レッスン5 ダンスは貴族令嬢の嗜み
ジャネットの住む国における貴族にとっての一番の社交の場。それはもちろん舞踏会や夜会である。サロンと呼ばれる比較的こじんまりとした集会もあるが、やはり大規模なものは王宮や有力貴族の屋敷で開催される舞踏会だ。
そして、舞踏会では男女がペアを組んでダンスを踊る。男性が女性をリードして向き合って踊るものが主流で、そのダンスが下手くそだと男女ともに社交界で恥をさらすことになるのだ。
王宮には大きなダンスホールがある。ジャネットが毎日のようにヨガレッスンをしているあのダンスホールだ。
千人規模の招待客が入っても余裕のある広さがあり、壁や天井には王家のお抱え絵師による繊細な作品が惜しげもなく描かれている。その合間合間の桟の部分には全体に金箔が貼られ、天井からは大きなシャンデリアがぶら下がっている。
まさに豪華絢爛という言葉がぴったりのこのダンスホールに、この日、オネエの声が響き渡っていた。
「はい。一、二、三、ここでターン。優雅にクルリとね」
手拍子と共にアマンディーヌが指示を出す。ジャネットはレッスン相手をしている近衛騎士に片手を預け、クルリと回った。気分の上では優雅にクルリと回ったのだ。
「いっ」
「あら、失礼しました」
近衛騎士が小さく悲鳴を上げたのでジャネットは慌てて謝る。今、よろけた拍子にパートナー役の近衛騎士の足を思いっきりヒールで踏んでしまったのだ。
そう、何を隠そう、ジャネットはダンスがとても下手くそだ。舞踏会に行くと友人のご令嬢達がこぞってダンスの予約カードを全て埋めようと必死になるのに対し、ジャネットはいつも『私、もう全部埋まってます』的な雰囲気をかもしだしてやり過ごす。もちろん、実際には一行も埋まっていない。だが、既に婚約者のいるジャネットとしては一向に構わないのだ。
「ストップ、ストーップ! ちょっとアンタ、真面目にやる気あるの!?」
パンパンっと手を叩いてアマンディーヌがダンスを止めた。美しい顔の眉間に僅かに皺が寄り、不機嫌さが滲んでいる。
「遊びじゃないのよ? ふざけないで」
「ふざけてなどおりませんわ。わたくしは至って大まじめです」
ジャネットは少しムッとして口を尖らせた。ジャネットは確かにちょっとばかしダンスが苦手だが、これでも大まじめにやっている。ふざけているなどとは、とんでもない言いがかりだ。
アマンディーヌは顎に手を当てると、少しだけ考えるように沈黙した。
「ジャネット嬢。ちょっとそこで一人でステップを踏んでみて」
「お安いご用ですわ」
アマンディーヌの一、二、三の声に合わせてジャネットは華麗にステップを踏む。うん、なかなかの出来である。
「……今のはなに?」
アマンディーヌが小さく呟く。横で同じく眉を寄せてジャネットを眺めていたシルティ王女殿下はハッとしたように表情を明るくし、ポンと両手のひらを打った。
「わたくし、わかりましたわ! タコの真似ですわね? とてもお上手です」
「タコ? 言われてみれば、確かにそうね……」
アマンディーヌがつかつかとジャネットに歩み寄り、ポンと肩を叩いた。
「ジャネット嬢。とても見事なタコの創作ダンスだったわ。けれど、わたし達は今、舞踏会のダンスの練習をしているの。それは知っていて?」
「もちろんですわ」
ジャネットは深く頷いた。私達は今、舞踏会の練習をしている。そんなことはジャネットとて百も承知だ。更に言うならば、ジャネットが今さっき披露したのはタコの創作ダンスではなく、ワルツの初級ステップである。
「では、ちゃんとワルツのステップを踏んで欲しいの」
「わたくし、あれしか習っておりませんわ」
「何ですって?」
「あれしか習っておりません。あれが出来ればどこにでも通用すると教わりましたわ」
