フロウラー兄弟 2
同日夕刻——
小高い丘陵に建つ天文台にも、日中の暑さがまだ残る。額に吹き出る汗を拭い、穂波は、大きなコンテナケースを持ち上げようと、腰を屈めた。すると、コンテナケースは、穂波が手を掛けるより早く、何者かによって持ち上げられていく。
「コレ、運べばよろしいので? お嬢様?」
穂波が見上げると、持ち上げたコンテナの影から声がする。
「お嬢様……なんて年じゃないわよ、私」
穂波は、クスッと笑みを溢し、立ち上がった。
「来てくれたのね、ありがとう、ティム。助かるわ」
両手でコンテナを抱えたティムは、二カリと笑みを浮かべて答えた。
「うわ、結構重いだろ、コレ。望遠鏡?」コンテナケースの表記を読みながら、ティムが訊ねる。
「うん。子供達、三十人くらい来るから。レンタルしたのよ。屋上まで運んでもらえるかしら?」「お易い御用で!」
今時、エレベーターも無い古い天文台だ。屋上に上がるのも階段のみ。コンテナを運ぶのは、日頃から鍛えているティムにも、それなりに堪える。女性一人では荷が重い作業だとろうと思うが、穂波は、別のケースを一つ、抱えると平然と階段を登っていった。
数回往復し、全てのケースを運び終えると、流石にティムも汗まみれにならざるを得なかった。
「ふう、こんなもんで、いいかな?」「ええ」
ケース運搬をティムに任せ、穂波はすでに屋上で、数本の天体望遠鏡の設置にかかっていた。「あっ、来た来た」屋上からは、数台の車が、天文台の駐車場へ次々と入ってくるのが見える。車から降りてくるのは、どれも子連れの親子だ。
「私、望遠鏡のセッティングがあるから、皆の誘導お願い」「かしこまりました、お嬢様」執事のような所作で一礼すると、ティムは、今登ったばかりの階段を小走りに降りていった。
階下のロビーには、続々と今日のイベントの参加者が集まってきている。小さな天文博士らは、興奮気味に知識自慢を披露したり、天文台の物販コーナーを物色したりと、大賑わいだ。
この天文台がこんなに賑わうのも珍しい、と思いながら、ティムは、ゲストを屋上へと上がる階段の方へ誘導し、列を作って登るよう案内する。
列の最後尾に並んでいた、孫らしき子供を連れた老夫婦が、ティムの目の前を通り過ぎようとした時、その老夫がティムに声をかける。
「よぅ。若いの。久しぶりじゃの」
何度か会ったことのある、知った顔……この天文台の前の管理人で、穂波の父親だ。
「あ、どうも」「最近、またよく来てるそうだな。穂波から聞いとるよ」
品定めするような目つきで、老夫はティムを見上げている。
「ははっ! 月を見たくて……ね」老夫の視線から逃げるように、後ずさりしてティムは答えた。
「目当ては娘じゃろ?」「えっ、いや、ははは」「お前にはやらんからな」ブスッとした表情を残し、老夫は階段を登っていく。
「もう、何言ってんの、お父さん」そう言いながら、彼の妻はティムに会釈し、夫に続いて子供の手を引きながら、階段を登っていった。子供がチラッとこちらを一瞥したので、ティムは、ぎこちない笑顔を返した。
「……ん、孫……だよな……」怪訝に思いながら、ティムも彼らの後ろから階段を登っていく。
屋上に出るなり、その子供は祖母の手を離れ、駆け出した。
「母ちゃ〜ん!」子供は真っ直ぐ穂波に向かい、その勢いのまま彼女の足に抱きつく。
「か、母ちゃん⁉︎」ティムは、目を丸くして、良くある母子の光景をマジマジと見つめた。
「よく来たね、こぅちゃん」穂波は、息子の頭を撫でながら言う。ティムは、辿々しい足取りで母子に近づくと、あからさまに驚いた顔で、穂波に訊ねる。
「え、ええ?? この子?? む、む、息子さん??」
「ええ、航星よ」穂波は、微笑んで息子を紹介した。
「母ちゃん、誰、この人?」航星は、不思議そうな顔でティムを見上げている。
