ライムライトの行方
窓の外から見えるガラス器具の数々は、触れることなくともそれが危険であることを予感させていた。
休日の実験室に人気が無いと思いきや、書類と器具で入り組んだ奥からは原子吸光光度計が動く音が聞こえている。
「ごめーんくだー……」
静けさに響く原子吸光光度計の音に耳を済ませるも、他に音は聞こえない。
静かに扉を閉めると、入り口にあった試薬に目が落ちた。ラベルに『βナフトール』と書かれた小さな褐色ガラス瓶が一つ。届いたばかりのように丁寧に包装されていた。
忍び足で物陰に潜む。相変わらず原子吸光光度計が忙しなく動いている。
こっそり中を覗いてみると、男が一人、椅子に持たれ眠りこけていた。
「ほほぅ~?」
忍び足を止め、堂々と歩き始める。通路脇の実験台では、橙色の液体がフラスコに入って湯船に浮いていた。
「おつかれ」
ポンと肩に手を置いた。男が目を開け眉をひそめる。
「中に入っちゃダメだって言ったろ?」
「入口で呼んでも返事が無かったから……」
申し訳なさに笑顔を塗り、そっと持参したバスケットを差し出すと、男は良い物を見つけた子どものように、破顔して中へ手を入れた。
「サンドイッチ!」
すかさず口に押し込むと、棚から手頃なビーカーを取り出した。バスケットから保温瓶を出し、静かに中身の麦茶を注いだ。
「大丈夫? コレ……」
「あー……多分ね」
そんな事等と気にも留めず、男は麦茶を飲み干した。残りのサンドイッチを口に押し込んだ。
「八時には終わるよ」
「シチュー作って待ってる」
手を振りながら歩き出すと、床の段差に躓いた。
慌ててバランスを戻し、何事も無かったかのように歩き出した。
「次来るときは、ヒールは止めとくわ」
「ああ是非そうしてくれ」
棚に貼り付けていたキッチンタイマーが鳴った。
男はいつもの無機質な顔付きで、湯船に浮いたフラスコを取り出した。
入口でβナフトールの褐色瓶を指で小突いた。
変な粉や液体をいじるよりも、シチューをかき混ぜる方がよっぽど建設的ではないかとそう思ったが、その思いは胸にそっと戻した。あの堅物所長に自慢のシチューを持って行ったところで、決して賃金をくれたりはしないからだ。
八時を過ぎた。シチューは大成功だ。
電話を回した。しかし実験室から返事は無い。
「また寝てるのかしら?」
シチューに蓋をし、コートを羽織って外へ出た。
微かに雪が降っていた。一度履いたヒールを脱ぎ、ブーツへと履き替える。
真っ暗闇の最中、実験室に僅かな明かりが見えた。
やっぱりかと、入口に手をかける。扉は容易く開かれた。
「あー……」
いつものため息が漏れた。
家でうたた寝するかのように、自身のデスクに頬杖を突いて微動だにしない男の背中が見えた。
備え付けられた小さな照明だけが、デスクの上を照らしている。
そっとデスクに開かれた実験ノートを覗くと、今日の日付と共に『新しい試み』というメモ書きが見えた。
内容は難しくて理解できなかったが、βナフトールの文字だけは見覚えがあった。
実験台の明かりは消えていた。どうやら実験は終わったようだった。
あと少しなら邪魔するのも悪いかと、そっと扉を開けて来た道を戻ることにした。月がいつもより明るく輝いて見えた。
家に戻り食事をしながら、いつの間にか女は寝てしまった。
翌日、寒気と電話の音で目が覚めると、女は鳴り続ける電話に不信感を覚えると共に、テーブルの上のシチュー皿にどうしようもない焦りが芽生え始めた。
慌てて寝室を開けた。あるべき姿はそこには無かった。ただ、綺麗なままのベッドがあった。窓の外の木には雪が積もっている。かなり降ったようだ。
慌てて電話を取った。手が震え受話器が上手く掴めない。両手で押さえるようにして、初めて受話器を持つことが出来た。
真っ白なまま言葉を発した。
全てが白に包まれた。
テレビに堅物所長が映っていた。笑顔でだ。
「βナフトールの性質を利用した、我が社独自の製法です。私の研究者としての集大成とも言えるでしょう!」
その言葉に思わず奥歯を噛んだ。
突然死の説明と共に言われた、彼の研究者としての輝かしい功績を讃えるとの賛辞が、今画面越しに放り投げられた。
あの時、既に死んでいたのかと思うと、胸がグッと苦しくなる思いがした。
あのノートは遺品の中には無かった。
所長に窺ってみたが、企業秘密の一点張りで、その後、ノートを見ることは叶わなかった。
実際、ノートを見ても内容を理解する事が出来るかどうか、男の功績だと証明できるかどうかは、全くの不明だった。そもそも男のノートのメモ書きで全てが完成していたのかどうかすらも、分からない。全ては闇に消えた。
ただ、悔しかった。
あの時の小さな照明の中見えた背中が、いつまでも、いつまでもまぶたの裏に残り続けた。
女がシチューを作る事は、二度と無かった。




