カオスへクス
私はその場にへたり込み、晴れ渡った地平を呆然と眺めていた。
小さな剣を軽く振る、ただそれだけ。たったそれだけで、あの男は無数の魔物を一撃でなぎ払ってしまった。
召喚され師と私たちとでは、住む世界が完全に違っている。それだけははっきりしていた。
「リエル。私の負けです。認めますわ」
いつの間にかガーネが横に立っていた。彼女も私と同様の様子でクローディアスの背中を見つめている。あの光景を見せられてはこうなるのも当然だろう。私だってあまりの出来事に立つ力もなくなってるし。
ガーネが声を張り上げる。
「クローディアス! あなたの勝ちです! 私は負けを認めます!」
クローディアスは微動だにしない。抜いた剣を収めることもなく、その場で立ち続けている。ガーネは怪訝そうな表情を浮かべた。
今度は私が問いかけることにする。
「く、クローディアス様。どうしました?」
私の質問にも答えはない。動くこともない。ただ、花弁を散らして尖塔のような姿になってしまった茎の方を見続けている。聞こえていないのか?
「クロ──」
「そこを動くな」
ずしりと胸の奥に響くような低い声。今までほぼ棒読みに近い声色だったというのに。突然の変化に私は戸惑う。
「なに、あれ?」
ガーネの声だ。困惑と恐怖を含んだ、少し震えた声だった。彼女が困惑したものについては既に私も認識している。ただ、驚きのあまり声が出せなかっただけ。
みすぼらしく残った巨大な茎が、唐突に動き始めたのである。中腹部から裂けるように分かれていく。バチバチ、と弾性のあるものが無理やり引き千切られる嫌な音がここまで響いてきた。
「あれだけ薄汚い魔物どもを吐き出しておいて、まだ何かあるっての?」
「で、でもクローディアス様なら……」
倒せるはず。あの魔物の大軍を一瞬で薙ぎ払った男だ。きっと何が来ても瞬殺してくれる。私は立ち上がり、彼の背中へ声援を送った。
「クローディアス様ぁ! どうかあと一息、頑張ってくださ──」
がぁん、という金属同士がぶつかる凄まじい音が鼓膜を貫いた。強烈な耳鳴り。
一瞬何が起こったのか分からず、思わず目を瞬かせる。
すごく暗い。なんでこんなに暗い?
「訂正する」
目の前でクローディアスの声がした。少し力んでいるような、苦しそうな声だ。ゆっくり、ゆっくりと視線を上げる。
「もっと離れろ。できるだけ遠くへ」
目の前に広がる暗闇は、クローディアスの羽織っているマントの漆黒だった。
彼の大きな帽子が見える。その更に上空には、先ほどまで左斜め前にあった装甲馬車が馬と一緒に飛んでいた。
悲鳴をあげながら後ろに倒れこむ。ガーネも同様の動きをした気配がした。宙を舞った馬車がすぐ後ろに落ちて轟音を立てる。
クローディアスの前にはいつの間にか巨大な魔物が立っていた。多分、立っていたという表現で正しい。その姿をどう形容したらいいか分からない。これに近い魔物は記憶になかった。
まず、球体を横に二つ貼り合わせたような、胴体と思しき灰色の物体。表面には薄い毛のようなものがびっしりと生えている。
上部からは滑らかな棒状の足が何本も生えており、途中で三度折れ曲がって地面と接している。
また、クローディアスの体でよく見えないが、胴体には人間らしき顔面がいくつも張り付いている。老若男女、様々な種類だ。一様に目と口を見開いて微動だにしていなかった。
訳がわからない。こんなおぞましいものは見たことがない。完全にバケモノだ。
「我々はカオスへクス」
急に誰かの声が聞こえた。私じゃない。クローディアスやガーネでもない。震えながら喋っているかのような、性別不明の奇怪な声色。それが正体不明のバケモノの後ろから聞こえてくる。
「あるいは混沌の使者」
ぐぐぐ、という木の板が軋むような奇妙な音がした。バケモノの後部から何かが持ち上がってくる。それは動物の尾のようなものだった。ただ、側面から黒色の人間の手足が無造作に生えている。
尾の先端には人間の頭のようなものがあった。ただ、胴体に張り付いてたものと違い、目も鼻も口もない。炭を塗りたくったように真っ黒で、異様な金属光沢を放っていた。
「あるいは崩壊の象徴」
縦横にグニグニと変形する黒い頭。
ああ、なるほどね。これが喋ってるんだ。
やけに冷静になった頭で納得する。
「知っている」
そう言ってクローディアスはしゃがみ込み、勢いよく立ち上がりながら剣を振り上げた。重なる風切り音と共に、巨大なバケモノ──いや、カオスへクスとやらは矢のように空へぶっ飛ばされる。
だが、その巨体は空中でピタリと止まった。気持ち悪い足を広げて何かに掴まっている。見えない足場に張り付いているかのようだ。
剣を構え直しながら、クローディアスは私たちに向かって言った。
「今すぐ逃げろ。お前たちを守りながら勝つ自信がない」
「そ、そんな……」
私は絶句する。召喚され師は圧倒的な力を持っているはずだ。現に先ほど魔物の大群を一撃で薙ぎ払った。それが勝つ自信がないなんて弱音を? カオスへクスとかいうバケモノはそれほどの相手なのか?