「お友達のティム。話したことあるでしょ? ほら……」「あ、月の人‼︎」
「つ、月の人?」
航星は、表情を一変、目を輝かせてティムに満面の笑みを浮かべて見せた。
「そう。ね、『こんばんは』は?」
「こんばんは‼︎」「あ、ああ。こんばんは……はは」利発そうな少年を前に、ティムはぎこちない笑顔でしどろもどろに返す。何歳ですかと促す母。航星は自分で五歳だと言う。
「ってことは……もしかして……だ、旦那さんも?」ティムは、辺りを見回す。それらしい人物はいないようだが……
「二年前に別れたの。離婚を機にこの子連れて田舎に帰ってきたってわけ」
「あ、ああ。そ、そうなんだ……立ち入ったことを」「いいわよ。昔の話だし。あ、もう時間ね。そろそろ始めるわ。こぅちゃん、いい子にしててね」
「うん! ねぇ、月のオジサン! 一緒、見よ!」「お、オジサン?」「こら、こぅちゃん、お兄さん、でしょ?」「はぁい。お兄さん、ねっいいいでしょ?」「ふふ、ティム、よかったらお願いできる?」「あ、ああ……」
航星は、ティムの手をとり、空いている望遠鏡の方へと誘う。
「これ、若いの。子供たらし込んだら、承知せんぞ」穂波の父親が、ブスッとして言った。
「な、何言ってんすか⁉︎」ティムは、航星に引っぱられながら、引き攣った笑顔で返事する。
「もう、やめなさい、お父さん。すみませんねぇ。こぅちゃん、お願いしますわ」穂波の母は、柔かに頭を下げる。
「はは……はははは……」
ティムは航星に引かれるまま、その場から逃げるように望遠鏡の方へと向かう。航星は、『新しい友達』を見つけたとばかりに、はしゃいでいる。
そうしている間に、夕闇は宵闇へと変わり、星の輝きが空に広がり始めていた。
「こんばんは〜!」マイクを通した穂波の声に、屋上のざわめきが次第に小さくなっていく。
「皆さん、『夏休み天体観測教室』へようこそ。この天文台の所長をしております、松崎穂波です。所長、といっても、普段は私、一人きりなんですけどね〜」親子らの笑いが溢れる。
「さて、今日は雲も少なく、絶好の天体観測日和となりましたね。お子さんも、親御さんも、皆さん、この美しい星空を、思いっきり楽しんでいってください! では、早速……」
穂波は、定番、夏の大三角形の解説を始めた。早く望遠鏡を覗き込みたい子供たちは、待ちきれずに覗き込み、親らはそれを注意したりと、ざわめきが戻ってくる。
「ねーねー。ティムお兄さんは、月から来たんだよね!」航星は、母の解説より『新しい友達』に興味があるようだ。
「ははは、まあ、間違っちゃないけど……キミのママはどういう教え方したんだぁ〜?」
ティムは乾いた笑いを溢す。
「今日は、下弦の月。だから、夜中にならないと見えないんだ」「お、詳しいね。そういゃ、ママも月が専門だったな。キミも月、好きか?」
「う〜ん……わかんない」
それでは、観測してみましょう、と言うの母の声で、航星も望遠鏡を覗き込み始める。
「月は、明るいから他の星、見えにくくなるんだ。だから、今日はお星様、見るにはいい日だって、ママが言ってた」「あ〜なるほど」
「他のお星様、隠しちゃうなんて……ちょっと意地悪だよね〜お月様」「えっ……」
「だって、暗い星とか、もっと遠い銀河とか……月が出てると見えないんだよ」
「僕はそういうのが好きなのに」
少年の何気ない言葉が、ティムの胸の底で細波のような声を掻き立てる。
……暗くても、遠くにあるだけ。人に見えてなくても、そこで立派に輝いているんだよ。僕はそんな星が好き。そういう星、もっと見つけたいんだ……
望遠鏡を夢中で覗き込む、航星の横顔から、ティムは目を離せない。
……人が見えないところで、努力している……キミはまるで、遥か何万光年彼方の星のようだね……
少年の言葉に重なる、記憶の中にしまい込んでいた声が、ティムに呼びかけてくる。
…………僕は、そんな星が好きだ……