レッスン3 インナーマッスルを鍛えましょう
最初のうちは十分に一度は落としていた布袋も、一週間もするとあまり落とさなくなってきた。しかし、ジャネットは別の問題に直面していた。
「い、痛い……。お腹が……」
動くたびに襲ってくるのは鋭い痛み。そう、ジャネットは激しい筋肉痛に襲われていた。
「ジャネット様。大丈夫ですか?」
心配そうにシルティ王女がジャネットの顔を覗き込む。ジャネットは慌ててオホホっと愛想笑いを作った。
「あら、もちろん大丈夫ですわ。お見苦しいところをお見せして失礼いたしました」
本音を言えば、全然大丈夫じゃない。笑うたびに腹筋に鋭い痛みが走り、日常生活に支障がでそうだ。しかし、もうこれはこの頭の布袋を落とさないようにするほかどうしようもない。
ジャネットの言葉を聞き、シルティ王女はホッとしたように微笑んだ。
「よかったわ。今日からジャネット様を別のレッスンにお誘いしようと思っていたの。ねえ、アマンディーヌ?」
「はい。今日から参加して貰います」
「別のレッスン……」
ジャネットは眉をひそめる。
「ええ。ジャネット様もご一緒に、この後早速向かいましょう」
にこにこしながらそう言ったシルティ王女を見つめながら、ジャネットは嫌な予感をびんびんと感じとっていた。
***
レッスンに先立ってアマンディーヌから手渡されたのはゆったりとした上着とズボンだった。シルティ王女も同じ服を渡され、着替えるという。その見慣れない服を着て辿り着いたのは、何故か王宮のダンスホールだ。
広い王宮のダンスホールには、見慣れない薄いマットが敷かれていた。高い天井から煌びやかなシャンデリアがぶら下がる大きなダンスホール。その床を覆う豪華な絨毯敷きの上にちょこんと置かれたマットレス。部屋を見渡しても他に特に道具はない。まさかここで昼寝でもするのだろうかとジャネットは不思議に思った。
「ここで何を?」
「ダンスのレッスンもよくするけれど、今日はヨガをするわよ」
「ヨガ?」
アマンディーヌから発せられた聞き慣れない単語に、ジャネットは眉根を寄せた。ヨガなんて聞いたことがない。
「ヨガは外国の健康法の一つよ。インナーマッスルを鍛えるの」
「インナーマッスル?」
またもやジャネットの知らない単語である。
「身体の中の筋肉を鍛えるのよ。いいこと? 今ジャネット嬢には日々太って貰っているけれど、このままでは豚になるわ」
「ぶ、豚!? アマンディーヌ様が太れって言ったんじゃないですか!!」
あまりの言いっぷりに、ジャネットは思わずアマンディーヌに詰め寄った。婚約者を骨抜きに出来るように美しくなるはずが豚にされたのでは話が全く違う。
「まあ、落ち着きなさい」
アマンディーヌはジャネットの肩をポンと叩く。
「魅惑的な貴族女性とはそれなりに豊かな胸と触れればマシュマロのような柔らかな身体、そしてほっそりとした腰がセットものなのよ。けれども、ほっそりとした腰を作るために痩せると体は骨ばる。柔らかな身体を作れば腰回りもぽっちゃりする。この二つを両立させることこそ魅惑的なボディの勝ち組への道なのよ!」
アマンディーヌが声高らかに宣言すると、横からパチパチと拍手が聞こえてきた。ふと見ると、シルティ王女が感動したように目を輝かせ、拍手を贈っている。壁際の見目麗しい近衛騎士達もうんうんと同意するように頷いている。
そうなのか? そうなのか?? 体型には好みがあるのでは? と、ジャネットはちょっとした疑問を覚えた。ジャネットの友人のご令嬢にもムキムキの軍人体型が好きな方もいれば、スレンダーなソフトマッチョが好きな方もいる。
「もし。騎士様もふくよかな胸とほっそりとした腰のセットものがお好きですか?」
ジャネットはとりあえず、一番近くにいた近衛騎士に尋ねた。
「それはもう、理想的であります」
見目麗しい近衛騎士がにっこりと微笑む。どうやらこの男にとってはアマンディーヌの言うことが正論らしい。ジャネットは頷いて、横にいる近衛騎士の前に移動した。
「では、あなたも?」
「もちろんです。そのふっくらとした肌に思わず触れて吸いつきたくなりますね」
次に尋ねた近衛騎士も口の端を持ち上げる。ハゲデブのおっさんが言ったら犯罪予備軍と大騒ぎになりそうなこの台詞も、見目麗しい近衛騎士が言うと何故かセクシーに聞こえる。なんという世の不条理。ジャネットは無言で頷いて次の近衛騎士に声をかけた。
「では、あなたも?」
「わたしはどちらかと言えば、ないものを集めるのが……」
「集める?」
ジャネットが眉をひそめて怪訝な声で聞き返すと、アマンディーヌがすっ飛んできてガシッと近衛騎士の肩に腕を回した。
