仙界の水 2
「もしや……」
藤川は、容の表情を探るように見つめていた。
『……ええ……匿名で本部へ[仙水]の品質評価データを送り、追試を依頼していたというのは……おそらく彼女……』
俯いたままの容の声は、消え入りそうだ。
「うぅむ……」
<アマテラス>の運用が軌道に乗り始めた一ヶ月ほど前、藤川は差出人不明のとある配達物を受け取っていた。この時代、主流になりつつある、インナースペースを介した空間転送を避け、小包によって数日かけて通常運送(コスト高、輸送日数がかかるが、主に食料品や空間転送時のデータ欠損のリスクを避けるべき物品輸送のため、従来の流通ルートも縮小傾向ではあるが、存続している)されてきたものである。
不審物として疑われもしたが、その箱に記された文字、丁寧な梱包などから、藤川は何か切実な思いを感じ取り、技術部門立会の安全確認の元、開封してみた。
箱には、厳重に梱包された、インナースペースから[現象化]によって作り出されるPSI合成水、仙水のサンプル、そしてその分析データのメモリー媒体が収められ、手書きの手紙が一通、添えられていた。
手紙の中で、差し出し人は、IN-PSID Chinaの研究員と自称。その内容は、現在、Chinaブロック政府と、主にIN-PSID Chinaが主体となって進められている、仙水プロジェクトに関わるものであった。
PSI合成水は、既に産業資源として利用されてきているが、その廃水が、健康被害や環境破壊を生むという批判も根強い。そのようなPSI合成水を民間の生活、特に飲料水として人体や自然環境に害のない程度にまで改良したものが、『仙水』である。この『仙水』を中国ブロック圏一体に供給拡大するプロジェクトは、温暖化に起因するといわれる、深刻な水不足に悩むChinaブロックにおいて、起死回生の秘策とも目される重大政策であった。
しかし、そのプロジェクトと同期するかのようにPSIシンドロームが増加し、巷では『仙水』が原因であると囁かれるようになる。
手紙は、その関連を示し得る分析データを得たことを伝えてきていた。加えてIN-PSID Chinaと政府の癒着と欺瞞についての告発を切々と綴り、日本本部で、その証拠となる同梱サンプルを確認し、データの信憑性が確認できたなら、政府とChina支部へ、プロジェクトの中止を働きかけてほしい旨を訴えていたのである。
IN-PSID本部で数回の追試を行った結果、分析データの確かさが確認され、何度かChina支部へ実態調査を促していたが、China支部は有耶無耶な態度を取り続けてきた。
今回、世界各地の支部における、ミッション立ち上げサポートで、Chinaを最初のサポート拠点としたのも、PSIシンドロームと仙水の関連を早急に明らかにしたい、藤川の意向があった。
『彼女が急に倒れたのは、このミッションが決まった先月末……。彼女のことも私がもっと気を配っていれば……』
容の口元が、微かに震えている。どうやら、今回のミッション対象者に、彼女が含まれていたことに気づいていなかった様子だ。対象者の選定は、各医療機関同様、附属病院の患者に関しても医療部門スタッフに任せっきりだったのであろう。
今回の集団ミッションは、China支部のファーストミッションであるにも関わらず、各医療機関から十数名が選定され、百五十人ほどをインナーミッション対象としている。容がその一人一人のカルテまで綿密に確認する余裕はなかった。
圧倒的な人口を誇るChinaブロックで急増しつつあるPSIシンドロームに対処していくには、この百人余りの集団ミッションでは、焼石に水程度である。PSIクラフトと、各地の医療機関へのミッションシステムの導入が急がれていた。、
「雨桐……」————
小型の端末が一つ置かれた真っ白なデスクが、乾いた鈍い打音を響かせた。
白衣を纏い、長い髪を後ろに一つまとめた、中肉中背の女性研究員は、終始俯いたまま、丸まった背をビクつかせる。
「……どうしてなの? 雨桐。仙水は国の定めた標準検査で、十分な安全基準を満たしている。こんな特殊条件下での現象化兆候のデータを幾つ出したところで、何の意味もない」デスクに叩きつけた両手をそのままに、容は努めて抑えた声で言った。
「データ、よく見て……麗。……植物……動物……生物、大半は……みんな水なの。それ……再現した環境。仙水は……生命と出会って……変化するの……無機質な試験管の中では……」「そうかもしれない。でも、標準検査だって、その事は織り込み済みなのよ」
「わ……わかっ……わかってる……でも……」
雨桐は、辿々しい言葉で賢明に説明を試みる。
「とにかく、仙水事業はこのChinaブロックの死活問題に関わるだけでなく、世界中の水不足解消の鍵となるプロジェクトよ。多少のリスクはあっても、立ち止まるわけにはいかないの」麗は、捲し立てる。雨桐はただ俯いて、押し黙ったままだ。
麗は、雨桐の肩にそっと両手を置くと、口調を和らげて語りかける。
「あなただって、その事はわかっているはず。雨桐……なのに、どうして……」
雨桐の顔は、心なしか、顔が青ざめ、やや浮腫みを帯びていることに、麗はその時、初めて気づいた。
肩に置かれた麗の両手をそっとおろさせ、雨桐は俯いたまま背を向け、何も言わずに麗の個室を去ろうとする。
「雨桐!」張り上げた声も、雨桐を引き止める事ができない。
「……それ……その最後のデータ……私の記録……」
「えっ⁉︎」思わずデータを表示したままになっていた端末の方を振り向く。閉まるドアの音に、麗が向き直った時には、すでに雨桐の姿はなかった。————
「"私たち"の夢だったじゃない……なのに……」
China支部IMCに飛び交うオペレーターらの喧騒に、容の呟きは掻き消され、気づく者は誰もいない。
『思えば、彼女はずっと思い悩んでいました。でも、それを私は……雨桐のことも……お願いします』
顔を上げた容の姿が、通信ウィンドウに共有される。
「ただのスタッフ、という訳ではなさそうですね」東が小声で言ったのが聞こえていたのか、「同郷の……大切な親友なんです」と容は素直に口にする。東はバツが悪そうに、容から視線を逸らしていた。
「容……」穏やかな口調で藤川は通信ウィンドウの向こうへ語りかける。
「<天仙娘娘>捜索は、自ずとキミの親友の深層心理にアクセスすることになる。彼女の、思わぬ本心を知ることとなるやもしれん……構わぬか?」
容は、しばらく目を閉じて、再び目を開けると、しっかりとした口調で答えた。
『覚悟はできています』
「うむ」藤川は深く頷くと、東の方へ向き直る。
「東くん、準備の方は?」
「各部署、<アマテラス>、全て完了しています」
「よろしい。では始めるぞ」
IMC壁面の大型モニターに映る<アマテラス>のブリッジに向かって東は声を張る。インナーノーツは気を引きして直していた。
「<アマテラス>、及び<イワクラ>へ! ミッション対象者への時空間転移、開始せよ!」