父とのひととき
ジャネットが行儀見習いに出てもうすぐ二ヶ月が経とうとしていたこの日、束の間の休日を王宮で宛がわれた部屋で過ごしていたジャネットのもとに、嬉しい来客があった。
「まぁ、お父様! ご無沙汰しておりました」
「やぁ、ジャネット。元気にしていたかい?」
ジャネットはその来客の姿を認めるとぱあっと表情を輝かせ、慌てて出迎えるために椅子から立ち上がった。その様子を見たジャネットの父親であるピカデリー侯爵は柔らかく微笑んで両手を広げる。ジャネットは迷わずその胸に飛び込んだ。父親が優しくジャネットを抱擁する。
父親と会うのは実に約二ヶ月ぶりだ。これまで毎日のように顔をあわせていたのだから、こんなにも離れたのは生まれて初めてかもしれない。
ジャネットはあの運命の舞踏界の翌日、突如としてシルティ王女殿下からお茶会のお誘いを受け、そのままあれよあれよという間に行儀見習いとして王宮に留まることが決まった。別れの挨拶もしていないのだ。
「お父様、今日はどうされたの?」
「ちょうど王宮に用事があってね。ジャネットの様子が気になったから見に来たんだよ」
「まぁ、そうだったのですね。ご心配をおかけしました。お父様とお母様はお変わりないですか?」
「ああ、変わらずに元気にしているよ。ジャネットも元気にしているようだね」
「はい。見ての通りですわ」
ジャネットは両手でスカートの端を抓むと、優雅にお辞儀をして見せた。毎日のようにアマンディーヌから厳しく特訓を受けているので、背筋もピシッと通った完璧な所作だ。
「これはこれは。少し見ない間にとても魅力的なレディになったね。それに、とても綺麗になったんじゃないか? まぁ、元々ジャネットは世界一可愛らしいがね」
ピカデリー侯爵の目尻に深い皺が寄る。ジャネットはピカデリー侯爵家の一人娘なので、それはそれは可愛がられて育った。ピカデリー侯爵は事あるたびにジャネットに『世界一可愛らしい』と言う。まあ、それが親の贔屓目であることはジャネットも既に百も承知だが。
「お父様、褒めすぎですわ」
「褒めすぎ? そんなことはない。食が細いから痩せすぎていて心配していたんだが、少しふっくらして顔色も良くなったし、とても健康的にみえる。綺麗になったよ。わたしがあと二十歳若かったらここで跪いて求婚していたくらいだ」
「まあ、お父様ったら!」
ジャネットはクスクスと笑う。
『綺麗になった』という言葉は、ジャネットにとって、お世辞でもとても嬉しかった。この一ヶ月の努力の成果が少しは出ているだろうか? 父親であるピカデリー侯爵はスッと一歩下がると、ジャネットの前に手を差し出した。
「美しいお嬢さん。一緒にお散歩でも?」
「ええ、喜んで」
ジャネットは口の両端を持ち上げて、小さくお辞儀する。ピカデリー侯爵も得意げに口の端を持ち上げると、エスコートのために大袈裟なくらいに肘をピンと立てた。
父親にエスコートされながら、ジャネットは王宮の庭園に散歩に行った。
ピカデリー侯爵家の庭園もとても美しいが、王宮はやはり国中の優秀な庭師を集めているだけあり、その美しさは群を抜いている。全ての植物が咲き時を綿密に計算されており、色合いも全体の調和がとれるように配置されている。その庭園は、宮殿側から見下ろすとあたかも幾何学模様を模った絨毯敷きのように見えた。
足元で可愛らしく咲くペチュニア、小さな体で大きく自分の美しさを強調するパンジー。その完璧までに造り込まれた緑の中を歩いていると、自然と笑みがこぼれる。
その時、ジャネットは前方を見て、ふと足を止めた。ジャネットが見つめる先にあったのは、ミニバラの花だ。ダグラスと初めてピカデリー侯爵家の庭園でお散歩した日、彼はジャネットの髪に咲いていたピンク色のミニバラを飾った。
「お父様、ダグラス様は……」
「ああ。彼は相変わらずだね」
「そうですか。お元気なら、よかったですわ」
ジャネットは、そういうと静かに前方にミニバラから視線を外した。ダグラスは他のご令嬢をエスコートしたいと尋ねた手紙を寄越したあの日以降、手紙の一つもくれない。
ジャネットは一抹の寂しさを感じた。
確かに、この婚約はジャネットが父にお強請りして実現させたものだから、最初からダグラスに恋愛感情がないことは分かっていた。けれども、ジャネットは勿論、ピカデリー侯爵も決してダグラスやウェスタン子爵家に無理強いをしたわけでない。あちらが納得して合意したのだから、疎まれる理由がないのだ。
このことからも想像がつくが、きっとダグラスにとって、ジャネットは手っ取り早く高位の爵位を手に入れる駒でしかないのだろう。
急に無言になったジャネットを見て、ピカデリー侯爵はスッと目を細めた。
「ジャネット。お前がどうしてもと望むならわたしも反対しないが、今ならまだ別の道を選ぶことだってできるんだぞ?」
「あら、まあ……。でも……はい」
ジャネットは小さく返事をした。
きっと父親であるピカデリー侯爵は、全て知っているのだ。全て知った上で、ジャネットの気持ちを尊重してくれている。
「父さんはこう見えて意外と偉いんだ。気が変わったなら、言いなさい。なるべく穏便に済ませよう」
ピカデリー侯爵が器用に片眉をあげる。
ジャネットは、曖昧に微笑んだ。
その言葉が意味するところは、この婚約を破棄にしてもよい。その場合は、なるべくジャネットに悪評が立たないように処理するということだ。しかし、一方的にこちらから婚約破棄をすれば先方からは莫大な慰謝料を請求されるだろう。どんなに手を回しても、ジャネットに多少の悪評だって立つはずだ。
ダグラスはジャネットの初恋の人だ。ジャネットは出来ることなら、この冷え切った二人の関係をよいものに変えたかった。
けれど、時々分からなくなるのだ。
優しく微笑んで新緑のような瞳でこちらを見つめたあの少年。年月の流れが人を変えることは自然なことだ。それでも、ダグラスの不誠実な態度とあの少年の優しい眼差しとはにかんだ笑顔があまりにも違いすぎて、戸惑いを覚えずにはいられない。ふとしたときに胸の内に広がる違和感──
「……お父様、ありがとうございます」
それしか言うことが出来なかった。
アマンディーヌが言う六ヶ月間が終わった時、自分を待つ未来はどうなるのだろう。当初の目的通りダグラスを夢中にさせるようないい女になり、幸せな結婚をする? それとも……
ビュンと大きな風が木々を揺らした。ピカデリー侯爵は上着の前を片手でぎゅっと抑えると、ジャネットの背に手を添えた。
「風が出てきたね。そろそろ戻ろうか」
「そうですわね」
ピカデリー侯爵に促され、ジャネットは小さく頷いた。