突然右腕を強く引っ張られた。ビクつきながら視線を向けると、ガーネが私の二の腕を掴んでいる。いつもの嫌味な笑みはなく必死の形相だ。
「リエル、来なさい! 逃げますわよ!」
「あっ……」
左手に魔法杖を掴み、ガーネに手を引かれるまま走り出す。
直後、凄まじい轟音が背後で響いた。走りつつ振り返ってみれば、カオスへクスがクローディアスに襲いかかっているところである。目にも留まらぬ速度で足を何度も打ち下ろし、装甲馬車を紙くずのように叩き潰す。胴体についた無数の顔は、痙攣しながら表情を変え続けていた。吐き気を催すような不気味な光景だ。
クローディアスは攻撃を剣で凌ぎながら戦っている。彼も彼で、人間とは思えない異常な速度で剣を振るっていた。時々重なる風切り音が聞こえる。あの回転する渦のような技を使っているのかもしれないが、カオスへクスはそれを何らかの方法で防いでいるようだった。
まさに化け物対化け物。せめて言葉の通じるクローディアスに勝ってほしい。
「くそっ、くそっ、何なのあいつは! あんな化け物、今まで影も形もなかったってのに!」
悪態をつきながら駆けるガーネ。そのまま付近の狼狽する兵士に声を掛ける。
「あなた達も逃げなさい、早く! ここはもう、人間の居ていい場所ではありませんわっ!」
「は、はいっ! 了解しましたっ!」
兵士たちは局長様の命令を受け、一目散に逃走を始める。
すごい。ガーネは私と同じ年齢だというのに、既にここまでのリーダーシップがある。今まで高慢ちきなお嬢様という面しか見ていなかったからか、その勇敢な姿には素直に感心してしまった。
「が、ガーネってすごい人なんですね……」
「は!? 当たり前でしょうが! 私はマイニュカッセ家の長女よ!」
ガーネは吐き捨てるようにして言う。私はこんな風に家柄に対して自信を持っていない。素の才能が足りてないからだ。何とも言えない思いが心の底で渦巻いた。
「一旦ここに隠れましょう……!」
二人で息を切らしながら大きなテントに駆け込む。中は金属製の質素なテーブルや椅子が並び、色々な資料のような紙が立て板に貼られていた。大きな箱が乱雑に置かれている。その手前で何人か軽装の兵士がこちらを見てるのも見える。
「局長! ご無事でしたか!」
「あ、当たり前じゃない……! 私を、誰だと思って……」
ガーネはゼエゼエと荒く息を吐きながら笑って見せた。どうも彼らは兵器開発局の者らしかった。つまり、このテントはガーネの物ということである。
私も息を切らしながら膝をつくが、はっきり言って今いる場所に不安しかない。
「こ、ここは大丈夫なんですか……?」
「装甲馬車、なんかより、ずっとマシですわ……魔法で相当。補強して、あるんですもの……それにここには、局から持ってきた、武器も、あるから……」
そうは言っても、今日は常識はずれのことばかり起こっている。あっさりぶち破られて全員死亡なんてことになったら目も当てられない。私は這うようにして出入り口に戻り、来た方向をそっと覗く。
また視界が漆黒に閉ざされた。反射的に上を見ると、つばの広い帽子が見える。やっぱりクローディアスだった。
「治療を頼む」
「えっ……!」
私は急いで立ち上がる。しゃがんだクローディアスの向こう遠くに、カオスへクスの巨体が倒れているのを見た。足をほぼ全部もぎ取られ、唯一無事な一本でもがいている。もうほとんど倒したようなものではないか。
いや、今そんなことはどうでもいい。
改めて彼の姿を確認すると、マントの右肩部分が派手に裂けていた。その下には筋肉が露出した大きな傷。強力な力で無理やり毟り取られたようで、繊維状のものが風に揺れている。
溢れ出す大量の血に、胸がどくどくと高鳴った。もう傷口しか見えない。
「動かないでください」
呪文を唱え始める。
「《眩い木漏れ日、恒久の癒し──》」
彼の傷口に魔法杖と左手を当てる。予想以上に傷が大きく、杖と手のひらを当てても傷口がはみ出してしまう。失った組織の量もかなりのものになるだろう。思わず喉が鳴った。
「《止まる、留まる、天の慈悲。注ぎ注ぎ癒されよ、治癒》」
薄緑の強い光が傷を癒し始める。筋肉や神経が次々に繋ぎ合わされていくのがはっきり見えた。よしよし、いい調子だ。この勢いならすぐに──。
「まだかかるか」