「とにかく、ボン・キュッ・ボンのボディを手に入れることが重要なの。アンタもそう思うでしょ? そうよね?」
「はっ。そのとおりであります」
心なしかアマンディーヌの眼光がいつも以上に鋭く見えるのは気のせいだろうか。
「さっき何かを集めるって言ってたわ」
「『魅惑的過ぎて視線を集めるのは困る』と言いかけました」
「そう?」
ジャネットは首をかしげる。だが、本人がそう言うならそうなのだろう。
とりあえず今ここに三人いる男性が三人とも合意したということは、この理論は世の大多数の男性にとって間違いないらしい。アマンディーヌも男とカウントするならば四分の四だ。ジャネットもようやく納得した。
「そういうものなのですね。分かりましたわ」
「分かってくれてよかったわ。では、わたしの格好を真似するのよ」
アマンディーヌが正面に座り、シルティ王女がそれに向かい合うように座る。ジャネットも見よう見まねでシルティ王女の隣のマットに座った。ちょっとした準備運動をしてから、アマンディーヌがシルティ王女とジャネットと向き合うようにあらためて座り直した。
「はい。まずはこのポーズ」
アマンディーヌがしているのはマットの上に座って胡座をかくようなポーズだ。ジャネットもアマンディーヌも真似をする。吸って、吐いて、というかけ声に合わせて呼吸すると、なんだかリラックス出来たような気がしてきた。
「続いてはこれ」
その次のポーズも座ったままで、今度は足の裏をぴったりと合わせた。これも難なく出来る。このレッスンは楽勝かも知れないと、ジャネットは心の中でガッツポーズをした。
「はい。次はこれよ」
何度目かのポーズは仰向けになって尻を高く上げ、足をピンと天に向かって伸ばすポーズだった。この辺から雲行きが怪しくなる。足を支えると筋肉痛のお腹がプルプルと震え、容赦ない激痛がジャネットに襲い掛かる。
「い、痛い……」
「こらそこ! 足を揺らさない!! もっと上げるのよ!!」
間髪を入れずにアマンディーヌの怒声が広いダンスホールに響き渡る。あのオネエ、目がいくつついてるんだ? とジャネットは恐れおののいた。
「さあ、のってきたところでこれよ」
柔らかに微笑むアマンディーヌがまたポーズを変えた。
全然のってないし! と言いたい気持ちを必死にこらえ、ジャネットはアマンディーヌを見た。爽やかな笑顔でアマンディーヌがとっているポーズは両手を真っ直ぐに広げ足は両足を揃え、まるで身体を十字架のように見せるものだった。片手と足が床に付いており、身体を斜めに真っ直ぐ支えている。
隣のシルティ王女殿下がそのポーズをまねて難なく行っているのを見て、ジャネットもその真似をした。
ところがだ。見た目は簡単そうに見えるこのポーズ、なかなかのものだ。腕はプルプル、お腹もプルプル、全身プルプルである。生まれたての子鹿のごとく全身をプルプルと震わせていたジャネットは、遂に力尽きて崩れ落ちた。
「まぁ、ジャネット様。大丈夫ですか?」
シルティ王女が心配そうに駆け寄る。アマンディーヌも立ち上がってジャネットの前に寄ってきた。
「ジャネット嬢。圧倒的にインナーマッスルが足りてないわ。これはキツいわね」
はぁっと息を吐くアマンディーヌを見て、ジャネットはこれはチャンスだと気付いた。これでお役御免だと首振り人形のごとくコクコクと首を振る。
「そうなのです。やっぱりわたくしには難しいみたいで……」
「そう……」
「はい! とても無理ですわ!」
「仕方ないわ……」
アマンディーヌがはぁっと息を吐く。その様子を見て、ジャネットは申し訳なさそうに顔を俯かせる。しかし、脳内では『ミッションコンプリートォォォ!』と拳を握り、声を大にして叫んでいた。
「ジャネット嬢にだけ、シルティ王女殿下とは別に特別レッスンを追加しましょう」
「え゛?」
「安心しなさい。わたしはジャネット嬢を見捨てたりしないわ」
顔を上げるとアマンディーヌが親指を立てて、歯を見せて爽やかに笑っていた。今この状況で全く無用の爽やかさと男前っぷりである。
「まぁ! よかったですわね、ジャネット様。わたくしも最初は付いていくのが大変で大変で。頑張って下さいませ」
シルティ王女殿下は感動したようにジャネットの両手を握った。
「え゛え゛!?」
お役御免のはずが何故かレッスン強化されるというこの摩訶不思議な現象。
「いやぁぁぁーーー!!」
「まぁ、こんなに感激するほど嬉しいのね」
「本当に。よかったですわ」
アマンディーヌとシルティ王女殿下はよかったよかったと頷きあう。ジャネットの歓喜(?)の悲鳴がダンスホール中に響き渡った。