながら、カミラは、操船をキャプテンシートに切り替えようとする。
「隊長‼︎」ティムは、それに勘づいていた。
「邪魔しないでくれ‼︎」ティムの鬼気迫る声に、カミラは思わず手を止めてしまう。
「……あいつは、まだ……ここで、走り続けている!」
周りは漆黒の宇宙か、はたまた月面の光か、それらが混ざり合う混沌を貫いて、一筋のコースが妖光を纏って次々と浮かび上がってくる。気づけば、<アマテラス>は、そのコース上を誘われるままに、単独で爆走していた。
「あ⁉︎ 後方よりコースに沿って、何かが『流れ込んで』来ます!」声を上げながら、サニは、レーダーが描く映像を正面モニターに共有した。
<アマテラス>を追いかけるように、コースに沿って水の流れのような反応が迫ってくる。
「接触まで、あと五秒! ティム‼︎」
「チッ!」コースを取り囲む空間は、未知の闇。無闇に回避する事はできない。
「ナオ! シールドを‼︎ 皆、衝撃に備えて‼︎」
<アマテラス>がシールドを展開する間に、流れは次第に一つの塊に収束し、何かの形を作り始める。
「あれは⁉︎」ティムには、モニターに映るそれが何か、すぐにわかった。スペースボートだ。
白銀のチームカラーに色どられた機体、そしてウィングは、パーソナルカラーを示すパープル。
「レニー……」
そのスペースボートは、<アマテラス>に接触するギリギリまで迫ると、船体下部のスラスターとタイヤを巧みにコントロールし、コースから蹴り上がるようにして、<アマテラス>の左舷側に並ぶ。
『ふふ…….最高だよ、ティム……』ブリッジに、レニーの声が語りかけてくる。
ティムは、左舷のモニターに映る彼の機体を一瞥する。コックピットは黒光りし、レニーの姿は見えない。ピタリと並んで並走しているようだ。
『なあ、ティム。僕たちは、言葉を交わさなくても語り合えたよね……こうやって、月の荒野を駆け巡りながら……』
眠っていたスペースボート乗りの性分が、ティムに速度を上げさせ、並ぶ相手を抜きにかからせる。しかし、相手は呼応して速度を上げ、並走を続ける。
いくつかのコーナーを抜いては並ばれを繰り返しながら、二人は暫く、走り続けた。
『ふふ……腕を上げたね……ティム……』ブリッジに届くレニーの声は、喜びの色を隠さない。
「……この走り……間違いねぇ……お前だ……生きて……生きていたのか?」
『……生きて……か。半分正解、もう半分は!』
会話が成り立つようだ。その事に疑問を持つ間を与えず、レニーの機体は、急加速し<アマテラス>の前へと割って入る。そのまま、機体はさらに加速していった。
「チッ! お得意の、『感じて』か! 上等だ」
全スラスターを後方へ向けて解放し、既に最大値ギリギリの船速に、加速を上乗せするティム。
「ティム‼︎」カミラが叫ぶ。
「待て、カミラ。ここは、アイツに任せてみよう」アランはカミラの方へ振り向いて提案する。「けど、これではルナ・フィリアの方が……」
「いや……あるいはこちらが本命かも……」「えっ……」
<アマテラス>は前をゆくレニーの機体になんとか追いつき、再び両船は並ぶ。
『ああ、これだ、この感触だよ。わかるだろ、ティム。ずっと……ずっと、これを求めていたんだ! 僕は‼︎』