クローディアスの催促の声で心臓が破裂しそうになった。視界が急速に広くなる。彼の暗い瞳が私を見つめていた。
「リエルッ!」
ガーネの声。悲鳴に近い。ふと不安に駆られ、外の方を見た。
「我々はカオスへクス」
ああ。
カオスへクスの黒い頭が目の前にあった。
奴は足一本で胴体を引き摺り、ここまで高速でにじり寄ってきたのだ。胴体に張り付いた老若男女の視線は、すべて私の方へ向いている。
非難、嘲り、憐み……生気のない死んだ瞳なのに、あらゆる侮蔑の感情が私の心に流し込まれていく。
「あ、え、あうぁ」
バカみたいな呻き声を上げながら尻餅をついた。がらん、と魔法杖が転がる。
かちかちかち。かちかちかち。顔たちが歯を打ち鳴らす。まるで無能な私を見て笑っているみたいだ。視界が歪んでいく。
「あるいは混沌の使者。あるいは崩壊の象徴」
ごう、という音と共に、カオスへクスの足が打ち下ろされた。同時にクローディアスが剣を引き抜いて防御を図る。
凄まじい金属音が炸裂する。もはや爆発だ。
「ぐっ……」
目の前で上がる呻き声。右腕はまだ大怪我といって差し支えない状態だ。ぶちぶちと筋肉が悲鳴を上げながら裂けていく。ダメだ、押し切られてしまう。
直後、閃光がカオスへクスの頭を撃ち抜いた。
慌てて振り返ると、ガーネが杖らしきものを真っ直ぐ構えている。先端に付いていたと思われるタグか何かが燃え尽きて地面に落ちた。
「試作品の即射魔法杖ですわ。ありったけ使ってあげるから感謝しなさい!」
そう言ってガーネは詠唱もなしに火矢魔法を連続で撃ち出した。兵士たちも箱から同様の魔法杖を取り出し、次々にカオスへクスへと閃光を叩き込む。私はその場に伏せるしかなかった。
本来は火球よりも遥かに長大な呪文を必要とする、強力無比な火矢魔法。それが、皇国軍兵士の持つ銃を大幅に上回る連射力でカオスへクスの顔面を焼く。
これが召喚され師の技を見る前であったら腰が抜けていただろうが……。
「我々はカオスへクス」
爆音の中でもその嫌な声は朗々と響き渡る。やっぱりというか何というか、奴は大してダメージも受けていない様子だった。絶望的な状況だ。
「くっ、なんて奴なの!」
「あるいは混沌の……」
「黙れ」
耐えていたクローディアスが声をあげる。剣を背中側に滑らせ、カオスへクスの胴体へと突っ込む。枝が折れるような音とともに彼の太い右腕が派手に裂けるのが見えた。
そのまま勢いをつけると、左肩でカオスへクスの胴ど真ん中へとタックルの一撃を見舞う。カオスへクスは激しく吹っ飛ばされ、ゴロゴロ転がりながらテントの一群に飲まれた。
クローディアスはだらんと垂れた右腕から左手で剣をもぎ取る。それは大怪我を負っているとは思えないほどの早業だったが、カオスへクスの立ち直りも早かった。一本の足でテントの山を吹き飛ばすと、なんとその足で跳躍したのである。
しかし、クローディアスの速度を上回ることはできなかった。
落下してくるカオスへクスの胴体へ向けて、彼は切り上げるようにして剣を振る。それは灰色の堅牢な表皮に沈み、体内へと捻じり込まれる。呻くような、寝言のような、曖昧な雰囲気の声がした。
「終わりだ。吹き飛べ」
剣を捻り、左へと斬り払う。風切り音の重なりが不気味に響いた。その瞬間、張り付いた顔たちが一斉に白目を剥く。そして、思い思いに悲鳴の大合唱を始めた。
「ぎゃあああ!」
「があががあ!」
「ぐぎぎぎい!」
耳を塞いでもその大音声は脳髄に響き渡る。私は割れそうな頭を必死で抑えながら、頰を涙が伝うのを感じていた。
終わる。ようやく、この悪夢のような時間が終わるのだ。カオスへクスの死によって──。
ピタリと悲鳴が止んだ。全ての顔が事切れ、巨体が落ちる。足が力なく地面に叩きつけられる。自分の鼓動だけがはっきり聞こえている。
「や、やった──」
歓喜して身を起こしたその時、カオスへクスの震え声が不気味に響いた。
そんなバカな話があるか。風の渦を体内にねじ込まれて、まだ生きてるなんて。
「我々はカオスへクス。あるいは混沌の使者。あるいは」
何かを察したかのか、クローディアスはカオスへクスに蹴りを入れて吹き飛ばす。そして、振り向きながら叫んだ。
「伏せろっ!」
「崩壊の象徴」
瞬間、カオスへクスが弾けた。
どす黒い赤の閃光がテントを引き裂く。地面をえぐる。目が眩んだ。
そして、私は気を失った。