ジャネットはアマンディーヌに言い聞かせるように、胸を張ってはっきりとそう言った。ジャネットのダンス技術が壊滅的だと早くから気付いたピカデリー侯爵家のダンス家庭教師は、『これさえ覚えれば、あとは何とかなる』と言って、ひたすらジャネットにワルツの初級ステップだけを教え込んだ。ジャネットもダンスレッスンが好きでなかったのであまり熱心には練習しなかった。すなわち、ジャネットにはこれ以外は踊れないのだ。
「ピカデリー侯爵はまだ四十代前半なのに、ボケてしまわれたのかしら? なぜ一人娘にタコの創作ダンスを?」
「いやですわ、アマンディーヌ様まで。タコの創作ダンスではなくて、ワルツの初級ステップですわ」
「?? ごめんなさい。わたし、耳が……」
心底不思議そうに見返すのはやめてもらいたい。まだ下手くそだと罵倒された方がましである。アマンディーヌの耳たぶを引っ張って口を寄せると、ジャネットは声を大にして叫んでやった。
「ワルツの初級ステップですわ。ワ・ル・ツ・の・初・級・ス・テ・ッ・プ。もしもしー、聞こえますかー? ワルツよ。ワ・ル・ツ」
「煩いわー!!」
アマンディーヌの怒声が響く。ピシッと鋭い痛みが走り、またもやデコピンされた。
「痛いわっ」
「お黙り! アンタ、どこまでわたしの予想の斜め上をいけば気が済むの。ダンスは貴族令嬢の嗜みなのよ! ダンスが上手い女性は五割増しでいい女度が上がるのよ!!」
「マァ。ソレハスゴイデスワネー」
ジャネットはそう相槌を打ちながら、明後日の方向を見た。窓から差し込む光が壁の金箔に反射してキラキラと輝いている。なんて美しい、この風景。そうだ、今日はこの後にお散歩に行きましょう。
「ちょっと。なんで明後日の方向みてんのよ。現実逃避は許さないわよ」
「あら、いやだ。そんなことはありませんわ。あっ、アマンディーヌ様。実はわたくし、ダンスは踊れなくても大丈夫なんですの」
「大丈夫?」
「ええ。実はわたくし、凄い特技があるのです」
ジャネットは勿体ぶるように少しだけ声を落とした。
「凄い特技? 一体どんな?」
アマンディーヌは驚いたように目を見開き、それを聞き出そうと同じように声を落とした。二人は内緒話するように顔を寄せる。
「実はわたくし、ダンスが踊れない代わりに、壁の花を演じさせたら王国一の腕前ですわ。ほらっ、誰も気づかない」
ジャネットは胸を張って声高々に宣言した。ダンスホールの壁に寄ると、そこに描かれた絵画の一部となりきって静かに佇む。
我ながら完璧な同化ぶりだ。きっとカメレオンもびっくりだろう。毎回のようにダグラスがジャネットを放置するので、いつもこれで舞踏会を乗り切っているのだ。この技術には相当の自信がある。『クイーン・オブ・壁の花』を選ぶなら、初代クイーンを勝ち取ること間違いない。
「あらまあ、本当だわ。ジャネット様、凄いですわ。まるでいないみたいだわ」
シルティ王女が感嘆の声をあげる。
「これは驚いたな。悪気なく素通りしてしまいそうだ」
近衛騎士達も驚きの声を上げる。ジャネットはフフンと得意げに口の端を持ち上げた。
「あら、わたくしにかかればこれくらい大したこと──」
「テメー、黙ってろーーー!!!」
アマンディーヌの怒声が大きなダンスホールに響き渡る。
「アンタ、そんなんだから舞踏会中に誰からも見向きもされないのよ!」
「誰からも見向きも……」
いや、なまじ事実なだけに心にグサリと突き刺さる。アマンディーヌは拳をふるふると震わせながらジャネットににじり寄った。
「アンタ、特訓するわよ! 特訓よ!! 特訓よー!!」
オネエがなぜか三回も同じ台詞を叫んだ。
「えー、たぶん無理だと……(メンドクサ……)」
「えー、じゃない! 無理でもない!!」
最後は首根っこを掴まれた。
その日以降、ダンスホールからは優雅な「一、二、三」ではなく、拳法の気合を入れるような厳つい「一、二、三」と怒声が響き渡るようになったとか。