浜辺の狂詩曲 6
高台の長期療養棟食堂のバルコニーからは、眼下のプライベートビーチの賑わいがよく見えた。
「はぁ〜……」
バルコニーのパラソル付きのテーブルで、真世は、ビーチを見つめながら、桜色のモクテルを一口啜ると、小さくため息を漏らした。対面に座る母、実世は、真世の視線を追う。
「あら、楽しそうね。何かのイベント?」
「医療部主催のビーチパーティーよ。医療部、大学、それにセンターのぶっちゃけ合コンみたいなもん」真世は、気怠そうに言って、もう一口飲み物に口をつけた。
「毎年、誘われるんだけど……」「気になるなら、行けばいいのに」「全〜然。あーいうのちょっと……」ストローで、ほとんど氷だけになったグラスをかき混ぜる。
「あれ、直人くんと亜夢ちゃん?」
波際に小さく見える二人を、実世は目ざとく見つけていた。
「ティムが誘ったのよ」「ティム? ああ、あの面白いアメリカ人の。あの子とも仲良さそじゃない? よりどりみどりね、真世」
「ママァ〜〜」面白がる母に、真世はジト目で答えた。
「ふふ……そういえば、直人くん。昨日見かけたけど、少し、雰囲気変わった? ちょっと、かっこよくなってない?」実世の瞳が、真っ直ぐ覗き込んでくるので、真世は俯き、デザート用のフォークを手に取った。
「えっ……そ、そう?」
視線を泳がせ、まだ手をつけていなかったチーズタルトに手を伸ばす。
「……ぼやぼやしてると」
すると、実世のスプーンが真世より速く、タルトを一口大にカットして、奪い去っていった。
「取られちゃうぞ」
呆気に取られた真世に微笑むと、そのまま実世は、タルトを口に運んだ。
「あ、私の⁉︎ ママ!」
実世は、頬に手を当て、これ見よがしに幸せ気な笑みを作って見せた。
「も、もう!」真世は、頬を膨らませ、敵討ちとばかりにタルトにフォークを立てる。実世がとったよりも大きくカットし、二口、三口と次々と頬張った。
「……ちょっと気分がいいからって……やっぱり、こんな暑いところにずっといちゃダメよ! 部屋戻ろ!」
真世は苛立ちを露わに立ち上がると、実世の車椅子に手をかけ、テーブルから引き離そうとする。
「あ、待って、まだジェラートが……」
半分以上残った自分のジェラートに、実世は名残惜しそうに手を伸ばす。
「いいから、ほら!」「真世! 何、そんな苛ついてんの?」「ほんと、私がついてないと!」
強引に真世は、車椅子を屋内の方へと向ける。
「ちょ……真世ってば!」
真世は母の声に耳を貸もしない。
「真世‼︎」実世は、か細い声で精一杯、怒鳴ると、二、三咳を溢した。慌てて、真世は手を止める。実世は振り向いて、真世を見据えた。
「……な、何よ……」
実世の顔からすっかり笑みが失せている。
「そうやって……逃げ場所にしないでくれる? ……私のこと」
これまで見た事のない、母の冷徹な眼差しは、真世の背筋を凍りつかせる。
「‼︎ ……な、何、それ……どういう……意味……」
実世は娘から目を離す。
「わかるの……私……そんなに……」「え、な……何……」真世の車椅子を掴む腕が震えている。
「いつまでも、甘えないの。もう、子供じゃないんだから」俯き加減のまま、実世は冷ややかに言い放った。
「何それ……ママ、そんな風に……私のこと……」
「…………そうよ」
車椅子から力なく腕を落とし、顔を青白くした真世は後ずさる。
「……もう……ママなんか……ママなんか! 知らない!」
叫ぶので精一杯だった。真世は、バルコニーの先に見えるレストハウスに目に留めると、そちらへ逃げるように駆け出した。
振り返りもせず、レストハウスへ駆け込む真世の後ろ姿を実世は、静かに見送った。
「ふぅ……強情っぱり屋さんなんだから……私譲りか……」
「おや、お取り込み中でしたか?」
食堂の方から声をかけられ、実世はそちらに視線を移した。
「あら、神取先生⁉︎ お恥ずかしいところを……」「いえいえ、お客さんですよ」
神取の後ろから、ひと組の男女が顔を出す。
「お久しぶり、実世さん」「あら、陽子ちゃん。聡さんも」
実世もよく知った顔だった。ゆったりしたパステルカラーのワンピース、ショートカットがよく似合う快活そうな女性は、1年ほど前に、寿退職した長期療養棟の元栄養看護師の陽子、傍らに立つシンプルなシャツにジーンズ姿の彼女の夫は、インナーミッションのオペレーターを務める田中だ。確か、陽子は田中の三つほど上の姉さん女房だったはずと、実世は思い出していた。
「では、私は……」神取は、そう告げて踵を返す。ありがとうございますと、田中は、軽く頭を下げた。
「診察に?」実世は、娘の去ったテーブル席に彼女らを招き、娘の残した食器類を傍に寄せた。田中は、妻を支えながら座らせると、その隣に腰掛けた。
「ええ、今行ってきたところ。いつもはすぐ帰るんだけど、今日は具合も良くって。古巣に寄ってみたのよ」
「もぅ、そんなこと言って。昨日も気持ち悪そうにしてたじゃないか。な、早く帰ろう」「大丈夫、大丈夫。ほんと、この人、心配症で。ハハハハ」
陽子のカラッとした笑いは、相変わらず心地よいと、実世は思った。
「それより、どうしたん? さっきのは……真世と?」陽子が怪訝そうに訊ねる。
「え? ……ええ……」
「仲良し親娘が、珍しいわね?」
「なかなか親離れしない娘で……つい。いや、私も……かな」実世は苦笑しながら、スプーンを手に取る。
「そっかぁ……難しいよね。でも、真世はいい子よ。……私達も、ちゃんと育てられるかしら?」陽子は、自分のお腹に手を当て、若い父親をじっと見つめる。笑顔で見つめ返す田中に、陽子は眉を下げる。
「大丈夫よ。子供は、あっという間に大きくなるから……限られた時間を大切に……ね」
若い夫婦を微笑ましく見守りながら、実世は溶けかけのジェラートを掬い上げた。
「実世さん……あれ、そういえば、真世は?」
「ビーチの方に行ったみたい。ビーチパーティー? だがやってるみたいで」
賑わうプライベートビーチを目に留めた陽子の顔から、急に笑みが引いていく。
「大変‼︎ 今、真世をあそこに行かせては‼︎」そう言いながら、陽子は勢いよく席から立ち上がった。
「え、何? どういうこと?」田中も実世も、瞬きもなく陽子を見上げる。
「飢えた猛獣共に、極上の餌、与えるようなものだわ! 実世さん、大丈夫、真世は私が守ってみせるわ!」「はぁ?」
「聡、行くよ!」「よ、陽子! ちょっと! ええっ⁉︎」
夫の手をとり、引き摺るように彼を連れ、レストハウスへ急ぐ陽子の背中を、実世は呆然と見守っていた。